愛の法則

愛の法則

「愛の法則 (魂の法則Ⅱ)」はPDFファイルで無料で配布されており、本はナチュラルスピリットから販売されていますが、Web版の全文は存在しないので作成しました。

下に「愛の法則」全文のリンクを貼り付けています。
※「愛の法則」各ページの最初と最後にも前後のページへのリンクを貼っているので、このページに戻らずに全文が読めるようにしています。

時間が無い人用に「愛の法則」の重要メッセージ抜粋を当ページの最後に載せています。

愛の法則を読んだ感想

前作の「魂の法則」も「愛の法則」もどちらも「アミ 小さな宇宙人」と非常に似た内容です。

3冊全てに共通するのは愛とエゴです。どちらを選択し、行動を起こすのかで、体験する世界が異なるということが述べられています。

人類や人生が存在する意味はすべてエゴの克服と霊性進化、つまり、愛の能力を育むことに帰結されます。
その理由を、人類の現在の意識レベルに則った認識できる範囲の言葉で、判りやすく、書かれています。

「アミ 小さな宇宙人」の内容に感化される人と、拒否反応を示す人、真逆の異なった反応が出る理由がよく判ります。

他の本を1万冊読むよりも、「魂の法則」と「愛の法則」を読んだほうが得られるものは遥かに大きいと感じました。

愛の法則 全文リンク

愛の法則 抜粋

愛の法則での重要なメッセージを抜き出しました。

宗教への勧誘が悪いことのようにお話されていますが、矛盾が出てきてしまいました。霊性の知識を自分の人生に役立てることができて、それを他の人たちにも教えてあげたいと願うことが、いけない行為なのでしょうか?

先ほどの勧誘とは、相手の自由意志を尊重せずに、何かを説得したり納得させようとすることを指している。私が問題にしているのは、力づくで信徒を獲得したり、操作や強制をしたりする者たちのことだ。あるいは、特定の信仰に加味することを条件に人を助けたり、全く関心のない者を説得したり、自分の概念や信念を押しつけようとする者たちのことである。このようなことはすべて、相手の自由意志を強要することになる。
他者を愛するということは、相手が必要としていることを助けてあげるということで、その見返りとして、自分の考えや信仰を共有してもらうことを期待してはならない。霊的な知識を広めようとすること自体は、悪いことではない。その反対にそれは善いことで、人が成長し幸せになるために求められることでもある。だが、それを相手の意志に反して行ってはならないのだ。要するに、自分が真実を知っていると信じていても、人に強要してしまえば間違いを犯していることになる。したがって、自分自身の信念を相手にも信じさせようと躍起になって、無理強いしたりプレッシャーをかけたりしてはならない。誰にも、絶対に、自分の信仰を押しつけてはならない。そうではなく、それを自分自身に適用して、愛の感情を発達させてエゴを一掃することで、もっと幸福になるのだ。自分が実際に手本となって示してあげることが、他の人たちにとっては、一番の学びとなるのだ。

愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】より引用

次の戒律は、「盗んではならない」です。

そう、人は通常、盗むということを、誰かからその人に属する物的な所有物を無断で取り上げる行為である、窃盗のことだと考える。そのため、スリや、銀行や宝石店などの店舗を襲う強盗などのことを泥棒だと見なしている。
しかし、労働者にまっとうな賃金を払わずに私腹を肥やす者や、ペテン、詐欺恐喝などを用いて、人の損害、苦しみ、欠乏などの犠牲の上に権力や富を貯える者は、司法によってその罪が暴かれることがなくても、実は最たる泥棒なのだと言っておこう。
したがって、「盗んではならない」という第7戒律は、「偽りの証言をしたり嘘をついてはならない」という第8戒と「人の財産を欲してはならない」という第10戒と共にまとめられる。このどれもに、自己のエゴを満たすために人に損害を与えるという意図があるからだ。そう考えてみると、これらの三つの戒律を一本化して、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という助言にすることができる。
最も物的なエゴの形態は、強欲、貪欲、野心である。これらのエゴは、他の人に及ぼす弊害には目もくれずに、自己の富と権力の貯財に夢中にさせる主犯である。だが、人間関係のテーマで扱った、執着、嫉妬心、憎悪、憤怒、独占欲、恨み、無念などのエゴ的感情のように、物質主義的ではない他のエゴの形態も、他者を傷つけるものだ。

愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】より引用

イエスが僕たちの罪をあがなうために来たのではなかったのなら、彼は旧約聖書が予言する救済者なのですか、それともそうではないのでしょうか?

イエスは確かに旧約聖書が予告した使者だが、カトリック教会が信じさせた目的やイスラエルの民が期待した目的のために来たかどうかは、それと別問題である。
イスラエルは、彼らを外国の支配から解放して征服者の国に変えてくれる、ダビデ王のような政治的な君主を期待していた。だがイエスはそのために来たのではなかった。彼の使命は全人類に及ぶものであり、物的な統治者としてではなく、霊的世界の真相を伝える神の使者としてやって来たのだった。
つまり、間違った馬鹿げたお門違いの信仰の中で道を見失って混乱している人類を、暗闇から助け出すためにやって来た。イエスは、神や人間の進化について混迷を極めて完全にエゴに囚われてしまっている人類に、本物の霊性進化の道を示すために来たのだ。

愛の法則 Part9【イエスの地上での使命 その2】より引用より引用

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