イエスの地上での使命 その2
(前作『魂の法則』の「イエスの地上での使命」の続きとなるため、その2としている。)
霊的に成長する上で転生がそれほど重要なことだというのに、イエスがそれを直接はっきり話さなかったことに驚きを覚えているのですが。
もちろん話したとも。「魂の法則」についても説いたし、霊的な進化と関係することは、全部わかりやすく明瞭に教えたのだよ。君たちが持つ彼についての情報が正しく完全だとは限らない。
根拠を示せる文書は残っていますか?
君たちの世界で、イエスの人柄や功績について本当のことを知っている者は誰もいない。彼の思想や人物像や伝達された教えのほんの断片が残っているに過ぎない。しかも、僅かに保存できた彼の功績でさえも、その大半が改変、歪曲されてしまい、当時の支配層やその後世界を支配してきた者たちにより、人びとの目から隠されてしまった。そして、今でもそうされている。真実が明らかになると自分たちの利己的な利益が損なわれると考えているので、一切の事実を知られまいとしているのだ。
でしたら、そのような知識は何も新しいものではないのですか?
もちろん違うとも!それは、有史以来、地球のさまざまな場所で伝えられてきたのと同じメッセージだ。伝達したのは実際にはいつも同じ霊性の使者たちで、地球の平均よりも進化しており、「愛の法則」と他の霊的な法則を熟知した者たちだが、転生した時代によってそれぞれ異なる名前で知られている。
でも、どうしてそれを知り得ることがなかったのですか?
もう、話したではないか。霊性の使者たちが帰ってしまい、その教えが霊的に劣った者たちの手に落ちると、彼らによって、当初の教えの中に利己的な考えが織り込まれてしまったのだ。元の伝達者たちがいなくなっていたので、改悪を止めることもできなかった。
イエスという特定のケースにおいても、それと同じことが起こったのである。時の経過と共にイエスの教えは歪められていったが、それは常に、支配者たちを有利にするためか、彼らの利権を損なわないようにするためだった。彼らは書記を雇い、本当の教えを徹底して改変した。そうして、支配者たちは人民に知らないことを消去し、書いてあった方が都合のいいことを加筆していったのだ。
消されてしまった教えはどのようなものですか?
ここで一緒に学んできた教えと同じものだ。魂の転生についての知識や、進化の法則などである。自己の人生と感情に関しては自分で決定できるという各人の権利も該当する。動物も含む最も弱く無防備な存在たちの生命と権利を保護して尊重しようという呼びかけも同様だ。
つまり、あらゆるエゴの形態――中でも強欲・貪欲・憎悪――と虐待や搾取などを糾弾して告発しようとする教えのすべてである。このような教えは全部、元々の意味がわからないように、意図的に改変されたり消し去られたりしたのだ。
イエスは自分の教えがいじられないように霊界から防ぐこともできたのに、なぜそうしなかったのですか?
それは自由意志の侵害になってしまうので、イエスであろうと霊界が遣わす他の使者であろうと、誰も、世界を望み通りにすることができないということだ。唯一できるのは、人間のエゴによって台無しにされてしまったものを再建するために再び生まれ変わることだ。
それは、イエスがもう一度地上に生まれ変わるという意味ですか? 二度目に戻ってくるのですか?
そういうことだが、二度目ではなく、何度も来ているうちのもう一度に過ぎない。
では、キリストが再来するという予言は本当なのですか?
キリスト(ロゴス・キリスト)は、遥か以前に人間の段階を超えることのできた大変進化した存在なので、もう転生はしないと話したろう。キリストは、人間の進化段階にいる魂たちが霊的な使命を帯びて転生する時に働きかけるのだ。
だが、イエスが転生するというのは本当だ。もっとも、すでに言った通り、二度目ではないがね。でもそれは、一部の人が待ち望むように、カトリック教会の陣頭に立つためではない。しかも、キリスト教徒を自認する多くの人たちからは、歓迎されないであろう。特にその上層部の者たちにね。なぜならイエスが戻るのは、二千年前にユダヤ教会を糾弾した時のように、彼の名においてキリスト教会が創りあげたあらゆる欺瞞と失態を暴くことも目的の一部になっているからだ。
前にイエスがもう一度地上に生まれ変わるかをあなたに質問した時には、キリストの例で返答されて(『魂の法則』参照)、今僕がキリストのことを質問すると、イエスの話をするのはどうしてですか? 二人は別々の存在なのでしょう?
それは、君たちがイエスとキリストとを同一視しているからだ。確かに、イエスが再び転生する際には、実際にキリストからインスピレーションを授かることになる。しかしキリストは、他の大変進化した存在たちが霊性進化の任務遂行のために生まれ変わる必要が出る際にも、インスピレーションを与えることができるのだ。
お言葉からすると、イエス以外の人たちもキリストに感化されていたようですね。
当然だ。
キリストは、救世主イエスが転生していない時期には、彼ほど進化していない人たちにもインスピレーションを与えられるのでしょうか?
もちろんだ。というのは、キリストの場合も含めて、進化した存在たちは皆、特定の時代のたった一人にだけインスピレーションを与えるのではなく、イエスほど高いレベルではないとしても、無条件の愛を動機にして行動するすべての存在を感化するものなのだ。
転生する人間の進化の程度により、キリストやその他の高次の存在たちとの繋がり具合が決まる。多くの者が自分を重要人物だと思いたいがために「選ばれた者」になりたがり、愛そうとするそぶりをするが、エゴを放棄しようとはしない。霊界は、愛の道を進もうとする人には誰にでも手を差し伸べる。しかし、エゴが動機となって行動する者は、霊的に進化した存在たちからの応援は期待できない。
それゆえ、「選択」とは自分自身でするものであり、それは、エゴか愛かのいずれかを選び取ることである。どんな影響を惹きつけるかは、自分が選んだものによって違ってくるのだ。
キリストとイエスという組み合わせを、どう理解したらいいのでしょう? キリスト意識の状態とでも考えるべきでしょうか?
キリストというのは高度に進化した霊的な存在で、君たちと同じように、独自の意志と個別性をもって存在している。それゆえ、ある意識状態という以上のものだ。意識状態というのは存在そのものではなく、ある存在の表現形態だからだ。
人がキリストと繋がると、その人の意識は疑いなく、独りで到達できる限界よりも、ずっと広い範囲にまで拡張する。この超高次の存在からインスピレーションを与えられると、自分の力しかない時よりも確固とした勇気と決断力をもって行動できるので、取り組んでいる使命に役立てられるのだ。
神以外で一番進化している存在は何ですか? その存在は転生していますか? どのような具体的、または全般的な使命があるのですか?
進化の段階においては、キリストやイエスが神のすぐ下の存在だと思って君がそう訊いているのなら、あらかじめそれは違うと言っておこう。霊的な世界は広大なので、キリストやイエスよりも高度に進化した存在は無数にいる。そのような存在が生まれたのは、私にも進化の歴史を遡れないほど遥か以前のことだが、神は常に存在していたし創造をやめたことなどないので、その起源もわからない。
君たちには制約された認識力しかないので、これらの存在に可能な最大の支援法が、人間として生まれ変わって地上に降りることだと思っている。だからイエスが神の生まれ変わりだと思ったりして、神そのものが人間に転生してもおかしくないという考えに至ってしまうのだ。
君たちの限られた視野では、超高度に進化した彼らの力がどこまで及ぶのかは、想像だにできない。彼らには、星の数ほどある世界と人類の創始者及び管理者として、想像し得るよりもずっと大きな責任があるのだ。一人の人間に生まれ変わることは、その潜在能力が雀の涙ほどの力に制限されることなのだ。
したがって、彼らが個人の人間として生まれ変わることはない。なぜならそれは人間に、蟻として生まれ変わって蟻の生活を送るように期待するのに等しいからだ。そのため、そういう使命を引き受けるのは、高次の存在の支援を常に受けているものの、進化程度が君たちに近い存在たちだ。
イエスが神やキリストの直接の生まれ変わりでないのなら、なぜ「私は道であり、真理であり、命である」と言ったのですか?
君たちが知っているその文言が、そのままそっくりイエスの口から出たことはない。言わずとも普遍的であったメッセージを、自分個人のものにしてしまうことはできないからだ。
それは、「私は、霊的世界からの使者としてあなた方に霊性進化の道筋を示し、霊的世界の真実と魂の命の真相を教えにやって来た」というメッセージを簡略化したものに過ぎない。
あなたはイエスが何度もやって来たことがあると言われましたが、それは、ナザレのイエスという人物として生まれる以前にも幾度か転生したことがあるという意味ですか?
もちろんだ。現在の君たちの公の歴史に書かれてもおらず、認知されてもいない古い時代に、地球に生まれ変わったことがある。
それらの人生では何をしたのですか?
イエスは君や皆と同じであった。そして、充分に進化を遂げてから、霊的なメッセージを携えてやって来たのだ。
でも、イエスとしてやって来る以前にも、過去に似たような使命を果たしたのではないですか? 彼のしたことが何か記録に残っていないでしょうか?
彼の任務は歴史のどの時代においても、人の魂に刻まれていく霊的な仕事であった。歴史の書物にその記述がなかったり、歪められてしまっていても、それが無駄になってしまったわけではない。なぜなら、霊的な教えに心を掴まれた魂は、その教えを絶対に忘れることがなく、以後の転生でそれを表明していくからだ。
イエスは、さまざまな時代の異なる場所に、愛のメッセージをもたらした。イエスは、この世の諸悪の根源がエゴであることを各時代の人びとに伝える方法を熱心に探し続けた。また、魂の諸法則と霊性進化の行程を人びとが理解できるように、基礎的な霊的な知識をできる限りやさしく伝えることにも力を尽くした。しかしながら、その時代の大部分の人たちは、今の時代とくらべると知性においても感性においても大変劣っていたので、彼の提案した改善案が実施されることはなく、彼が過去の世で認められることもなかった。人びとは、超常現象のように思えたイエスの数々の行いに惹きつけられはしたが、彼が布教した意味深い霊的な教えを汲み取ることはなかった。イエスが特別な存在であることはわかっていたのだが、彼を理解できなかったのだ。彼のことを理解することができたのは、最も身近な僅かな弟子たちだけだった。
それゆえ、同じ仕事を続けていく必要がある。そのため、当時イエスを理解できた者たちが、かつて進化不足のために教えがわからなかった人たちを助けようと、現在、継続して任務を担っている。
人類が救済されるかは次のイエスの転生次第なのですか? それとも、イエスは過去にも転生していたので、また生まれ変わらなくても人類を救うことができるのでしょうか?
「救済」というものを人間が愛に向かう霊的な変革と捉えるのであれば、ある特別な高次の魂の転生いかんにそれが左右されるわけなどない。同時期に大勢の人が変われば集団的に愛の方向へ良い変化を起こせるので、それを「人類の救済」と呼べるが、それは特定の人によるのではなく皆によるのだ。
すでに話したが、霊的に進化するかは、個人が自分自身で決断して行動することによって決まるのである。イエスや他の高次の存在たちに、進化の劣った人間を成長させる義務を負わせてはならない。進化した魂たちは、自らの手本を示すことで一般人を啓蒙する手助けはできるものの、進化するかどうかは個人的かつ自発的なものなのだ。これに関しては、全能の神でさえも君たちを強いることはない。
イエスの使命への理解が足りないために、彼が戻ってくれば僕たちの罪業をあがなってもらえると、思い込んだ部分もあるかもしれませんね。
その通りだ。イエスの犠牲によって全人類が救われるのだとしたら、人は善を成すか悪を成すかにかかわらず、また何の徳もなく自分の意に反してまでも、救済されてしまうことになる。地球に高次の霊的な存在たちがやって来るのは、いつも同じ目的のためだ。それは、人類が自ら自覚して成長できるように、その指導をするためなのだ。だが、それをするかどうかは人類にかかっている。
イエスが十字架上で死んだことと人類の救済とが無関係なのだとしたら、なぜそのような大きな犠牲を払う必要があったのでしょうか?
イエスは殺されるかもしれない危険を冒すことを知っていたが、人類に愛の教えを伝えるためにこの世に生まれ出ることを選んだのだ。しかもイエスは、人生のある時点で見せられたビジョンによって、事態がそのまま進展すれば磔にされて処刑されるとはっきりと知らされ、引き下がる選択も与えられていた。高次の霊的な世界では自由意志が完全に尊重されているので、誰にも――たとえそれが自分たちと完璧に似通った存在であっても――何の強制もしない。
殺されることがわかっていたなら、どうしてそれを避けなかったのですか? これは、あなたが「魂の法則」に反するとする一種の自殺行為に当たりませんか?
殺してほしかったわけではないし、磔にされて死んでみたかったわけでもない、というのが君の質問への答えだ。だが、彼が一個人として勇敢で、どうなろうと最後まで愛の教えを広めるという手本を示したかったので、それを続けることにしたのだ。
すでに言ったが、イエスの功績は十字架にかかって死んだことではなく、神の使者としての任務を果たした果敢さにあるのだ。そうすることで、最終的に殉教か処刑となって甚大な苦痛を被ることを知っていたにもかかわらず、あえてその代償を引き受けたのだ。
イエスが僕たちの罪をあがなうために来たのではなかったのなら、彼は旧約聖書が予言する救済者なのですか、それともそうではないのでしょうか?
イエスは確かに旧約聖書が予告した使者だが、カトリック教会が信じさせた目的やイスラエルの民が期待した目的のために来たかどうかは、それと別問題である。
イスラエルは、彼らを外国の支配から解放して征服者の国に変えてくれる、ダビデ王のような政治的な君主を期待していた。だがイエスはそのために来たのではなかった。彼の使命は全人類に及ぶものであり、物的な統治者としてではなく、霊的世界の真相を伝える神の使者としてやって来たのだった。
つまり、間違った馬鹿げたお門違いの信仰の中で道を見失って混乱している人類を、暗闇から助け出すためにやって来た。イエスは、神や人間の進化について混迷を極めて完全にエゴに囚われてしまっている人類に、本物の霊性進化の道を示すために来たのだ。
歴史に残る偉大な預言者やアヴァター(神の化身)の中には――モーゼやクリシュナや仏陀のことを考えているのですが――イエスの前世であった人もいるのでしょうか?
君が名を挙げた人たちは、確かに皆イエスと同じ使命を担って霊界から遣わされた神の使者だったが、誰もイエス自身ではない。彼らは皆同じ大義のために仕えたわけで、彼らが生まれ出た社会のメンタリティーの許容度においてだが、仕事もそこそこ実を結んだのだ。
イエスと仏陀はこの地球にいたことのある最も進化した存在だと言えるでしょうか?
君たちが知っている者たちの中では、そう言える。
でもユダヤの民は、イエスがモーゼの律法に反する考えを持っているとして、彼を疎外したのではないですか?
全員がそうしたわけではない。イエスを疎外したのは、ユダヤ教の僧職と彼らに影響された者たちだ。それにイエスの考えがモーゼの法に反していたからではなく、それがユダヤ聖職者たちが人民に定めた法律にそぐわなかったので、モーゼのせいにしたのだ。イエスはモーゼの律法を覆しに来たのではなく、捏造や改ざんされた箇所から虚偽を振り払い、元来授けられた姿で再提示をして、それを遵守するために来たのである。
十戒のことを話されているのですか?
十戒とは、温存することのできたほんの一握りのものであるのだ。もっともその中には初期の意味合いが変えられて、歪められてしまったものもある。だがこのことに関してはもう充分話したから、ここで繰り返すのはやめとしよう。
真にモーゼの手になるものは短く簡潔であったが、霊的な観点からは真実であった。モーゼの五書は彼のものだとされているが、彼の死後かなり経ってから書かれたもので、思いあがった作り話やユダヤ民族の支配者たちが命じたいまわしい逸話に満ちていて、彼とは無関係だ。だが、有無を言わせずにそれらを正当化するために、神やモーゼのものとしたのだ。
イエスのことに戻るのですが、イエスが最後に地上に転生していたのは二千年前なのでしょうか、それとも僕たちが彼だと気づかなくても、その後で再びやって来ていたことがあったのでしょうか?
最後に転生したのは二千年前にイエスとしてであって、それ以後は地球で生まれ変わるためには戻ってきていない。
イエスは現在すでに地上に転生していますか?
いや、まだだ。でも、あともう少しだ。
生まれ変わろうという決断やそれをいつにするかは、イエスが決めるのですか? それともイエスの上位にいる存在が決めるのでしょうか?
地球の進化に求められていることとメッセージが最も浸透し得る最善の時期を把握した上で、自身がその自由意志で決めるのだ。
イエスの転生まで、あと正確にどのくらいかかりますか?
その質問には答えられない。でも、そう遠くない未来に生まれ変わるであろう。それは物事がどのように進展していくかによるのだ。だが、この世代はまだ無理だ。とはいえ、その下準備をする者たちが、しばらく前から転生して来ているがね。
「その下準備をする者たち」とはどういう意味ですか?
霊的な任務というものは、個人的な孤独な仕事ではないということだ。行き当たりばったりに進めるものでもなく、それが実行に移されるかなり前から、真剣かつ詳細に計画されるものなのだ。それは人類の霊的進化を目的にした集団的な救援であり、イエスほどの進化を遂げてはいないが大勢の魂が参加する。主役となる使者が活躍する前、最中、またその後に、ある者は霊的な次元から援助し、ある者は物理的次元から助けるのだ。
どういう準備をするのですか?
アヴァターが転生する際にメッセージがより広く行き渡るように、霊的な教えを少しずつ知らしめて人びとに受け容れてもらいやすくするのだ。
進化した存在たちが増えるためには、地球はどのような環境にあるべきなのでしょうか?
先にも言った通り、霊的な支援のミッションというものは今回が初めてのことではなく、過去の時代に行われた仕事と関連している。同じ目的を持ったいつも同じ魂たちが、さまざまな時代に生まれ変わっているのだ。進化が遅れている者は、愛に関する基本的な知識を学ぼうと努め、より高次の者には、自分の愛の能力を発展させる責務と手本となって遅れた者たちに愛について教えていく責任がある。
教師的役割を果たす魂たちが進歩するにつれて、彼らの任務はより奥深いものとなる。それに伴い、遅れている魂たちも進化していくので、霊的な教えをより深く理解して実行しようとする魂の数も増え、彼らも教えの伝達者となっていく。
このような霊的な改革の波ごとに、より多くの魂が次々に進化を目指す仲間入りをし、進んだ魂の数もだんだんと多くなっていく。それゆえ、進化した魂がより多く生まれ出ていることは、人類の精神レベルが高まっていることを反映している。
今のあなたの「進化した魂がより多く生まれ出ている」という言葉で、イエスが言ったとされている福音書の「私よりも、もっと大きな業を行うようになる」という一節を思い出しました。でもあれから二千年も経ったのに、イエス以上のことを成し遂げられた者がいないという点については同意されますよね。イエスは間違えてそんなことを言ってしまったのでしょうか、それともこの部分も歪曲されてしまっているのでしょうか?
ここでイエスが言及していることは、以前すでに話したことだ。人間というものは、充分に進化しさえすれば、この地球に生きていたイエスと同レベルに到達することができる。さらに、魂の進化は止まるところを知らないので、彼よりも高次の段階に達することもできる。そうなれば、イエスが地上にいた時と同様かそれ以上の能力を持つことが可能になるという意味なのだ。
君たちの惑星でいまだに彼ほど大きな愛の能力を発揮できた者がいないのは、地球にいる最も進んだ者でさえ、そのレベルに辿り着けるほどの時が経っていないということだ。君たちには長い年月に思えるかもしれないが、霊的な視点からの二千年はほんのひと時に過ぎない。したがって、イエスは間違ってそう発言したのではないし、それは歪曲されてもいない。ただ、まだそれが実現する時期になっていないということだ。
多くの人が自分が霊的に進化していると思っていて、神の使者であると言っていますが、どうなのでしょうか?
ほとんどの者がそうではない。注目を浴びて目立ちたいという自己願望を述べているに過ぎず、真実ではない。
高次の存在は、その愛する能力と謙虚さ、また他者の考えや信念をどれだけ尊重できるかで見分けることができる。
神の使者を名のる大半の者が自慢をして、その状況を名ばかりの優越性で人を圧倒して利益を得ることに利用する。人よりもすごいのだと自慢して優位に立とうとする者は謙虚さに欠けており、自由意志を尊重することができない。それを見れば、彼らが口ほどでもない者であることがわかる。
イエスが新たに転生するかについて話していたので、彼の再来を予告しているらしい黙示録のことを思い出しましたが、その見解は正しいのですね。
ああ、そういうことだよ。
でも黙示録では、地球の未来におけるさまざまな事象についても予告をしていますが、その多くが破局的なものです。そのような予言は的を射ているのでしょうか? この件について、少し説明していただけないでしょうか?
前にも言ったと思うが、黙示録というものは、ヨハネによる地球の未来に起こり得るビジョンの一つに過ぎない。ヨハネはその中で、地球で起こる可能性のある一連の事象――あるものは人間によって引き起こされ、他のものは自然の地質的変化の結果であった――と、その時期に人類が経験する事件や変革を見ることができたのだ。そして、彼はそれらを自分の能力の範囲内で、その時代の人たちに伝えようとした。
全部の事象を一遍に伝えているので、すべてがあっという間に起こるという印象を与えるが、実際にはこれらの物事は千年単位の長い期間に及んでおり、最終的には人類の霊的な進歩が起こるのである。
その時に、人間は、自分たちがどこから来てどこに向かうのかをはっきり知ることができ、人類よりも高次の存在がいるということを発見するだろう。神を筆頭に(ロゴス)キリスト、イエス、それに君たちの見知らぬ存在や名のない者たちが、人間を愛し、その霊的な成長と幸福とを見守ってくれていることに気づくことになる。
黙示録ではキリストの再来を告げると共に、反キリストの王国のことにも言及していますが、反キリストはいるのでしょうか? これから生まれ変わるのでしょうか? それはいつでしょう?
悪において全能な者などは存在しないと話したと思うが、害を及ぼそうという明確な目的意識で生まれてくる魂などもいやしない。悪いことをしてしまうことになっても、霊的なミッションのようにそれを目的にしているわけではない。どんな魂であろうとも、あらかじめ悪い意図を持って転生することなどないのだ。そうではなく、霊的に進化していないがために、生まれ出ると自分のエゴの衝動に突き動かされて、悪に傾倒してしまうことになる。
したがって、君たちが、反キリストという存在が極悪で、世を破壊してキリストやその支持者をやっつけることを目標にして生まれてくると思っているのだとしたら、そんな者は存在しないと言っておこう。
反キリストが存在しないのだとしたら、黙示録ではどういう意味でこの言葉を使っているのですか? それとも、これも文書が改ざんされたせいなのでしょうか?
ヨハネには、未来で起こる物事が、愛に反する利己的な価値観に支配された人類の巨大なエゴのせいに見えたということだ。またメッセージの一部は、後世に簡単に改変されないように隠語で伝えられている。
こう考えれてみれば、反キリストという者は、未進化の人間の利己的で野心的かつ無慈悲な面を表した象徴的な存在ということになり、そのために兄弟たちに多大な害を与えてしまうのである。つまりそれは、エゴが人格化したものなのだ。
また反キリストの王国というのは、エゴに支配された世界を表している。我々がキリストの教えを無条件の愛だと受け取るのであれば、反キリストとはキリストと反対のことをする者であり、愛と真逆の者のことなのだ。
では、皇帝ネロやナポレオンやヒトラーなど人類に大きな痛手を与えた人物たちは、反キリストだったのですか、それともそうではないのですか?
反キリストというレッテルを貼られたこれらの人物は、たいそう利己的な者たちで、野心や権力への野望に突き動かされて、人類に多大な被害を及ぼした。だが彼らのような者は、歴史上には幾らでもいた。現在でも存在しているし、エゴが世の中で幅を利かせている限り、これからも存在し続けよう。世間の目にはもっと重々しく怖く映るかもしれないが、彼らをどのような名で呼ぼうと、今より善くなるわけでも悪くなるわけでもない。
黙示録に出てくる世の終わりというくだりは、2012年に人類の大惨事が起こるとしているマヤの予言を彷彿させるのですが。(本書は2011年に執筆されている。)
君は、西洋人がマヤの記録にそう書いてあると思いたい、と言いたいのだろうね。なぜなら、マヤ族の子孫にそのことを訊いてみるなら、そんなことはない、と答えるだろうよ。
でも2012年には人類を滅ぼすことになる天変地異とか第三次世界大戦の開始とか、何らかの終末的な出来事が起こるのでしょうか?
2012年には、そういったことは何も起こらない。自然災害は、今までと同じような頻度であり続けるだろうが、そのどれも、地球環境を破壊させるほど甚大なものではない。君たちは自然災害のことをすごく心配しているが、それらは君らには防ぎようがないだろう。それなのに回避可能な、人間の仕業である戦争や残虐行為などの事象については、ほとんど気にかけることがない。
残念ながら君たちの世界で頻発している紛争は、現在とほぼ同じような傾向で継続するだろうし、愛についての意識が変わらない限り、この状況は続く。だが今のところは、地球や人類を破壊するようなことは何も起きない。
思い起こしてみれば20世紀の終わりにも、ノストラダムスの大予言に基づく似たような強迫観念があって、世紀末から20世紀にかけていろいろな大惨事が起きると予告されていた。だが、2001年になっても、何も起きなかった。些細なことをおおげさにしたのは、多くの人びとの狂信や妄想や無知である。このようなお粗末な占いを信じてしまう人たちは、霊的進化という真に大切なことに集中できなくなり、恐怖や幻覚の狂気に囚われてしまう。
先にも言ったが、近く到来する変化の根本的なものは霊的なもので、これは特定の年や日付に限定されるものではなく、何百年にも及ぶ時代を包括するものなのだ。2012年にこの世が終わると思っている者たちは、大いに失望するであろう。
それから、世界のさまざまな場所で終末感が漂う超常現象が起こて――ルルドやファティマにおける出現のことです――大きな反響を呼びましたが、そこには真実の部分もあるのでしょうか?
本当なのは、霊媒能力を持つ人と直接交信してメッセージを伝えようとする、霊的な存在がいるということだ。メッセージは個人的なものもあるし、全体に及ぶもののこともある。
通常はそのような出現があっても、体験者に分別があり、その現象を言いふらせば精神異常者にされるのがおちだと知っているので、あまり大きな騒ぎになることがない。だがルルドとファティマのケースでは、それを見たのが子どもたちであり、彼らが目撃したことを自然体で話したために有名になったのだ。
ルルドとファティマの場合に出現したのはマリア様だったと言いますが、それは本当ですか? どんなメッセージを伝えたのでしょうか?
いや、現れたのは聖母マリアではない。もっともこれは、どちらでもいいことである。だが、女性の姿を借りて現れた高次の霊であったというのは確かである。
もっとも、マリアだと名のったわけではない。名のることは滅多にないし、名前を言ったとしたなら、それは総称なのだ。それが聖母マリアだということになったのは、子どもたちが教えられていた信仰の人物と結びつけたからか、そのビジョンの後で、大人たちがそれをマリア様だと子どもたちに思い込ませてしまったからである。
もたらされるメッセージは一般的にとても明確で、人間が進化するためにこの世に存在していることや、エゴを解き放ち愛する能力を発展させねば進化ができないことなど、我々が話している内容に沿っている。また時には、個人や集団としての利己主義が将来全体的に引き起こすことになる、戦争などの未来の危険性についても警告する。
だがこのようなメッセージを受け取ると、教会がしゃしゃり出て来て、自分たちに都合がいいようにそれを歪曲したり、利益を損なわれないように知られたくないことを黙殺するのだ。
聖母マリアは特に利用価値がある。マリアとおぼしき人物が現れたのは、キリスト教へ改宗するように人類に呼びかけるためだと思わせて、さらに信者を増やそうとしたり、現状を保持しようとする。それに狂信と迷信が加わり、これらの場所は巡礼の中心地となる。こうして、信者の狂信と無知の犠牲の上に、莫大な儲けを得るのだ。
教えてもらえるとしたらですが、ファティマの第三の秘密とは何でしょう?
霊的世界が秘密にしておきたいと思ったなら、世に伝えることなどなかった筈だ。霊的世界からのお告げに鍵をかけてしまっておくのは、それを公にすると明らかになってしまうことを怖れる人間のエゴ、特に世の中で物的な支配権を持つ者たちのエゴのせいだ。しかし、このことで頭を悩ますのはやめなさい。そこで告げられたことは、他の方法で、もう開示されているからだ。
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愛の法則 Part10【おわりに】
愛の法則 Part1【プロローグ】
愛の法則 Part2【愛の法則】
愛の法則 Part3【愛の法則から見たパートナーとの関係】
愛の法則 Part4【愛の法則から見たカップルにおける不実】
愛の法則 Part5【パートナーとの関係におけるエゴ的感情】
愛の法則 Part6【愛の法則から見た子どもとの関係】
愛の法則 Part7【愛の法則から見た隣人愛】
愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】
愛の法則 Part9【イエスの地上での使命 その2】
愛の法則 Part10【おわりに】
愛の法則 Part11【あとがき】