「愛の法則」
- 魂の目的は、自身の自由な決断で、無条件の愛の経験を通して、幸福になることである。
- 愛なくして進化はなく、愛なくして叡智はなく、愛なくして幸福はない。
- 愛は、霊的宇宙を調和し躍動させる力である。
あなたから見て、人間が実現しようと望めるものの中で、最も大事なものは何ですか?
永続的な真の幸福に至ることだ。
その幸福に達するための秘訣は何でしょうか?
愛することだ。だが、これは何も秘密ではない。それぞれの魂は、つまり誰もが、幸せになるためには愛が必要なことを直感的に知っている。進化の行程は初めから終わりまで、幸せになるために愛の能力を高めるという目的のためにある。
どのような道を辿ればいいのでしょう? つまり、愛において成長したければ、どこから手がければいいのでしょうか?
道はまず自分から始まり、そして他者へと続いている。要は、他の人びとを愛することができるためには、自分自身を愛さなければならないということだ。
誰もが辿るべき道を知っているのだとしたら、僕たちがまだ目標に達していないのはなぜでしょう? 僕の印象では、幸福だと言い切れる人は世界にほとんどいないようなのですが。
たやすく短い道だと思ってはならない。自分自身を愛し他者を愛するというプロセスでは、最終目的地に到達するために幾つもの段階を通らなければならない。ゴールは、自分を愛するように無条件でどんな人でも愛することだ。
イエスは「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい」という簡潔だが深遠なメッセージに、このことを要約してみせた。それは、無数の転生を繰り返して多くの経験を積むこととなる道程だ。
これは二重の修行となる。一方では、愛の感情を発達させねばならず、もう片方では、エゴ(我欲)の一掃に努めねばならない。
前作では、霊的な視点から見たエゴのさまざまな段階――虚栄心・自尊心・自負心――についてと、それぞれの段階でエゴがどのように顕現するかについて説明した。だが、今回は、愛の感情について掘り下げて話してみたいと思う。愛というものが、どのように自己から他者へと少しずつ広がっていくかだ。他者とは初めは一番身近な人たちであるが、最終的には我々と全く縁のない人たちへと向かうのだ。
カップルの愛や家族内(親子間)の愛、人間関係と社会における愛について話そう。また、エゴというものがどのように愛のすきまにつけ入り歪め、人を惑わせて愛と幸福の道から逸らせてしまい、甚大な害を及ぼすのかについても分析するとしよう。
愛を育むにあたっての最大の敵がエゴであるが、エゴは多くの様相を有している。それらをよく把握しておかなければ、私たちは進化から外れてしまい、羊の皮を被った狼のような、愛を偽ったエゴに流されているだけなのに、愛しているのだと思い込むに至ってしまう。
でも、自分を愛するとはどういうことですか。
自由な愛の感情に基づいて行動するということだ。つまり、人生における重要な決断を心で感じることに従って下すことができるように、自分の愛情の欲求と感情とを認めて、それらを人生の牽引力となるように発展させていくことだ。
では、他者を愛するというのは?
他者を自分のように感じることだ。相手を自分自身のように思えると、その人の幸せを自分のことのように喜ぶことができ、その人の痛みを自分のもののように感じるものだ。他者を愛すると、自分に対して願うように、その人にも幸せになってほしいと思い、幸福になる手助けをするものだし、自分の行為によって相手が苦しんだり傷つかないように努めるものだ。
苦しみはどこで生まれるのでしょうか?
苦しみは他者のエゴ的な行為が原因であることも、自分自身のエゴに起因する場合もある。つま他者の利己的な行動で傷つけられて苦しむ時もあるし、我々自身のエゴが相手の行為を誤って裁いてしまい、実際には我々の要求や期待通りに動いてくれなかっただけなのに、それを自分の苦悩の原因にしてしまう時がある。
また、自己の感情を抑圧して素直に生きられない場合に苦しむこともあるが、これは、より激しい苦悩の誘因ともなる。
どうしたら他者の行為が原因となって苦しんでいるのか、それとも自分の姿勢が原因なのかを見分けることができるのですか?
自分に正直になってみるのだ。正直にならない限り、進歩はできない。というのも、現実をありのままに受け容れて認めることができれば、自分の態度を改められるのに、現実を曲げて見ていると、自分や他者のエゴ的行為を正当化したり、我々の自然な感情を抑圧してしまうことになるからだ。
では、他の人たちが僕たちの行為で苦しんでいるのかは、どうやって知ることができるのですか?
傷つけようなどと思っていなくても他の人を苦しめてしまう場合もありませんか? このような場合はどうしたらいいのでしょう?
原因が、我々自身のエゴ的な行為なのか、他者のエゴによるのか、それとも自分の感情を抑えつけているためなのかを決めつける前に、苦しみがどこから生じているのかを見極めなければならない。
自分の愛する者でも、避けてあげることのできない苦しみというものもある。それらは彼ら自身のエゴが誘因となって人生に現れ出るもので、過去の自己のエゴ的な行為の代償と向き合っているケースだ。このような場合に、私たちがしてあげられる最善のことは、ひょっとすると彼ら自身のエゴ的な行為が原因で苦しんでいるのかもしれないとわかるように上手く気づかせてあげ、他の人に同じような苦痛を味わわせないようにその経験を活かしてもらうことなのだ。
生まれる前に彼ら自身が選んだ、厳しい試練に直面したために出現する苦悩というのもあるのだが、これらの逆境も霊的な学びのプロセスの一部である。このような場合には、そういう経験をしている人を元気づけて、上手く関門を通過できるように勇気と希望を与えてあげて、その試練には意味のあることと、乗り越えられたら霊的に成長できることを気づかせてあげる。
第三者から、僕たちがその人を苦しめていることを伝えられた場合には、どう対処すべきですか?
正直にありのままを見るのだ。最初に、その人に対する我々の態度を分析してみて、自分のエゴを認識できるかどうかを見てみる。
もし相手に痛手や苦痛を与えるような我々自身のエゴ的な態度に気づいたならば、そのエゴ的な態度を修正するのは我々の方だ。我々自身の利己的な言動を認識するということは、霊的な学びの一環である。なぜなら人は多くの場合に、他者を傷つけていることも知らずに、利己的な行動をとってしまうからだ。だから、相手に与えてしまった苦痛を感受するためにも、自分の行為の結果を体験することが必要となる。
その人に対する自分の愛情を抑えているがために相手が苦しむというケースもある。感情を抑制することは、自分自身を傷つけるだけではなく、他の人をも傷つけることになるからだ。つまり、その人は愛を与えてもらえないので、苦しむことになるのだ。
相手の苦悩が我々のエゴによるものではなく、その人自身のものであること、つまり、その人の現実の受け留め方が間違っている可能性も検証してみる必要がある。このような場合は、その人にとって物事が思い通りにいかなかったり、我々がその要求や期待を満たさなかったために、その人自身のエゴ的な態度が、不当にも、我々の行動を利己的に見せているのである。
この最後のケースでは、相手の欲求を満たすべきでしょうか? 苦悩を回避してあげるために、その人の期待しているものを与えてあげるべきか、ということですが。
常識を使って、相手の求めているものが公正で誠実なものなのか、そして実際にそれを叶えてあげることが君たちに可能なのかを判断してごらん。いずれにせよ、強要されるべきではない。なぜなら、何かを要求するという行為自体が利己的であるからだ。少なくてもお願い事という形を取ってもらわないといけないし、ノーと答えても根に持たれてはならない。でないと、自由意志の侵害となってしまう。
どんな場合においても、他者を悦ばせるだけのために、したくもないことを義務としてするのはよくない。自分の意志や自由を放棄しても自己成長できないし、相手の成長を助けることにもならないので、無駄に苦しむだけだ。相手のエゴを満たしてやっているだけになる。
たとえるとすれば、ちゃんと歩けるくせに足が不自由なふりをしている人を背中にしょってやるのと同じで、無益な努力なのだ。独りでできることをやってあげたとしても、それは不必要に骨を折って、その人を満足させているだけだ。
でも、好きな人のためには犠牲を払いなさい、という意見の人もいますよ。自分の幸せよりも愛する人の幸福を優先すべき、ということですが、これについてはどう思われますか?
そういうふうに考えてしまうのは間違いだ。人の幸せというものは、別の人の犠牲の上に成り立つものではないからだ。天が幸福になる権利を放棄しなさいと誰かに言ったとしたら、それは不公平だろう。すべての霊的な存在は幸せになる資格があるが、そのことによって他の人の権利が減ってしまってはならない。そのため、他者のために自分の幸せを諦めることも、自分が恩恵を得るために他の人に犠牲になってほしいと求めることも、どちらも公正ではない。幸せになる権利を損ねてしまうものは、愛とは言えずにエゴなのだ。
混乱してしまうのは、君たちが愛という概念を誤って解釈しているからだ。君たちの愛し方というものは、ほとんどの場合においてエゴまみれなので、そのため、他の人が幸せになるためには君たち自身の幸福の権利を放棄すべきだと考えたり、自分たちの幸せのためになら、他の人にそれを断念させる資格があると思ってしまう。
だから、真実の愛の感情とエゴが顕現したまがいものとを見分けることができるように、我々がどのように愛しているのかをよく分析してみることが大事である。そうすれば、不必要な自己犠牲や断念をしたり、またそれらを他者に要求したりという勘違いをしなくなる。
でも、愛する人のためには、時にはある物事を断念することが必要だ、というのも正しいのではないでしょうか?
それは、断念という言葉が君たちにとって何を意味するのか、ということによる。愛のためにエゴを放棄することは良いことである。だが、愛によって愛を放棄するのには意味がない。
あなたの言われることがよくわかりません。わかりやすく例を挙げてくださいませんか?
子どもを持とうか考えている夫婦を想像してごらん。この二人には子どもを持つということが、物的な気紛れを放棄したりレジャーに費やす時間を断念することに思われる。今後は子どもの扶養にお金がかかるし、時間も割かれるからだ。
彼らがこの状況を自己犠牲的に感じるのは、愛よりもエゴが勝ってしまっているために、物質的な豊かさや安楽さを重視してしまい、愛情を大事にできないからだ。だが、自分たちの子どもへの愛によって、気紛れを減らせれば、失うものはエゴであるので、彼らにとっては良いことになる。
これと全く違うのは、別の男性を愛しているのに、ある男性との間に子どもがいるために、その子のために我慢しながら愛してもいない人と一緒に暮らして、人生を犠牲にしてしまう女性の場合だ。このケースが、間違って、愛によって愛を放棄してしまっているのだ。なぜなら、自分が我慢すれば、子どもがもっと幸せでいられると思い込んでしまっていて、自分の自由な感情を棄ててしまっているからだ。
今お話しくださったようなケースでは、事情の違うありとあらゆる状況があり得るのだろうと考えさせられます。それらのすべてを明確に検証して、愛とエゴとを混同することなく、それぞれの場合でどう対処すべきなのかを知るのは難しいだろうと思います。
あなたは、夫婦の関係について、それから子どもとの関係について話されました。個人的な人間関係で生まれるこのような状況を詳しく分析してみることは、特に僕にとって、そして皆にとって有益だと思います。なぜなら、これはほぼ全員に関係していることですが、明晰な霊的意識でどう対処すべきなのかがわからないので、多くの人が悩んでいると思うのです。これだけで本が一冊書けそうですね。
そのようなことをはっきりさせようとして、今話しているのだよ。確かに人間の感情的な苦悩の大半が、パートナーとの関係や家族関係(親子間、兄弟間など)といった個人的な人間関係と結びついている。だから、人間関係を集中的に取り扱ってみるのはいいことだ。では、どこから始めるとするかね?
選べるのでしたら、パートナーとの関係からにしたいです。
それなら、始めたまえ。質問を注意深く聞いているから。
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愛の法則 Part3【愛の法則から見たパートナーとの関係】
愛の法則 Part1【プロローグ】
愛の法則 Part2【愛の法則】
愛の法則 Part3【愛の法則から見たパートナーとの関係】
愛の法則 Part4【愛の法則から見たカップルにおける不実】
愛の法則 Part5【パートナーとの関係におけるエゴ的感情】
愛の法則 Part6【愛の法則から見た子どもとの関係】
愛の法則 Part7【愛の法則から見た隣人愛】
愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】
愛の法則 Part9【イエスの地上での使命 その2】
愛の法則 Part10【おわりに】
愛の法則 Part11【あとがき】