愛の法則

愛の法則 Part3【愛の法則から見たパートナーとの関係】

愛の法則 Part2【愛の法則】

愛の法則から見たパートナーとの関係

人が不幸に感じる最大の要因の一つが、パートナーとの関係であるように見えます。相手が見つからないと悩む人もいますし、自分たちの関係が不幸せなために苦しむ人もいます。パートナーとの関係で、幸せでない人たちがこんなに多いのはどうしてですか?

それは二人の間に、本物のパートナーの愛の感情というものが存在していないからだ。または、エゴ的な欠点が愛の感情を抑えつけたり、あるいは、その二つのことが同時に起こるからだ。

パートナーとの関係では、どうしたら二人が幸せになれるでしょうか?

パートナーとの関係で完全に幸せになるには、二人の内面が完璧に似通っていて、両想いで、自由な、真の愛の感情が存在している場合に限られる。しかしこのケースは、君たちの世界ではほとんどお目にかかれない。

それはなぜでしょうか?

それはパートナーとの関係において、エゴや必要性が勝ってしまっているからだ。また大半の人が、自分と似た存在をはっきりと認識できるほど愛の能力を発展させていないので、その人に対する愛情を自覚して目覚めさせ、そのために闘う勇気を持たない。

自分と似た存在を認識するというのは、双子の魂ツインソウルのことを指しているのですか?

そうだ。もっとも、双子の魂というよりも相似の魂と呼んだ方が正確なのだが。

それは、どうしてですか?

なぜなら、君たちは双子という言葉から全く同じものを連想しがちで、双子の魂はすべてにおいてそっくりの瓜二つだと思ってしまうが、そうではない。双子の魂、つまり相似の魂は、あえて定義するならば、「霊的な出産」となる同じ創造の時を共にした存在だ。それらは、愛で結びついていられるように同じ瞬間に誕生した、お互いを完全に補い合える魂なのだ。だが同時に生まれても、そっくりな魂であるわけではない。

同じ時に創造されても、そっくり同じとならないのはどうしてですか?

なぜなら、似通った魂といえども同一の自由意志を共有しているわけではないからだ。どの魂も自分で決断できるため、個々の魂の進化のプロセスが必ず違ってきて、それぞれが独自の個性を持つこととなる。そうして、全部の面において差異が現れてくる。

進化のレベルが同じでない、ということですか?

似ていることが多いが、全く同じというのは不可能だ。個々が独自の自由意志を持ち、異なる体験をしていくからだ。たいていの場合はあまり大きな差はつかないが、一つが片割れの魂より進歩が速かったり、一方がある面で他方より成長していても別の面では反対であるというようなことが、各々の霊的な人格や進化のレベルの違いとなって現れるのだ。まあ違いがあるとはいえ、似ているのだがね。

それでは、カップルとして結びつく人が双子の魂同士の場合は、パートナーとの関係で、完璧に幸せになれるのでしょうか?

二人が充分な進化を遂げていて、お互いの愛が双方のエゴを克服できるならば、完全に幸福になれるだろう。相似の魂同士でさえあれば完璧だということではない。愛する能力があまり発展していなければ、それぞれのエゴが台頭してきて、愛や相似性を発揮する障害となってしまう。そして、本当に幸福になるのを妨げてしまうのだ。

自分の双子の魂が同時にこの世に生まれ出ていない、ということもあり得ますか?

そういうこともある。

それが本当なら、どうしてそういうことが起こり得るのか理解できません。つまり、同時に転生できない場合は、二つの魂がカップルとして結びついて幸せになる可能性を奪ってしまっていることになりませんか?

そう言うのは、転生する人生の部分だけを見ているからだ。肉体の命というものは真の命の一瞬に過ぎないので、離れ離れでいるのは一時的なのだと思い出しておくれ。転生して過ごす人生というものは、魂の本当の生の一部に過ぎない。しかも、進化した魂たちは、転生と転生との間隔を空けるものなので、彼らにとっては非常に短い時間なのだ。

でも、同時に生まれ変わることのない状況を選ぶのはなぜですか?

それが、これらの魂たちが――この場合は相似の魂たちのことだが――自分たちの取り組みたい試練や使命に応じて選択したことだからだ。
それでも、まるっきり引き離されているわけではない。転生した魂は、寝ている間に霊界に戻り、霊的次元に残った愛する者たちと多少なりとも再会できるからだ。それは相似の魂に限られることではなく、同じ時に転生しなかった他の愛する者たちにも出会えるのである。
実際には二人がそれぞれ別の次元から協力して、任務を遂行することになるのだ。

生まれ変わった人は、寝ている間のそのような出会いを覚えているのでしょうか?

大部分の人が自覚してはいないだろう。

肉体を持たない自分の双子の魂と出会った時のことを覚えていられなければ、一体何の役に立つのでしょうか?

体験したことを意識して覚えていられなくても、その人の内面は元気づけられるのだ。

でも、少なくとも転生している者にとっては、そういうふうに生きるのはフラストレーションになりませんか?

愛する者と暮らした後にその人が死ぬのを見て、物理的な次元に取り残されてしまう人のケースと同様、これも難しい試練ではある。だが我々が話しているケースでは、自分と相似の魂が別世界にいることに完全に気づくことはないので、大きな苦悩とはならない。

そのことに気づける人はいるのでしょうか?

敏感な人ならね。意識的にコンタクトすることも可能だろう。

それなら、その人はもっと苦しむことになりますね?

それはその人の進化レベルと、そのような状況を受容する心の準備がどれほど整っているかによる。
それに同時に生まれ変わったとしても、相似の魂同士が永続して一緒にいることはたいそう難しいのだと知っておく必要がある。知り合うまでに、かなり時間がかかることもある。また、出会うことができたとしても、断固として愛情を守り抜く勇気がなかったり、まだエゴの方が優勢であるがために、多くの場合に一緒にいる努力をしないものなのだ。
また、肉体を置き去る時が別々で、時間差があると、一人が霊的世界に戻っても、もう一人が物質界に残されてしまう。だが、この別離期間の間に、各々が自分の目標を果たすことができると、二人の再会は素晴らしいものとなる。

霊界に戻った時に、自分の双子の魂がまた生まれ変わってしまったとしたら、どうなるのですか?

転生というものはそれほど素早く起こるものではない。再び生まれ変わるまでに、アストラル次元でかなり長い時間を過ごすものだ。通常、物質界に戻る前に、相似の魂と再会して霊的次元で一緒に暮らす時間があるものだ。

自分の双子の魂が別の次元にいると自覚すると、物質界でパートナーを作る障害となりますか?

いや、伴侶を失った者が新しい相手と一緒になるのと同じで、霊的な法則には何の違反ともならない。この世に生きる者は、自分の自由意志で決断できるので、パートナーを持つべきかどうか、自己の人生に関して良いと思うことをしていいのだ。

別次元に残っている魂は、自分の双子の魂が地上で別の相手と一緒になっても、嫉妬しないのでしょうか?

霊的世界では地上にいる時よりもずっと視野が広いので、嫉妬することはない。霊界の魂も状況を理解していて、相似の魂により幸せになれる決断をしてほしいと願っている。自分もその人との再会を望んでいるのは、もちろんのことだがね。

でも、その人はそのパートナーとの関係で幸福になれるのでしょうか?

それは、二人の類似性による。似ていれば、ある程度幸せにはなれるだろう。だが、満たすことのできない心の領域があることは確かだ。その人と完全に似通っているのは別の次元にいる相手なので、パートナーとの関係で文句なしに幸せになるのは無理だろう。

では、両方の愛情をどのように共存させるのでしょうか。僕が言いたいのは、つまり、霊界のパートナーとこの世でのパートナーとに感じる気持ちをどのように両立させるか、ということですが。解決策のないジレンマではないでしょうか?

解決策は、状況を理解することにある。いずれにせよ、霊界で待っている、あるいは先に霊界に戻ってしまった霊的なパートナーに対する想いを苦しまずに済むように忘れようとするのは、とんでもない誤ちだ。感情を否定すると余計に苦しむことになるからだ。
また、地上のパートナーに、相似の魂に対するものと同じ想いを抱かなければならないと思い込むことも、最初のパートナーと同じ気持ちになれないがために罪悪感を覚えることも間違いだ。なぜなら、愛の感情は本当にしっくりくる時に生まれもので、そうでなければ無理なのだ。これは誰のせいでもない。
だが確かに、相似の魂との愛を知り、それを体験したことのある大変進化した魂たちは、他のどんな関係でも満たされないことを知っているので、別の相手と約束をすることは少なく、再会の時を待つものだ。それに彼らは能力が高く敏感なので、二人がそれぞれ別々の次元に暮らしていても、連絡を取り合うことが可能である。

双子の魂が同時に転生する場合には、いつもカップルになろうとして生まれ変わるのでしょうか?

それがふつうだが、常にカップルとして結びつこうとして転生するわけではない。

双子の魂は、この世では同じような年齢でなければならないのでしょうか? それとも、30歳以上離れていることもあり得ますか?

それはさまざまだ。年齢差がとても大きい場合も、少ないこともあり得る。転生の時期や状況は生まれ出る前に決めるものだが、すべてに理由があるのだ。

歳の差は、カップルになる障害とはならないのですか?

一方が大人で、もう片方がまだ子どもである場合には問題となろうが、二人が大人になれば関係なくなる。

双子の魂は、絶対にカップルになれない状況で、つまりお母さんと息子とか兄弟姉妹として、生まれ変わることもありますか?

そう、親子であったり、兄弟姉妹だったりと、無数のケースがあり得るものだ。

そういう状況では、別の相手を見つけられなくなりませんか?

もちろんそんなことはない。だが、人生のパートナーとして選んだ人よりも、家族の一員として生まれた自分の相似の魂と、より相性がいいのは確かだ。

双子の魂同士が、同時期に同性として転生することもありますか?

それほど頻繁ではないが、そういうことも起こり得る。

ひょっとすると、同性愛とは、双子の魂が同性として生まれ変わったためではないですか?

いや、それが要因ではない。親子や兄弟姉妹の間柄になっても、近親相姦になるわけでないのと同じことだ。

それが原因でないならば、霊的な観点からはどういう理由で同性愛になるのですか?

すべてのケースに当てはまる一般的な回答をするのは難しい。それぞれのケースで異なるからだ。しかし、同性愛者として生まれる人が同性愛であるのは、その魂の前世での体験と関係している。物的な環境を離れた魂には性の区別はなく、性別が決まるのは転生する時である。また、転生時にはどちらかの性を優先したがるものの、進化の必要性から判断して、同じ魂が一つの人生では男性で次に女性になったり、その逆であったりもする。
だから時々、前世での性別と反対の性を選んで生まれる魂が、前世の個性(性別も含めて)を完全に捨て切れていなくて、それが今生の自分の性自認に影響することがある。前世での性別をどれほど自分と同一視するかによって、以下のようなさまざまな状況となる。
トランスセクシュアル(性転換症)は、自分の生物学的な性別と反対の性を完全に自認する人で、自己認識と一致した身体を欲しがる。
ホモセクシュアル(同性愛者)は、反対の性自認をすることはないが、現在と逆の性に生まれ出ていた前世と同じ性的指向を持つ。
また、バイセクシュアル(両性愛者)には、現在と過去の性別の双方の性的指向が現れる。

どういう理由で、前世の人格が剥がれ落ちないのでしょうか?

人格が剥離はくりしない理由は多種多様だが、一般的には、自分の性別をエゴのために利用、悪用して、感情面も含む他者の自由意志を侵害してしまった場合など、魂に根ざした利己的な姿勢による。

たとえば、どういう場合ですか?

男性として転生した魂が極端な男尊女卑者で、女性たちを虐待したケースなど。たとえば、自分を愛してもいない女性を強制的に妻にして力づくで性関係を持たせたり、生涯にわたってひどい扱い方をして辱めたりなど、全般に女性全員にそのような蔑視の態度で接した場合である。すると今生では、その人自身が蔑視していた性別に生まれてくることになるが、前世と似た傾向を個性として保ったままだ。克服できなかった気質は、強く魂に浸潤しているからだ。
または、女性に生まれた魂がその肉体的な魅力を利用して、男性たちを制し従わせるために誘惑したとする。すると今生では、かつて自分が搾り取った者たちと同じ性別となって転生するが、前世の人格が根強く残っていて同じ性格のままなので、性的指向も全部または一部が以前のもとなるのだ。

そのような状況から、何を学ばなければなりませんか?

魂は、男女の性別を尊重するために、自分が痛みつけた性別を選んで転生しようとする。つまり、女性を虐待した男性なら、女性に転生して、今度は自分も女性であるので、女性を尊重することを学ぶ。あるいは、男性を搾取した女性なら、今度は自分も男性として転生して、男性を尊ぶことを学ぶ。
性同一性障害や同性愛は、このような状況下で、当人が招いた情態である。その人に、前世の人格が根強く残っていて、性的指向も全部またはその一部分が維持されているのだ。

カトリック教会を含む大半の宗教では、同性愛は悪いもので、その尋常ではない性的指向を放棄せよ、との見解です。異性愛の関係を持つことすら奨励しますが、あなたはどうお考えですか?

同性愛者が、ただ外見を繕うために、異性愛者でもないのにそうなろうとするのには意味がない。自分が同性愛であることを認めなかったりそれを抑圧しても、何もいいことがないからだ。そうすることで当人が不幸になるだろうし、選ばれた相手にとっても不幸だろう。自然でないことを無理強いできはしないのだ。
同性愛者は、誰もがそうであるように、ありのままの自分を受け容れて当人自身でいる必要があるし、そのままで幸福を探し求めなければならない。同性愛者であるという状況は、悪いことではない。全くその逆で、その魂にとっては、自由意志と感情における自由の大切さを認識できる、進化の一助となるものだ。
人は、本来の自分と違う人になることや嫌いな生活を強いられると、苦しむものである。それが、その人の試練となる。社会の無理解と拒絶にもかかわらず、自分自身になるために闘うのだ。本当の自分になるのが困難であると、自由意志の尊重をとても大事にする。そして、他者に強要されることは苦痛の主たる原因となるので、何があってもすべきではないと気づき始める。
同性愛と性同一性障害は、虚栄心との関係が深いとつけ加えておこう。虚栄心を克服しない限り、このような状況はなくならないだろう。

双子の魂の話に戻りましょう。カップルとしての幸せが双子の魂の結びつきによるのであれば、今生でカップルとして一緒になれない環境――たとえば血縁関係にあるなどの――を選ぶことは、矛盾していませんか?

時折、自分に一番よく似た存在がそばにいてくれることを確約する手段として、血縁関係を選ぶことがある。通常、血の繋がりがないと、相似する二人がそばにいられる物理的な障害が多くなり、一緒になるのが望ましくても、大半はそうならないものなのだ。だから、最善の状況ではないものの、確実な方法をとる場合があるのだ。

パートナーがいる大半の人たちが、自分の双子の魂とカップルになっていないということですか?

もう、すでにそう言っただろうに。相似の魂と結びついている地上のカップルは、両手の指で数えられるほどだ。もっとも、もちろんのことだが、それが自分のケース、つまり似通った魂同士の結合ではない、と認める人はほとんどいないがね。

一体誰が自分の双子の魂なのだろう、と疑問を持つ人たちもいると思います。簡単なことではないと思いますが、どのように自分の双子の魂を識別するのですか?

君たちが自分の感情に従って行動し、愛する場合にもっと大きな自由が君たちの世界にあれば、より容易になるだろう。だが、そうなっていないので、可能であり得たことが複雑なことになってしまっているのだ。

肉体を持って生きている時に、双子の魂同士がカップルになるのを妨げてしまう障害とは、どのようなもですか?

それも、もう話したろう。君たちの惑星の人間はまだすっかりエゴに浸りきっていて、愛の能力もあまり発達していないので、相手を選ぶ場合に、愛の感情よりも他の要素を優先してしまうのだ。生まれ出る前に、相似の魂同士がカップルになる約束をしていたとしても、転生すると別の人たちとくっついてしまうのが一般的である。

そうなってしまう要因は何でしょうか? 言い換えると、なぜ、愛のない結びつきが起こってしまうのですか?

肉体的な魅力に惹かれる場合、物的または精神的な便宜、二人の知的面での類似性、愛される必要性や愛する必要性など、いろいろな要因がある。

具体的にどういうことか明確になるように、それぞれの理由についてもう少し深く説明してくださいますか?

いいだろう。君たちの世界における最大の理由となる、肉体的な魅力または性本能から始めることとしよう。
魂の愛する能力がまだ発達していない時は、意志が本能に多大に影響されていて、パートナー選びという特定の場面で、性本能が感情に勝ってしまうのである。そのため、内面ではなく外見を見て、性本能が反応する相手を選びがちだ。それで、肉体的に魅力的な人は相手が見つかりやすいのに、魅力がない者は、永久に見つからないような目に遭うのである。
このような行動が君たちの世界では大多数だが、それは全体的に言うと、大半の人に愛する能力が足りないためである。また、青年期にパートナー選びが集中しているのも、その原因である。性本能が目覚めるこの時期は、若者特有の未熟さも相まって、より進化した魂でさえも、感情を発達させることよりも性本能を満たしたいと思うからだ。

でも、カップルの関係では、相互に性的魅力を感じることが不可欠だと思います。お互いに性欲が生まれなければ、カップルになる意味などないと思われませんか?

もちろんそれは必要条件だが、それで充分ではない。
性本能と性欲とを混同しないことだ。二つの意味合いは違うのだよ。生物学的な性本能によっ性欲が活性するのは確かであるが、性欲は本能によってのみではなく、感情によっても高められるのだ。
生物学的な性本能は、基本的に、肉体的な魅力と目新しいものに対して反応する。それは、不特定多数との関係を促す、生物的なプログラムなのである。というのも生物学的な視点では、それが遺伝子の交配と種の繁栄に寄与するからである。
愛情がないのに肉体的な魅力で二人の人が結びつく時は、ひと度性的に満たされてしまえば、お互いに性欲が減少していくのが一般的だ。それは、性本能にとってその関係が新鮮でなくなり、最初の頃のように高まらなくなるからだ。
その関係が続くとどういう結果になるかというと、通常は性欲が減退する。二人の性欲が、完全に本能に基づいたものであったからである。セックスの間隔が空くようになり、僅かになる。そして新鮮でなくなったパートナーに興味を失い、他の新しい候補に関心を持ち始める。このような状況が続くと、初期には性本能の陰に隠れて見えなかった魂の類似性のなさや愛情の欠如が際立ってきて、不幸の温床となり、喧嘩や非難の増加となって表れる。この時になって、カップルの愛が終わってしまって情熱がないと言い始めるのだが、実は初めから愛など存在しておらず、本能が魅惑されていただけだったのだ。
お互いに愛情がありさえすれば、目覚めた性欲がなくなることはない。性欲が本能ではなく、愛の感情によって養われることになるからである。

次に物的な便宜による結びつきを話してください。

それについては、あまり説明を要さない。つまり、物的な利益に基づく結合である。夫婦の一方または両方が、結婚することで、自分が持っていなかった物的な快適性、社会的地位、成功、名声、富や権力など、物的に有利になる何かを引き出せると思う場合だ。
これが動機となる場合は、先の例よりもさらに貧しい結婚となる。性的魅力すら感じず、伴侶には愛しているから結婚したのだと思わせて、愛情があるふりをするのだが、何の愛情もないのは明らかである。

そうすると二人が一緒になる理由は、それぞれ異なるかもしれないわけですね。二人とも物的な利便性が動機であるなら、取り繕う必要はないわけですから。

全くその通りである。夫婦の動機がそれぞれ違うのは、よくあることだ。一方が物的利益で、もう一方が肉体的な魅力である場合もある。
一例を挙げると、美人が好きな冴えない億万長者が、お金持ちになりたいと思っている魅力的な女性とくっつくケースである。双方ともに愛の感情はなく、自己願望を満たしたいだけなのだが、おそらく二人とも自分の意図は隠して、愛情があるように装うだろう。当初はお互いの希望が叶って比較的満足できたとしても、この関係ではどちらも幸せにはなれないだろう。

それでは、精神的な便宜とはどのようなものですか?

二人のうちの一方が、変えるつもりのない自分の利己的な性格の特徴のために、相手の精神的な側面が便利だと思う場合だ。
たとえば、支配的で自己中心的な人には従順で素直な人がパートナーとして好都合で、気紛れな人にはサービス精神旺盛の人が便利、怖がり家には決断力のある人、怠け者には行動派、といった具合だ。

でも、表面的に正反対の精神的な側面を持っていることは、悪いことではなく、助け合ういい機会になると思いますよ。たとえば、決断力のある人は、怖がり家のパートナーが怖れを克服する手助けをしてあげられるでしょう。

問題は、性格の違いがあることではなく、自分のパートナーを、その人に愛情があるためではなく、精神的な便宜のために選んでしまうことである。
怖れを克服したいのであれば、精神的な助けを求めればよかろう。もちろん、それをパートナーに頼るのもいいが、そのために相手を選ぶべきではない。
こういうケースでは通常、カップルの二人は、支配 – 従属関係、つまり精神的に依存し合う関係となる。この関係においては一人は、相手から愛情ではなく指図さしずしか貰えないので、隷属している感じになる。他方、相手側となる支配的立場の者も、同様に苦しんでいるのだ。その人のエゴが満たされても、自分自身に愛が欠如していれば虚しく、その関係に満足できないからだ。

今度は、知的面での類似性について話してください。

同じ嗜好、趣味、興味を共有する二人の結びつきのことだ。たとえば、同じ社会層、同種の仕事、似たような知的レベル、職業的または物的な期待度が同程度、スポーツやパーティ好きなど同じ趣味で楽しめる、などである。

嗜好や趣味を共有して何が悪いのですか? 僕はそれはカップルにおいては自然なことで、望ましいことだと思いますが。

嗜好や趣味を共有することは何も悪いことではない。ここで説明しているのは、パートナーを選ぶという決定は知的類似性に基づいてなされてはいけない、ということだ。そうしてしまうと二人は、感情面ではなく、知的面だけで結びついてしまうからだ。

多くの人が、嗜好や関心の類似性はカップルとしての適性に大きく関係していて、適性がありさえすれば愛情も湧いてくると信じていますよ。たとえば、結婚相談所では、お客さんの理想の相手を見つけ出すために、嗜好・興味・願望などの項目の適性テストを行いますが、それは、そうすることで二人の親睦の可能性が増えるだろうと考えてのことです。

そのようなことをしても、それは知的な類似性だけのことで、相思相愛になるわけではない。感情というものは確率のことなどわかりはしないし、あらかじめ計画もできない。
各人が頭の中で考える「理想的な相手」という枠組みから外れていたとしても、愛情は、湧く時には自然に湧き起こるものである。その「理想的な相手」とは、判で押したように、女性にとっては、背が高くハンサムでロマンチックな男性であり、男性にとっては、セクシーで金髪で情熱的な女性である。このようなものは、想像力をかき立てる頭の中の空想であり、愛の感情とは関係ない。もし、愛の感情が確率で決まるのであれば、相似の魂同士が結びつくことなどないであろう。その結合が偶然に起こる可能性はとても低いからである。
知的面での類似性による結びつきは、表面的に上手くいく時期があるのだが、原因を特定するのが難しい内面の虚無感が生じてくる。頭で判断する外部の目には、幸せになるための必要条件が全部揃っているように映るが、幸福になるのに唯一必要となるもの、つまり愛の感情が欠けているのだ。

次は、愛される必要性で一緒になる人たちのことを話しましょう。

これはよく見られる理由である。一般的には、それまでの人生であまり愛してもらえなかったと感じる人たちや、(今生の以前で)自分が体験したと直感しているものの、今生で出会えていない愛を懐かしむ人たちに該当する。
愛されたい欲求が大変強いため、人から関心を持たれてパートナーにしたいと言われると、とても感謝して、自分の感情を顧みずにすぐに承諾してしまう。通常、これらの人たちは自己尊重能力が低く、自分に魅力がないと感じ、誰からも愛されることはないと思っている。幸せになる権利などないと思っているのだ。
これらの人たちの多くが、極度の愛情不足、寄る辺なさ、あるいは肉体的または精神的な虐待の状況など、困難な幼児期を送っている。当人がまだ自分の力で、抑圧的な家庭環境から逃れることができていない場合には、その耐え難い家族関係から解放されるための安全弁として、パートナーとの関係を利用することがある。

ですが、愛される必要を感じることの何が悪いのですか? それは自然な感情で、すべての人にあるものだと思いますし、愛されたいと願わない人はいないと思いますよ。

愛されたいと願うこと自体は悪いことではない。確かにそれは、すべての魂にとってふつうのことであるし、幸福になるための鍵が愛にあると自覚していることになるので、ある程度の進化レベルにいることの証拠でもある。
問題は、その愛される必要性が強烈だと、自暴自棄や情緒的に盲目になって、心の空洞を埋めてくれる人を早急に見つけたいという焦燥感が生まれることだ。そうなると相手を選び急いでしまい、愛の感情が芽生える人ではなく、その場の誰をも自分のパートナーとして受け入れてしまう。また、愛にかつえていると、情緒的に盲目となって、パートナーをありのままに見ることができない。その人を愛することができるという期待感から、相手を理想化してしまうことになる。

こういう人たちの関係も、通常は支配関係や従属関係となりやすい。このような人たちの多くが息詰まる家族関係から逃れて、カップルとなった者たちだ。自己主張の強い支配的なパートナーに当たった場合には、従順になりやすく、相手に指図されいやしめられても容認してしまう。

当人の情緒的な盲目、明晰さの欠如、逃避願望などが、以前の暮らしよりもひどいことはあり得ないと信じさせ、未知なるものを選ばせる。だが、新しい生活も、捨て去ろうとしたものと同じかそれ以下という結果となる。そして、より良いものを知らないためにその状況ですら正常であると許容し、元の家庭においてと同様の服従の役を担ってしまうことになるのだ。

時には、多少なりとも原因を知った上で、パートナーを選ぶこともある。それまでの経験と正反対の性格を持った人、つまり優しく、穏やかで、寛容で心が温かく、自分を大事にしくれるとわかる人を求める。この場合にはその関係は、父と子または母と子といった関係になり、両親から与えてもらえなかった愛情を相手に求めるので、伴侶はパートナーというよりむしろ保護者の役目を果たす。

苦痛な家族関係から救われた人は、苦しい状況から助け出して守ってくれた相手に感謝し、借りがあるように感じるので、何とかしてその恩を返そうとする。そして、その謝恩の感情がカップルの愛だと自分に思い込ませるに至るので、相互依存的な関係ができるのだ。

この最後のケースでは、少なくとも幸せな結末を迎えますね。

苦悩は少なくはなるが、相思相愛ではないので、このケースも幸福ではない。少なくとも一方には、ありがたく思う気持ちしかないので、それでは二人とも幸せにはなれない。一人は愛していないことで不幸であり、もう一人は愛されていないから不幸である。

孤独を怖れて誰かと一緒になる人たちも沢山いると思います。孤独への怖れから相手を探す人たちも、愛される必要性、もしくは精神的な便宜からだと考えられますか?

時には愛される必要性からであり、時には精神的な便宜からである。
孤独を怖れる人の中には、愛される必要性がなく、精神的な便宜を求めている場合がある。特に歳をとると、老年や病気を心配して、人生の最後に身寄りなく過ごすのが嫌なために、自分の要求を満たしてくれて、暮らしを楽に、快適にしてくれる人を必要とする。
だが別のケースでは、確かに孤独への怖れは、愛される必要性の表れである。

今度は、愛する必要性に基づく結びつきについて、お話ください。

よかろう。このタイプの関係では、どちらか一方、または双方に、充分発達した愛する能力があり、それを表現することで、自己充足し幸せを感じようとする。この人たちも、内面では(前世の関係で)情熱的に愛した経験があることを直感していて、今生で出会えていないその愛を懐かしむ人たちであることが多い。
愛する必要性と愛する者を見つける必要性が強くなり過ぎると、愛される必要のある人たちの場合のように、愛を感じたいという欲求が自分の感情までを制覇してしまい、相手に対する気持ちからではなく、愛したいという欲求からパートナーを選んでしまう。

でも、愛する必要性があることは何も悪くないのではありませんか? 愛する必要性がなければ、パートナーを見つけようともしないので、愛の感情も生まれないと思います。愛の感情を育むメッセージと矛盾していませんか?

愛される必要性がある人たちの話をした時にも言ったことだが、愛する必要性を感じるのは何も悪いことではない。君がまさに指摘した通り、愛する必要性というものは、愛の能力と密接な関連がある。

愛する能力が高い者は、沢山の人を愛することができるが、それは誰にでも恋愛感情を抱けるという意味ではない。カップルとしての愛の感情は、誰に対してでも湧くわけではないのだ。
問題となるのは、そういう感情になりたいという欲求から、感じてもいない気持ちになろうと自分を仕向けること、つまり、自分の気持ちを強いることだ。愛の関係における感情は強いることができず、自然に起こるべきものである。感情を強いることは、感情を発達させることと別である。ここで言おうとしているのは、無理な感情を持とうとするのは、幸せになれる代わりに苦しみを招くので、良くないということだ。
愛する必要性に取りつかれている人も情緒的に盲目で、愛と愛する必要性とが見分けられなくなっている。恋をしているのだと自分自身に思い込ませるのだが、実のところは、愛を感じようと奮闘しているに過ぎない。しかも、愛の感情だと思っている自分の気持ちに、相手が応じてくれるのかもあまり気にしない。相手もそうだと信じ込むか、そうでなくても全身全霊でその人に尽くせば愛してもらえると自分自身を納得させる。相手は、自分の溢れ出る愛に抵抗できずに、最終的には愛してもらえると思ってしまうのだ。

僕は、愛するということは、見返りを期待せずに与えることだと思っていたのですが、お話を伺うと、カップルの愛はその例外となるようです。相手にも応えてもらうという、交換条件があるみたいですから。

それでも、本当に愛する者は、何の見返りも期待しないというのが真実なのだ。愛する人に感情面で応えてもらうことは強要できないし、両想いだったとしても、その気持ちを認めさせることも、一緒になるように強いることもできないからだ。要は、相手の意思と自由を尊重し、自分の心を捧げてはいても、「否」という返事を受け容れる心積もりが大切なのだ。
そうは言っても、カップルの関係において幸せになるためには、双方ともお互いに愛が報われていなければならない。相思相愛でなければ、どちらも幸せになることができない

これまで、愛情ではなくさまざまな異なる要因でカップルになる例を説明してくださいました。肉体的な魅力、物的な便宜、精神的な便宜、知的面での類似性、愛される必要性、愛する必要性などいろいろでしたが、これらの動機は独立したものですか、それとも組み合わさることがあるのでしょうか? たとえば、ある人が相手に肉体的な魅力を感じていて、同時に愛される必要性も感じている場合もあるのか、ということです。

ああ、もちろんだとも。事実上ほとんどの場合に、幾つかの動機が混ざり合っている。肉体的魅力は、ほぼすべての他の要素と組み合わさる。たまに無関心な人もいるが、生物学的な性本能はすべての人に備わっているからだ。
実際には、魂の愛する能力次第で、どの要因が優先されるかが決まる。
まだ愛を知らないために、それを評価できない未熟な魂であれば、肉体的魅力、物的便宜、精神的便宜、知的類似性、といった四つの動機が、さまざまに組み合わさって表れることが一般的である。より進化した魂の場合は、通常、肉体的魅力が愛される必要性や愛する必要性と組み合うことが多い。
そして、中間層では、肉体的魅力、精神的便宜、知的類似性、愛される必要性、の中での組み合わせが起こる。
また時には、これらの動機が同時に出現せず、特定の関係の異なる時期に生じることがある。たとえば、肉体的な魅力から関係を始めても、それに飽きると関係を維持するために、物的便宜や精神的便宜など、他の動機が際立ってくるのだ。

それでは、物事が余計複雑になってしまいます。自分の気持ちを分析して、愛の感情と他の要素とを見分けることは簡単ではないと思います。たとえば、性的魅力が愛される必要性や愛する必要性と混ざった場合は、愛と必要性や欲求とを区別するのが難しいことでしょう。

君たちの世界では、大多数の人たちにとって困難であろう。それは、君たちにはまだ愛の感情が明確ではなく、確固たるものがないからである。だが、進化の道程はそのため、言わば、経験したことから学んで本物とそうでないものを見分けるため、にあるのである。

すべての愛の形が同じとも限らないのではないでしょうか。パートナーのことを大変慈しみ、とても仲がいいのに、セックスの必要性を感じない人もいます。この場合は、どういうことなのでしょうか?

兄弟や友達に感じるような兄弟愛を相手に感じているということで、恋をしてはいないので、カップルの愛とはいえない。感情を混同しているのだ。

自分の感じる気持ちがカップルの愛なのかを、どうやって知ることができるのですか?

言い争いやいざこざがなくても、完全には満たされずに、自分たちの関係に何かが足りないと感じる者は、まだ真の愛に巡り会っていない。相似の魂同士でなければ、カップルが申し分なく親和することはないのだ。二人の親和力のなさは、感情面、精神面、性的な面など、あらゆる分野に表出し、埋めることのできない内面の虚無感を生み出してしまう。
人生において、相似の魂との愛を経験したことのある者であれば、それを簡単に識別できる。愛する者を思い出しただけで、魂が揺すぶられ、満ち足りた気分になれるからだ。
人生でまだその湧き起こる感情を体験していない者には、相似の魂を見抜くのにも迷いがあるので、霊的な直感を頼りにするしかない。今生での経験がなくても、相似の魂同士の愛の感情が損なわれることはないので、再び転生して過去の記憶が一時的に失われてしまったとしても、拭い去ることのできない痕跡が魂に刻まれて永続するからだ。
この感傷的な直観力が、真の愛であるか否かを見極めてくれるものである。

しつこくて申し訳ないですが、兄弟愛と双子の魂との愛をどうして区別しないといけないのでしょう? 自分の兄弟や子どもを愛してでは満たされないとでも言うのですか?

自分の相手のことを兄弟のように思い、パートナーとして見ていない者は、それがカップルの愛といえないことをすでに知っているものだ。つまり、子どもか兄弟のように慈しんではいるが性欲を感じない場合や、性的な関係を持っても虚しさを感じたり、その関係に全霊を捧げようとは思えずに終わらせることができる場合、その人の感じている愛は兄弟愛なのだ。

では、自分がパートナーのことを兄弟のように愛していることに気づいた場合は、どうしたらいいのでしょうか? その関係を続けるべきですか、終わらせるべきですか?

幸せになりたいのであれば、自分自身と相手に対して、自分にある感情について正直になって、それに見合う行動をすべきだ。どちらか片方に恋愛感情がないと知りつつカップルの関係を維持することは、当人も幸福ではないし相手のことも幸せにできないので、無意味である。
たとえば望まない性関係を持つことは、苦しみの原因となるが、相手にとっても欲求不満の元となる。その後味の悪さを避けようとして、セックスをしなくなるのであれば、それは兄弟の関係と、一体どんな違いがあると言えるのだろうか? 要は、その人はパートナーのことを自分の兄弟のように愛しているので、兄弟との間柄のような関係になるのである。自分の兄弟とはカップルの関係にはなれないので、カップルとして、その関係を継続することには意味がない。

パートナーを兄弟のように愛するだけで幸せだし、誰もいないよりはいい、と言う人たちもいると思いますよ。つまり、あるもので満足しているのですが、これは正しい振る舞いでしょうか?

ここで、正しいとか正しくないとかを話してもしょうがない。それより、真に幸福になれるか否かを話した方が良い。そのような状況で諦めてしまって、それで幸せだと思い込んでいる人たちがいるが、実際には違うので、自分を欺くことになる。

パートナーへの恋愛感情がないことを認めても、まだとても愛着があって、その絆を失いたくないがための精神的な葛藤から、相手と別れるというステップが踏み出せない人がいますが、これについてはどうですか?

連れ合いに男女の愛を感じないことを認めても、必ずしもその人に反感を持つ必要はないし、またその人を人生から完全に閉め出す必要もない。単にその人に対する自分の感情の種類を認識して、人生が自分の気持ちに見合うものになるように行動するだけのことだ。
友情があるなら、カップルの関係の継続を強いることなく、その友情を続けていけばよい。この現実を認めずに、自分の気持ちに釣り合わない関係を維持しようと無理すると、相手に対しての拒絶感が生まれてしまう。

恋愛感情がないことを認めている人は大勢いますよ。自分としては別れたいのだけれども、相手を傷つけたくないので、関係を続けていく方がいいのだと言いますが、この点については、どういうご意見ですか?

相手を愛していなければ幸せにすることはできないので、関係を長引かせれば、その人を傷つけてしまうだろう。実際は違うのに、パートナーとして愛しているのだと相手に思わせることは、相手を騙していることになる上に、関係を長引かせれば、相手は自分の気持ちに本当に応えてくれる人を見つけることができなくなってしまう。そういう愛情の絆がない状況において、関係を継続させることは、破局を迎えるよりもダメージが大きい。それは世間の目を気にした虚偽の結びつきであり、双方に苦痛をもたらす無理のある関係である。

これはカップルの問題なので二人が同意して決断する必要があると考えて、相手が関係の精算に反対ならばその関係を続けるべきだ、と思っている人たちもいますが、的を射ているでしょうか?

いや、二人のうちのどちらか一方が関係を続けたくなければ、解消するには充分だ。パートナーがその決断に合意しているかどうかは関係ない。個人の自由意志の侵害となってしまうので、伴侶といえども、関係の継続を強いることはできないのだ。
その論旨は多くの場合、自分から関係を終わらす勇気に欠け、相手に切り出してもらいたいという期待が反映した言い訳に過ぎない。

そうは言っても、一方が恋愛感情がないから関係を終わらせたいと相手に告げると、相手が非常に悪く受け取って、何が何でもその関係を続けさせようとする場合がよくありはしませんか?

確かにそうだ。現実を認めようとしないのだ。その関係が楽で慣れているので、自分の生活に変化が起こるのを怖れてしまうのだ。未知の良いことよりも既知の悪いことの方がまし、といったところだ。
その人の受けた教育も大きな影響を及ぼしている。伝統的な教育を授かった場合には、カップルが崩壊することは、特に結婚の契約が介在しているケースでは、自分の評判に傷がつく不名誉なことと見なすからだ。
また、愛を装ったエゴ的な感情である執着や所有欲に冒されていると、パートナーのことを所有物であると見なす傾向にあるので、自分の持ち物を失うことを受容できない。つまり幸せではないのだが、これまで要求が叶っていたせいか、自分に属すると考える馴染みのものを手放す気がないのである。
嘆かわしいことだが、執着があるせいで、愛情の地位の変化を受け容れる気のある者はごく僅かしかいない。つまりふつうは、パートナーから友達にされることを面白く思わず、立場の変化を拒絶や侮辱だと捉えるのである。相手の自由意志を尊重することができないので、犠牲者を装ったり、言いくるめたり、脅したりして、関係の継続を強要する。挙句の果てには、元のパートナーに多大な肉体的かつ精神的な苦痛を与えることさえあるのだが、それを見ても相手をほとんど愛していなかったことは明らかだ。
多くの場合、元パートナーたちはそうされると、精神的、肉体的に攻撃されないように、一切のコンタクトを断つ羽目になり、一時は自分のパートナーであった人に二度と会いたくないと願うほどになる。

今のお話から、パートナーの暴力的な反応が怖いために別れる勇気が出せない、という別のありがちな状況が思い浮かびます。関係を切れば、命が危ないと怖れる人さえいます。

そう、嘆かわしいことに君たちの世界では、感情における自由があまり尊重されていないので、多くの関係が愛に基づくものではなく、刑吏と犠牲者とが一緒に暮らす、支配 – 従属関係となってしまう。そういう場合に、抑圧されている被害者が本来のパートナーに感じる気持ちは、愛ではなく怖れである。
自分から別れを切り出したら、情け容赦なく猛追されると知っているので、恐怖から関係を切る決断を下すことができなくなる。しかも、加害者は多くの場合に、自分の犠牲者に心理操作をし、まだ愛されていると信じ込ませてしまうので、女性の中には別れることに罪悪感を感じる者もいる。

性暴力の件数が増加したことは、家庭内での男性の女性に対する暴力が増えたことと関係しているのでしょうか?

いや、暴力や乱暴は以前から、今と同じかそれ以上にあったのだが、夫が妻を支配しても法や社会規範で擁護されていたので、女性は従属の足かせを壊す勇気がなかったのだ。現在、性暴力のケースが目につくのは、特に女性を保護する法律が存在している国々において、搾取や虐待は許されないという社会意識が高まって、加害者から逃れる気概のある勇敢な女性たちが増えたからだ。虐待する側は、引き続き被害者を抑圧するのが不可能だと、拘束しようとして、より過激な行為に走り、殺害に至ることもある。

自分の夫やパートナーに殺されるのを怖れて、関係を切る決意ができない女性がいることは理解できます。そういう状況の時には、どうするべきなのでしょうか?

その関係を継続すれば、生きていながらも死んでいることになる。その人の心の中では、そのように暮らすことは死よりもひどいことなのだ。その試みの中で命を失ったとしても、虐待する者の横暴に屈して一生を棒に振るよりは、幸せになろうと自由を求めて闘った方がよい。
誰にでも自由で幸せになる権利がある。自分自身の人生と感情に関して、自分以上の決定権を持つ者は存在しないのである。

このような虐待の状況から、霊的には何が学べるのでしょうか?

このような試練は大変過酷であるものの、感情の自由のために闘おうとする魂が勇気と一貫性を獲得するのに役に立つ。そして、感情における自由の権利を剥奪することは、人に最大の苦痛と不幸をもたらす原因となるので、誰からも奪ってはならないと気づかせてくれるのだ。

中には、恋愛感情はないけれども、自分のパートナーに一度もひどいことをされたことがないので、別れようとは思わない、と言う人もいますよ。口論もしたこともなければ、暴力を振るわれたこともない、という礼儀をわきまえた関係のことですが、これについてはどうですか?

往々にして、二人の関係を終わらすには、肉体的あるいは精神的な暴力がある、または相手の(麻薬、アルコール、ギャンブルなどの)中毒症により正常な共同生活が台無しにされるなど、正当化し得る不快な原因があるべきだと思われている。
虐待されていなければ関係を切る筋合いはないという意見の人たちは、宗教的な伝統教育を受けていることが多い。そういう教育では、相手の暴力が唯一の離婚の口実として認められるので、双方に夫婦の愛情があるかないかにかかわらず、その関係を一生涯続けるべきだと感じさせられてしまう。しかしながら、それは違う。別れるには、カップルの二人が愛し合っていないだけで充分である。

そう断言することは、結婚の破棄は聖なる法律を破ることだと考えている人たちをびっくりさせると思いますよ。ほとんどの一神教の宗教では――カトリック教会を含みますが――離婚に反対ですよね?

多くの宗教は離婚に反対だが、当人の意志に反して関係の継続を強いることは「魂の法則」の中の、「自由意志の法則」に違反することになるのだと言っておこう。
愛がなく空虚なのに、怖れからか、その方が楽だからか、あるいは、離婚すれば婚姻非解消の宗教戒律に違反して神に背いてしまうと信じて、愛情のない夫婦関係を課し続ける人びとが大勢いるのを見ると、大変悲しく思う。結婚を一生続けるように人間に要請するのは神であると多くの人に信じ込ませたせいで、愛のない関係から生まれる苦悩と引き換えに、「天国への切符」を手にすることができると信じる人もいる。
だが、それは違うのだ。自分の感情に従って生きることを放棄した人には、何の霊的進化もない。神が義務付けるのではなく、その人を強要するのは、当人自身か、社会規範か、教わった宗教戒律である。婚姻非解消を要求するのは神でも高次の霊性でもなく、感情までを売買の対象物とする、エゴにどっぷりと浸かった人間の手による法律であることをはっきりさせておかねばならない。

天の戒めでないのなら、婚姻非解消という概念はどこで生まれたのですか?

人間の利己的で物質主義的なメンタリティーは、何もかもに値をつけ、ありとあらゆるものの所有権を決め、それを自分自身の命よりも大事にして、そのために殺したり殺されたりしている。君たちは、すべてが売り買いできるものと決めつけている。不可能でさえなければ、息を吸う空気や太陽の光線でさえも独占し、「これは私のものだ!」と主張できるほどの野心を持たない者たちに、目の玉が飛び出るほどの値段で売りつけることだろう。
それと同様に君たちは、人やその意志や感情さえも、お金で買えると思っている。結婚と呼ばれる契約書にサインすることで、ごくふつうの商取引をしていると思っているようだ。それによって、ある者は、人の意志と感情を買い取ったと思い込み、他の者は、契約によって自分の意志や決定能力、自由と感情とを伴侶に譲ることを義務付けられていると信じ込む。
この利己的な錯乱の極めつけは、神が契約の証人にされてしまっている点だ。そのため、自分自身や他の人たちの幸せが踏みにじられようが、何が何でも契約を貫かねばならないと思い込むに至った。そうでないと、銀行の借金を払い戻せないと資産を没収されるように、死後にすべての「財産」を剥奪されることになるからだ。言っておくが、これは全部、人間のエゴによってでっち上げられた大嘘である。
神は、一人ひとりに感情や思考における完全な自由を与えてくれているので、感じることや考えることの自由のために闘うことは、いかなる天の法則にも背くこととならない。どんな手段や状況であろうと、自由でいる権利や、自分自身の人生や感情に関して決める権利を、君たちから奪える者などいやしない。まして、神の名をその口実にすることなどできやしない。

これを、婚姻の破棄に傾倒した話に受け取る人もいることでしょう。

認めがたいかもしれないが、お互いの愛情に基づかない夫婦は、実際には夫婦として存在していないのだ。一生にわたり、署名入りの契約書を維持することができ、世間には仲の良いイメージを作れたとしても、それは表面上の結束に過ぎない。うわべだけの世間体は取り繕えたとしても、それぞれが心の中では実情を知っているので、自分自身の人生の虜にされた気がして、苦々しさ、空虚感、悲しみを噛みしめ、不幸であることだろう。さらに、それを誰にも知られまいとすると、独りで苦しむこととなり、余計に耐え難いものとなる。

人には別れたければ別れ、離婚したければ離婚する権利があって、それが神の怒りに触れることはない、と強調するのに一生懸命なようですが。

それは、このことが多くの人にとって深い悲しみの原因となっているからで、それを変える必要があるからだ。人には誰もに幸せになる権利があり、幸福を妨げる聖なる法律など存在していないことを知るべきである。霊界は全くその逆に、生きているすべての人が幸せになれるようにと願い、幸福への道を発見できるように可能な限りの手助けをするのである。
その道程で出現する障害を取り除く手伝いをしたいのだが、地上の法律は幸福への行く手を阻む巨大な岩のようだ。しかも、君たちはその岩が神によって置かれたものと思い込んでしまっている。もうこれ以上長く、この状態を容認しておくことはできない。

カップルの関係を合法化するためには結婚すべきではない、ということですか?

霊的な視点からは、二人の間の相互愛だけが真の結びつきだとされており、署名済みの結婚証書の有無には全く関係がない。
君たちの物質界では、配偶者や一族の子孫を保護するために、たいてい契約にサインを交わす必要がある。たとえば、どちらか一方が死亡した際に遺族年金を受け取れるためや、故人の伴侶が身内の者に家を取り上げられたりしないためであり、これは理解し得ることである。だが、これは物的に有効であるに過ぎず、それ以上の価値を見出そうとすべきではない。
つまり、結婚の繋がりを相手の自由を束縛する口実に利用すべきではないし、相手が別れる決意をしたら絶対に拘束したり恐喝すべきでない。霊的な観点からは、自由意志の法則に反する行為となるからだ。

恋愛感情がないにもかかわらず、夫婦の関係を維持しようとする動機の話に戻りますが、別れた場合に物的な支えを失うことを怖れて、住まいと生計を保証してくれる生活を続けようとする人がいますが、そういうケースについてはどうですか?

実際には物的な利便性を重視する結びつきであることを反映している。当初はそれが結婚の動機でなかったとしても、今は継続の口実となっている。このような人たちは、自分の感情の自由か、それとも安全性と安楽か、そのどちらに価値を置くのかを決める必要がある。
そういう理由から夫婦関係を維持することを決めれば、物的には何の不自由もないだろうが、愛がない暮らしとなるので、感情面では空っぽである。関係を続けるのは、愛の感情を大事にしない物質主義の人であろう。
だが、何にも増して幸せになることを望む人であれば、物的にはゼロからのスタートになろうとも、怖れに打ち克ち、喜んでそうするに違いない。感情における自由を回復することができるからである。

二人の間に子どもがいる人たちの多くが、もう一つの理由として、子どもを守るために別れないと言います。そういう人たちは、少なくとも子どもが成人するまでは、我慢したいそうです。本人の幸せよりも子どもの幸福を優先し、子どもへの愛から正しい行動をとっていると思っています。カップルや夫婦が破綻すれば、子どもに感情的なトラウマを与えると考えて、それを回避しようとしているのですが、これは正しい判断でしょうか?

いや、そうではない。離婚する時には、子どもと離縁するのではなくパートナーと別れるのであるから、それは誤った結論である。両親が子どもを愛しているならば、一緒にいなくても子どもを愛し続けられる。
「子どものために我慢する」という言い訳は、個人的な幸せよりも家族の結束が優先される伝統的な宗教教育を授かった人たちの間によく見られるものだ。
むしろその関係を長く続けると、反対に、子どもを苦しませてしまうことになる。愛し合っていない二人が一緒に住もうと無理をすると、周りまで感応して不幸せになるので、子どもの情緒には否定的な状況となる。子どもたちは多くの場合、両親の喧嘩や口論に居合わせて、親の不快感や苦悩を感じ取る。そして、これこそが子どもたちに感情的トラウマをもたらすのである。「あなたがいなければ離婚していた」と言う親もいるので、両親が不幸せなのは自分のせいだと感じながら成長する子どももいる。こういうケースでは、親は自分の意気地のなさを子どものせいにしているのだ。

でも子どもたちにしてみれば、両親が別れたら、生活が激変しますよ。両親の離婚が、大勢の子どもたちにとってトラウマだというではありませんか?

子どもが小さい場合は、まだ充分な知識がなく教育の枠付けに縛られていないので、両親の破局自体は何の感情的トラウマともならない。自分の生活が変わっても、双方の親と会うことができ、両親も子どもに対する愛を示し続けることができるのなら、子どもはゲーム感覚で変化を捉える。幼い子どもを最も苦しめることは、自分が武器にされて離婚の原因となる夫婦喧嘩の渦中に投げ込まれることと、夫婦間の争いやののしり合いや脅し合いを目にしなければならないことである。したがって、それらを回避できるのであれば、離婚する場合でも、子どもたちのトラウマを避けてあげることができる。

子どもが大きい場合はどうなるのですか? 大きい子は大半が原因をわかっていて、自分の生活が変わるのを嫌がりますが。

離婚は多くの場合、何年も我慢した挙句に起こるものだ。両親は意識的にそうしたのではなかったかもしれないが、その間に子どもたちに伝えられてきたメッセージは、個人の幸せよりも家族の結合の方が大事である、ということだ。それゆえ、子どもたちはその視点から、起きている物事を解釈するようになる。両親の破綻は、それまで自分たちが正しく善いことだと信じてきたことと反対に見えるので、否定的に受け留める。現実を子どもたちがを受容できるためには、それまでの教育を打壊して、今度は、感情の自由と個人の幸福が最も大切であり、何人も絶対にそれらを放棄すべきではない、とわからせてあげる必要がある。

幼児期を通して別の規則を教えられてきた子どもが、思春期近くになって、急にそういうことを受容するのは困難だと思いますよ。しかも、当人自身の親に教わったことですから、父親や母親が理性を失ってしまったとでも考えるに違いありません。

それは子どもがどれほど成熟しているかによる。他の子よりも理解力のある子どももいる。両親よりも現実を自覚していて、新たな一歩を踏み出すように親に助言をして、後押ししてくれる子どもたちもいる。成熟した子どもほど理解を示してくれて、受け容れるのも上手い。授かった教育よりも、その状況を理解できる進化のレベルがあるからである。
だが、その時に受け容れ難かったとしても、将来大人になって自分も同じような状況に置かれた時に、許容することができるであろう。つまり、将来カップルの関係を持って恋愛感情がないことに気づいた時に、その関係を続けるべきか終わらせるべきかの決断に際して、この世の何を引き換えにしようと、自らに継続を強いるべきでないと明確に自覚できるということだ。両親の例から、自由になるのは悪いことではないと知っているからだ。幸せになれない関係を断つ際も、もっと確信と勇気があり、罪悪感が少なかろう。
しかし、その反対の見本であれば――両親が気持ちに反して共同生活の継続を課したならば――当人もその例を真似て、親と同じ不幸な人生を繰り返すであろう。

これまで私たちが話してきたことをまとめると、カップルの愛は兄弟愛や親子愛よりも大切な愛であるというメッセージを伝えているような気がしますが、カップルの愛を兄弟愛や親子愛と分け隔てするのは、利己的ではないでしょうか? 違いを設けることは、無条件の愛の概念と矛盾していませんか?

どういう根拠でそう言っているのかね?

おそらく、イエスの示した手本だと思います。イエスは、カップルの愛についてだけ特別に話したことはないですから。

君の情報の大元が、イエスの言葉がほとんど反映されていない教会の福音書なのだから、君にはそれはわからない。だが、ここで私が、イエスが理解力のあった身近な者たちに、男女の愛についても語ったということを伝えよう。イエスは彼らに、完全に似通った相互の愛のみが二人を結びつける絆であり、カップルになるか別れるかはそれぞれが完全に自由に決めるべきである、という教えを説いた。
この言葉は今では、ふつうの理性がある人にはもっともで、何も特別に聞こえない。しかし、当時の人のメンタリティーは理解に欠け、感情面の自由を尊重することなどゼロに等しかった。一夫多妻制は頻繁であり、大半の結びつきが愛のない取り決められた結婚(以下、取り決め婚)で、夫婦のどちらか一方または双方が、当人の意志を考慮されないまま強要されて結婚していた。

今日においては、取り決め婚は無理強いであるとわかっている人が多く、この慣習に反対しています。

そう考えるのは、ある程度の個人の権利と自由を守るために法整備が進んでいる西洋社会においては当たり前かもしれないが、今日においてでさえ、取り決め婚の慣習は多くの国で一般的だ。そういう諸国では、通常「宗教的」性質を帯びた指導者や体制によって奨励され制定された法律が、「神の名の下に」年端のいかない女児をも大人と結婚させることを容認して、女児・女性たちへの肉体的・精神的な搾取や性的な虐待を法的にかばっている。そうして、この搾取的習慣に従わなければ、けがれた不純な人であり、神の計画に背いたと思い込ませている。それにもかかわらず、女性たちが非人間的な状況から逃れようとする時には、彼女たちを犯罪者扱いして、拷問して残酷に殺してしまう場合さえある。
取り決め婚は制度化された売春の一形態だと知ることだ。それは、表面的には「潔白」であるが、当人が選んでもいない人と一緒にさせて、性的な関係を持つことを強要するのであるから、自由意志、中でも感情における自由に対する重大な侵害である。

それにしても、現在では少なくとも西洋の国々では、大多数の人びとが自由とは何かを知っていると思います。そして個人の自由は法律によって保護されて、離婚する権利が認められており、その妨害をする人たちは罰せられる筈ですが、そうではないのでしょうか?

確かにその通りだ。そして、これは無数の犠牲や闘いを経て獲得された、大変大きな霊的進歩の象徴なのだ。残念なことに、これまで宗教権威者たちはこの動きに抵抗するだけで、毎度のことながら、人類の霊的な成長に寄与する代わりに、できる限り邪魔をして遅らせようとしてきたのである。中でも最も嘆かわしいのは、神の名がその口実に使われたことである。宗教的な慣習やルールは社会に深く根ざすものなので、法的に禁止する力はなくても、精神的な影響を与える場合があるからだ。

事実上取り決め婚が見られない、君たちの今の時代、現在の社会にあっても、まだ愛のない結びつきが沢山あることを知っておきなさい。しかも、愛の欠如に気づき離婚したいと思った人がいても、先ほど話したような宗教的な慣習のせいで、それがとても困難なのだ。

カップルの愛は利己的で無条件の愛と矛盾するのではないか、という先ほどのテーマに戻りましょう。それがイエスの教えでないとしても、少なくとも教会はそのように解釈しました。それはイエスが言ったとされている「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも嫌悪してわたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。」という一節(ルカによる福音書14章26節)によるのだと思われます。
教会はこの一節を、隣人を無条件に愛するためにはパートナーや家族とそれ以外の人たちとを分け隔てしてはいけない、という意味に取ったのでしょう。パートナーや子どもへの愛に囚われたままでは、他者に尽くすことができなくなりますから。僕は、カトリック教会はそのために、聖職者に貞潔を誓わせ独身で通させたのだと思うのですが、間違っているでしょうか?

君が取り上げたのは、実際にイエスが言ったことの目も当てられない悪訳だ。文中の「嫌悪する」という言葉を「執着をなくす」と置き換えてみれば、彼が言いたかったことがわかるだろう。イエスの意味することは、(彼にとっては)無条件の愛に至るためには、家族内でよく見られる執着心と所有的な愛に打ち克つ必要があるということだ。このような利己的な愛の様相は、往々にして人の自由を束縛し、隣人への無条件の愛の使命を果たそうとする際の制約となってしまうからだ。
それゆえ、イエスの言葉として解釈されていることは、事実に全く反している。パートナーとの愛を経験したことのない者は、無条件の隣人愛を体得できないと言っておこう。パートナーへの愛の感情は、人が愛のために闘う時に最も強いものである。そしてこの感情が、人生を生きていく上で、支えとなってくれるのだ。
イエスのように、他者のために尽くす使命を果たす場合には、内面の力が不可欠だ。イエスは、何を愛しているか、誰を愛しているか、なぜ愛しているかに確信があったので、内に力を秘めていた。霊界から派遣される本物は皆、相似の魂との愛を感じ経験したことがあり、その愛から、任務を成し遂げるための力を得ているのだ。この感情を否定すれば、虚しい限りで、勇気と意志力に欠け、そのようなミッションにつきものの障害に直面すると意気消沈してしまうのだ。

僕はそういう存在たちは神への愛に支えられていて、それで充分なのだと思っていました。

神への信心は力を与えてくれるが、人間の進化段階にいる者は自分と似た者、つまり類魂グループソウルの愛を必要とするのだ。人に幸せをもたらし、あらゆる面で満たしてくれるものをなぜ拒絶せねばならぬのだ? 一体、何が問題なのだ?
パートナーとの愛を放棄する者は、進化するどころか、魂が進化の道程で滞ってしまうことを告げておこう。この件に関する君たちの偏見、つまり、男女の愛を放棄すればさらに進化できて隣人愛の能力が高まると考えることは、人間の意志を服従させるために教会が作りあげたもので、「魂の法則」に反している。なぜなら、感情における自由の邪魔をし、幸せになることを阻んでいるからだ。

隣人を助ける仕事に集中するには、パートナーが邪魔になる場合があるのではないですか?

仕事の邪魔になるのは、パートナーがいることではなく、執着心のせいだ。どちらか一方が他方の自由を束縛できる権利があると思い、自分の所有物だと見なして拘束したり、他の人たちをパトナーの注目を奪い取った敵だと見なす場合である。これは、自分と似ていない相手と一緒になった場合に、よく起こることである。類似性に欠けていることから無理解となり、人生の意義に関する意見の相違が出てくるのだ。
類魂同士のカップルでも、エゴ的感情が介在するとそういうことになり得る。それはほとんどが執着心であるが、怖れなどの別のものもある。一般的には、愛する者が苦しむことへの怖れや、危険を伴う使命に身を奉じる場合にその人を失う怖れである。
だが、パートナーが自分と似通っていて、怖れやその他のエゴの形態を克服している場合には、何の障害ともならない。全くその反対に、一緒に転生できれば、二人が同じように集中して共に使命に従事するので、より深い取り組みとなる。両者共、お互いの愛に支えられ励まされ、それによって、決意して進むことにした道のりの辛さも和らぐのだ。

でもイエスには存命中、誰もパートナーがいなかったようですが、隣人を愛し使命を果たすのには支障がなかったのではありませんか?

このことは以前に話したであろう。イエスも皆と同じだ。彼にも相似の魂はいるものの、同時期に一緒に生まれてはこなかった。だがそれで彼女とのコンタクトがなかったわけではない。イエスほどの進化段階にいる存在にとっては、愛する者が同時に転生していなくても、それは決定的な障害とはならない。彼らは高い能力と感性を持っているので、物的な次元から比較的簡単に身を解き放つことができ、霊的な次元で類似する存在たちと出会うことが可能なのだ。

でしたら、特定の人たちを他の人たちよりも愛することは利己主義にならないのですか?

君は類似性の相違に過ぎないものをエゴだとしている。似ている者を愛する方が、似ていない者を愛することより常に簡単だ。類似性に差がある存在たちも同じ強さで愛することができるのは、大変進化した魂だけだ。私は、無条件の隣人愛に達するためには、初めに、類魂との愛を経験する必要があると言っておく。その愛が他者への愛を養う力であるからだ。
したがって、他者を無条件に愛することを望みながら、パートナーとの愛を抑制するか否定する者は、絶対に真の隣人愛には到達できない。内面を潤してくれる愛の源がなければ、他者に愛を与えて少しでも感謝されない目に遭うと、愛はたちどころに尽きてしまうからだ。
進化の十段階目に到達するには、一段階目から始めて、中間のレベルを超えていかなくてはならないのだが、君たちは、一段階目もよくわからないまま第十レベルに着きたいと思っている。双子の魂のように、似通った者への愛を否定している現状で、自分と似ていない者を、一体どうやって愛するつもりだろうか?

ですが、最初から真の愛に出会えてそれを見分けるのは、そんなにたやすいことではありません。

見分けるのが簡単でないからこそ、恋愛感情がないことを自覚したら、自分に方向転換を許してあげなければならない。本当に悲しいことは、愛のない結びつきではなく、愛がないと気づいてからも解放を阻む地上のしがらみを作って、無理やりそれを継続させようと頑張ることだ。

若者の方が、誰と一緒にいたいか、いたくないかを決めるのは自由だとはっきり知っていて、続けたくない関係であれば、それほど悩まずに断てると思いますよ。

そう、その通りだ。今の若者は、特に西洋諸国において、それほど抑圧的な教育を受けていないので、より自由である。特にもっと性的な自由を謳歌していて、ある人と性関係を持っても、その人と生涯共にすることを義務付けられるわけでない、と知っている。このこと自体はいいことだ。若者の問題は、望む時に関係を切れるかではなく、真の愛をどうやって見つけるかである。大多数が愛とは異なる理由で、一緒になってしまっているためだ。彼らの人生にはより大きな自由があるのに、感情を育む好機として利用されていないのだ。

では、どういう理由で一緒になるのでしょうか?

特に青年期に多いのが、肉体的な魅力と知的興味の類似性による結びつきだ。魅力的であることと一目置かれることを何よりも重視するので、性的魅力のある人や、有名だったりお金を持つ人がパートナーに望まれやすい。
肉体的な魅力のある若者は、そのありがたい身体のお陰で候補者に欠かないことに満足していて、自分も肉体の美しさで相手を選びがちである。このような関係は、通常、はかないものである。性本能が満たされるや相手に興味を失い、より新鮮な関係を求め出す。だが愛のない性行為は、愛の感情のみでしか満たすことができないことをセックスで満たそうとしているので、感受性の強い者であれば心に虚無感を生み、そのため、多数の若者が深いうつ状態に陥るなどの代償を支払うことになる。
一方で、魅力がない若者も同じものを求めるが、自分にない肉体美しか評価されないので、望むものを手に入れるのが難しく、虚しい努力に失望する。自分の外見にコンプレックスを抱き、引け目を感じ、パートナーを見つけられる可能性はほとんどない、と思ってしまうものだ。ルックスのせいで、コンプレックスを持って自虐的になると、よりスリムになりたいとか魅力を増して好かれたい、などの願望で沈み込んでしまったり、拒食症や過食症などの重い摂食障害を招く。

今の若者はかつてない自由な時代に暮らしているのに、なぜそうなってしまうのでしょうか?

今は性的にはより自由であるが、まだ感情の自由がないのだ。だから、感情の抑圧に打ち克つ必要がある。
君たちの教育の仕方は、以前として物質主義的で、精神性に欠け、子どもの感情面における教育がまだ不充分である。愛の感情を発展させながら幸せを追求せよ、と教えることが一度もないし、愛に価値を見出すことも、人生を霊的な視点で捉えることも教えない。
反面、子どもの頭脳や知性を伸ばそうと一生懸命で、将来職業に就くために必要な知識を与えている。学校の授業教育とはそういうものだ。学校外では、家庭で経験することも、マスメディアや交友関係が教えることも、幸福は虚栄心を満たすことで獲得できる、というものにつきる。つまり、他の者よりも秀でている肉体的魅力、知性、成功、名声、権力、お金などの表面的な資質を重視するように教育している。
多くの若者が、満たされにず虚しく思える人生から逃れる手立てとして、気紛れや快楽の充足、娯楽、愛情のないセックス、ドラッグなどに逃避している。感情で満たされるべきことを快楽と娯楽で埋めようとするが、愛がないので心が沈む。大勢の若者が苦しんでいるのは、虚栄心を満たす願望に取りつかれているか、愛の感情に対する感性が抑圧または否定されているせいだ。人生の意義を見出す必要があるのだ。
現代の若者たちは、人生には気紛れや快楽を満たして楽しむ以上の意味があると理解する必要がある。人生を真に充足させるためには、完全に自由に、感情と霊性とを育んで味わう必要があるのだ。こうして初めて、幸せになれるのである。

若者たちが消費主義、世俗主義、不特定多数とのセックスに傾倒する原因は、昔の道徳観を失ってしまって、霊的に後退してしまったからだと考える人たちがいますが、これは本当ですか?

いや、すでに話した通り、内面の虚無感から逃れるために物質主義へと走るのだ。過去において物事が今以上によかったわけではない。以前の若者たちが今日の若者たちのような行動を見せなかったとしたら、それは今よりも価値観が高かったからではなく、もっと抑圧されていたせいと経済的に困窮していたからだ。
宗教的な潔癖主義は性的な自由を押し潰し、人目を忍ぶ行為におとしめた。かつての若者たちは、感情的にも性的にも自由がなく、宗教的な厳格さの前ではあらゆることが罪だとされて、抑圧されて怯えながら暮らしていた。以前は性的な関係はほぼ完全に禁じられており、夫婦の間でなければ認められなかった。また、大半の結婚が愛のない強いられたものだったので、性体験は多くの人にとって耐え難く、トラウマを伴うものであった。
二重の生活を送る人も大勢いた。表向きは社会的な体面を維持する生活をする一方で、裏では密かにタブーや禁制だらけの生活に逃れて息抜きをしていたのだ。二つのモラルで行動するやり方は、現在に至るまで続いている。特に抑圧的な教育を受けた年配の人は、人の批判を恐れているので、二つの顔を使い分けるのに慣れている。

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愛の法則 Part4【愛の法則から見たカップルにおける不実】

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