愛の法則

愛の法則 Part5【パートナーとの関係におけるエゴ的感情】

愛の法則 Part4【愛の法則から見たカップルにおける不実】

パートナーとの関係におけるエゴ的感情

自分の双子の魂に出会っていながら、それを大切にできず、他の人たちと性関係を持ちたいと思ったり、実際に不義を働いてしまう場合もあるでしょうか?

その通り。確固たる愛がなかったり、それを慈しみ育む努力を怠ったり、エゴ的な感情を介在させてしまった場合に、そういうことがありがちだ。
愛にあまり敏感でない魂たちは、未発達の愛の感情よりも生物的な性本能の方が強いので、魂の幸せよりも肉体を満足させることに熱心だ。この段階においては、性欲は基本的に、肉体的な魅力と目新しさに対して芽生える。そして肉体が充足すると、その関係に対して興味を失い、新たな関係を追い求める。この時期においては、特定の人をえり好みすることがない。
魂が愛の感情を発達させていくにつれて、性欲が満たされても心の虚しさを感じるので、ただの性的な関係には飽き、それ以上のもの、つまり愛し愛される関係を求める。そして、ここで問題となってくるのが、魂の類似性だ。と言うのも、それがなければ、内面の充足感は得られないからだ。
そうして、自己の愛の感情のため、パートナーとの関係で幸せになるために奮闘し始める。
魂はこの道程において、無数の恋愛関係を経験し、すべて――本能、愛情、エゴ的感情――を味わって、体験の幸・不幸の度合いに応じて、少しずつ自分の感受性と愛する能力を磨き上げていく。こうして、エゴ的感情を排除していき、愛の感情を育んでいく。回を追うごとに、自分の感情がより明確になり、気持ちに従って生きる場合に、自信を持つことができるようになる。また、他者の感情における自由に対しても、だんだんと尊重できるようになる。

パートナーとの愛情を邪魔してしまうエゴ的感情の代表的なものは何ですか?

いろいろなものがある。執着心が主なものだが、そこから独占欲、犠牲者意識、嫉妬心、恨みと悔しさ、恋愛感情の強迫観念、恋愛における罪悪感、愛することへの怖れ、感情的混乱などの他のエゴ的感情が派生する。

これらのエゴ的感情がそれぞれどういうものなのか説明してくださいますか?

もちろんだ。執着心から始めよう。これについては以前に説明しているが、ここではもっと深く見てみよう。

執着心について

執着心は、一般的には「所有的な愛」として知られる。執着に苦しむ者は、カップルの関係であれば、パートナーから意志や自由の一部を譲るよう強要されても当然だと考えており、同時に、自分も相手の意志や自由に関する権利を得ていると思っている。
執着心の二つの側面を、能動的な執着心と、受動的な執着心とに区別してみよう。

能動的な執着心は、愛する者は自分に所属しているので、自分がその人に関する特定の権利を持つと考える人に見られる。それは、他者の意志を所有したいという欲望となって顕れ、自分が望むことをさせるためにその人の人生をコントロールしたがる。一言で言えば、能動的な執着心がある人は、パートナーの意志に自分の意志を強要する権利があると思っている。自分の望みを叶えて悦ばせてくれる人と一緒にいたがり、パートナーとの関係においては、相手に要求する権利があるのが当然だと思い込んでいるのだ。
受動的な執着心は、カップルの関係ではそうすべきだと思い、自分の自由や意志を相手に侵害されることを許容してしまう人につきものである。受動的な執着を患う者は、自分自身の自由や意志を放棄して、パートナーの満足と悦びに身を捧げる傾向がある。
伝統的な男尊女卑的教育は、男性の能動的な執着心を承認し、女性に受動的な執着心に馴染んで生きるように教えているので、執着心を二つの側面から増長させている。
男尊女卑の夫婦関係では、夫は妻を支配する権利があると思い込んでいるので、能動的な執着心から行動し、自らの意志を強要して妻の自由を制限する。一方、妻は義務として、自分の意志と自由の一部を夫に譲り渡してしまうので、受動的な執着心で行動する。

一般的には、男性が能動的な執着心から行動し、女性が受動的な執着心から行動する、ということでしょうか?

そうではなく、その反対のケースも多い。伴侶のうちの一人に能動的な執着心と受動的な執着心があることもあるし、同時に夫婦二人共に、その両方があることもある。能動的な執着心や受動的な執着心があるかどうかは、各魂の進化レベルと関係している。
能動的な執着心は、愛をあまり知らず、愛することよりも願望や求めることの多い、虚栄心の段階でより顕著に見られる。パートナーとの関係でも、相手が自分の願望や欲求を満たしてくれることを求める。そういう虚栄心の段階の魂が男性に転生すると、男尊女卑の教育を利用して自分の高圧的な行動を正当化し、女性に転生した場合には、別の強みを使って支配的になる。
受動的な執着心は、通常は、愛される必要性があり、より愛する能力の高い、自尊心の段階で見られることが多い。相手を悦ばせば愛してもらえると思い、愛する能力が大きいためにその関係に尽くしてしまい、極端な場合は、自己の自由と意志まで放棄してしまう。

執着心は、どうやって克服するのですか?

能動的な執着心は、愛することと所有することは別物であると気づけた時に乗り越えられる。本当に人を愛するのであれば、人生のどんな場面においても、その人の意志と自由を大事にすることから手がけねばならない。自分自身の自由や意志を尊重してほしいと望むようにだ。
受動的な執着心は、人を愛しても、自分自身の自由や意志を断念することには繋がらず、相手に好きになってもらうために、それらを放棄することは意味がないと理解した時に越えられる。本当に自分を愛してれる人なら、自由や意志の放棄を引き換え条件とはしないからだ。愛する見返りとして君に犠牲を強いる人は、君を愛してはいないし、今後も愛してはくれないだろう。本物の愛の感情というものは自然に湧き起こるもので、君がすることに条件付けられるわけではないからだ。

独占欲と犠牲者意識について

自分の願望や欲求を満足させるために他者の気を引こうとする欲望を、独占欲と呼ぶ。独占欲に支配されている人は、いつも自分のことだけを考え、他の人たちを強要したり義務付けて関心を引く。このような人たちはパートナーとの関係では、愛情の絆がある伴侶から目にかけてもらうのは当然の権利だと主張して、ほぼ独占的な奉仕を要求するので、しばしば相手の自由や意志を侵害する。そして、気にいるほどの関心を引き付けられないと、犠牲者のふりをして気を引こうとする。

犠牲者意識は、相手から憐憫れんびんの情を引き出しながら、その関心を自分に向けようとする人に特有のエゴ的感情で、同情してもらうことによって、相手を思い通りにしたり、利用しようとしている。犠牲者意識は、相手の自由意志にはお構いなくその気を引こうと強いるので、一般的に独占的であり、独占欲との関係が深い。自己成長しようと努力せず、他者に自分の試練や責任を果たしてもらおうとするので、臆病者でもある。
これは大変巧妙な人心操作の手口で、コントロールされる側は、往々にして気づかずに意のままになってしまう。犠牲者意識は罪悪感をもてあそぶ場合が多く、自分の要求を満たそうとしてれない場合に、相手が罪の意識を持つように仕向けるのだ。
たとえば、他者の注意を集めようとして、自分の病気を逆手にとることがある。痛みを偽ったり大げさにしたりして、責任を逃れたり、他の人に代りにやってもらうおうとする。
当人の不快感の主な原因でもないのに、自分が鬱的なのは幼児期に愛されなかったせいだとするのも、同情を引いて独占欲を正当化するのによく利用される口実だ。
パートナーとの関係では、いつも望みを叶えてくれるサービス精神旺盛な人を相手に選びやすい。いつも肉体的あるいは精神的に具合が悪いふりをして、自らパートナーに依存することで、常時世話をしてもらって、全責任を押しつけようとする。だがこのような態度は、しまいにはパートナーの息を詰まらせ、疲弊させてしまう。そのようなニセ犠牲者に、自分がいてあげなければやっていけないだろうと思い込まされたパートナーは、その人を隅々まで満足させて悦ばせることに追われて、事実上自分の生活というものを持てないからである。
犠牲者のふりをする人たちは、彼ら自身で不快感を募らせ、改善する気がない。それを、注目を集めるための武器として利用するからだ。

独占欲と犠牲者意識はどのように克服すればいいですか?

他者の人生をコントロールするのをやめ、その自由意志を尊重することだ。誰に対しても何も要求したり押しつける権利がないこと、ましてや相手との愛情の絆をその口実にしてはならないのだと気づくことである。同時に、いつもよその人に解決してもらおうとしないで、臆病、怠け癖、安楽さを克服して、自分で課題に立ち向かう必要がある。

嫉妬心について

嫉妬心は、自分のものだと見なす人を失う怖れから怯えることだと定義できる。カップルにおける嫉妬心は、相手を所有物と見なして自分にだけ注目するよう強いる、能動的な執着心を抱いた、所有欲が強い独占的な人に特有だ。そのため、パートナーが他の人たちに関心や愛情を示したりすると、激怒する。
嫉妬心は、パートナーへの恒常的な不信感や、自分に不実かもしれないという強迫観念として顕れることが多い。この強迫観念から、浮気の可能性を回避するのを口実に、相手の人生を徹底的にコントロールしようとする。自分の伴侶と交友する人たち、特にパートナーになる可能性のあるライバルと見なした人たちを目の敵にする。

また嫉妬心は、攻撃欲、独占欲、犠牲者意識、恨みなどの他のエゴ的感情も増長させて、パートナーの人生を操るためにも使われる。交際中に嫉妬深かった人は、関係が破綻すると、恨みがましいことが多い。
嫉妬深いのは、愛の感情が貧弱であることの反映である。第一に、相手の幸せに関心を持たないからだ。パートナーを大いに傷つけることなど構わず、自分の支配欲を満たすことだけを考えている。第二に、二人の関係を保つには愛情の絆だけで充分だと信じていない。そのために無理強いしたり脅したりする。本当の愛があれば、愛の感情を信頼し、第三者の介在を怖れたりはしない。三角関係になるとすれば、それは両者の愛が乏しかったか、存在していなかったことの顕れだ。

嫉妬心はどのように克服するのでしょうか?

嫉妬というのは、愛の感情が存在せず、能動的な執着心しかないことを表している。嫉妬心は、愛の感情がないことを認識し、自分の能動的な執着心を認めることで、克服する。乗り越えるには、相手を所有したいという欲求を放棄し、その人の感情面の自由を尊重せねばならない。
真の愛は自由であり、強要できず、自然に湧き起こるものである。二人の結びつきは、関係を維持するための義務や努力を必要とすることなく、この自発的で自由な相互愛の感情に基づいていなければならないのだ。

恨みと恨みつらみ(悔しさゆえの恋愛の逆恨み)について

恨みは、我々に被害を与えたと見なす人に対する敵意として特徴づけられる、エゴ的感情である。人は自己愛や感情が傷つけられたと感じると、自分に痛手を与えた相手を害しても、それが正当化されると思う。相手に損害を与えれば、スッキリすると思うのだ。つまり、仕返しや報復の願望が存在している。
人が恨みに駆られて行動すると、自分に危害を加えた人だけでなく、世の中全体を敵に回す傾向にある。恨みの感情がその人の意志を支配してしまうと、他の人たちから向けられるあらゆる言動の裏に、自分を傷つけるという隠された意図があると思い込んでしまう。恨みがましい人は、極度な人間不信になりやすいのだ。

恨みの一種に恨みつらみがあるが、別れることを決めたパートナーに対する反感は、このケースにあたる。
失恋を根に持つ人は、自分に所属していたものを失ったと考えるので、感情的に傷つけられたと感じ、その喪失を受け容れるのが難しい。別れた相手が苦しむことを願い、苦痛を与える行動をとりやすい。自分を犠牲者だと思い、不幸の原因だと見なす相手を傷つける権利があると思うのだ。つまり、「僕を苦しめた仕返しに、君を苦しめてやる」というのがモットーとなる。
恨みつらみを持つと、犠牲者意識、名誉毀損、裏工作、恐喝、脅迫、強制、攻撃など、復讐に有効な手段はすべて利用する。
そして、暴力や脅迫を行ったり、ありもしない虐待を受けたと告発して、共有していた財産を相手から奪い取ろうと考えるなど、元パートナーに損害を与える行動をとっても正当化できると思い込んでいる。
共通の子どもがいる場合には、子どもを最後の切り札として使い、別れた伴侶と子どもとの関係を阻害しようとしたり、悪いイメージを作り出して子どもと上手くいかないようにする。
元伴侶が新たな関係を築くと-特にそれを当人たちの別れの原因になったと見なせばい恋人も恨みつらみを抱く人の攻撃の対象となる。

自分のパートナーに捨てられれば、誰でも気分が悪いものではありませんか?

人は破局によって、悲しみ、失望、欲求不満、孤独感、郷愁などを感じるが、そのように辛く感じることと、相手が苦しむのを望んでわざと行動することとは、全く異なることである。
根に持つ人も、愛の感情が貧弱であることの反映だ。真に愛する者は、相手が理解することのできない決断をした時でさえも、絶対に自分の愛する人を傷つける行動をとらない。それが恨みつらみとなってしまうのは、感情における自由を尊重することがまだできていないからだ。感情における自由は、誰と一緒にいたいか、いたくないかを決める権利を各人に与えているのだ。それが尊重できれば、別れることになってもそれほど苦しむことはないし、他の人たちもそれほど苦しめはしない。

恨みつらみは、どう乗り越えたらいいですか?

すべての解決策は同じこと、つまり、執着心の克服と感情面の自由の尊重、に根ざしている。能動的な執着心と嫉妬心のところで言ったことだが、人は誰にも属さない、ということを認識する必要がある。伴侶に対する所有権などは存在しないので、相手に代わって決断する権利はないし、ましてや、その気がない相手に関係の継続を要求するなどできない。それゆえ、相手に被害を与える行動は、どうしても正当化することができない。

恋愛感情の強迫観念と妄想について

恋愛関係における強迫観念は、目標とした人を獲得、または所有したいという満たされぬ願いを反映している。願望が簡単に叶えられる場合は、それが達成されるや、興味を失う。だが困難であると、それは一種の挑戦となる。欲望は煽られ、満たされないと、強迫観念に変わる。大概の場合、これは当人の本当の気持ちを表してはおらず、性的もしくは愛情面の欲求不満や必要性が投影されたものだ。そのため、強迫観念は現実性に欠いている。
強迫観念は、自己の気紛れを満たすことに没頭して長く暮らしてきた、移り気な人たちに特有なもので、願望が達成されないと、我を見失ってしまう。
また、自分の感情を表すことが苦手な自己抑制的な人たちも、恋愛感情の強迫観念になりやすい。願望の対象となる人に魅了され、その人について妄想を抱く。それは現実に則さないものなのだが、願望を強くし、相手を獲得できれば幸せになれるという期待を膨らませる。

説明を聞く限りでは、ドン・キホーテがトボソ村のドゥルシネア嬢に抱く気持ちを思い出しますが。

それは、妄想や恋愛感情の強迫観念がいかなるものかを示すいい例だ。
妄想は、気持ちよりも頭を働かせるものなので、自分の考えることが感じていることだと信じ込むに至る。感情をないがしろにしているので、相手も自分を想ってくれているのかは気にかけない。拒否されるのが怖く、それを認める気がないので、正直に行動できない人である場合が多い。
どんな対価を払ってでも、そして必要とあれば相手の意志を無視してでも、願望を抱いた人を獲得するのが目的である。そのため、堂々と自分の意思を伝えることがなく、相手に嫌だと言う機会を与えずに、欲しいものを手に入れるために狡猾に立ち回る。
自分が肉体的に美しい場合は、誘惑すれば相手の意志と感情を曲げることができると思っている。頭がいい場合は、相手の弱みを研究し、その知識を使って、相手を口説いたり褒めたり、欲求や気紛れを満たしてあげて、手に入れようとする。このようなやり方で相手を獲得できない場合、その人の魂が鈍感ならば、恐喝、脅迫、強制、暴力など、相手の自由意志をさらに侵害する手段に訴える。

望みの人を手に入れたらどうなるのですか? 二人とも幸せになるのでしょうか?

いや、しばらくの間は望みを獲得できたという満足を感じているが、現実が期待したほど
のものでなかったと見るや、大きな失望を味わい、急速にその関係に幻滅していく。以前は神や女神のように思えた、今やパートナーとなった相手は、ごくふつうの平凡な人として目に映るので、次第に興味を失っていく。
その関係が上手くいかないのを相手のせいにして責めるが、本当は、幻想だけで当人に愛の感情がなかったことが不満の原因なのだ。それなのに、他の人が自分のパートナーに関心を寄せていると思うと、今度は所有欲を出す。それは、相手を苦労して獲得したトロフィーだと見なし、自分に所属していると考えているからだ。
そうなると、自分たちの関係が幸福でないにもかかわらず、相手がそこを抜け出して別の場所で幸せになることも許せないので、自分が生きることもできず、相手を生かすこともできない。
それはまるで、親に欲しいおもちゃを買ってもらえないと地団太を踏むのに、手に入れるとちょっと遊んだだけで飽きてしまう、我がままな子どものようだ。別の子どもがそのおもちゃを欲しがると、また興味を示すのだが、それはもう一度惹かれたからではなく、自分の所有物だと見なしているものを他人に譲りたくないからなのである。

恋愛感情の強迫観念はどのように克服したらいいですか?

能動的な執着心、つまり愛には所有権がつきものだという概念を克服する必要がある。自分が愛しても相手がそうでないのなら、無理やりそれを変えてみせようとせずに、その現実を受け容れるべきである。人の感情とは自由なものであり、強要はできないし、またするべきではない。そうしても自分と相手を苦しめるだけだ。
自己抑制的な人に強迫観念がある場合は、臆病と抑圧に打ち克ち、拒否されることを怖れて自分の考えを隠してしまわずに、常に正直に気持ちを表明する勇気を持つことで、乗り越えることができる。そうすれば、自己の交友関係も本物となり、好きな人に対して幻想や妄想を抱かずに済む。相手に応えてもらえれば、その人との関係も自然なものとなるし、嘘をついたり裏工作をする必要もない。また、相手にその気がなくても、ひょっとしたらつき合えたかもしれないのに自分がチャレンジしなかったせいで駄目だったのではないか、という考えに囚われることなく、心穏やかに新たなページを開くことができる。

恋愛における罪悪感について

これは人が、感じていない愛情を持とうと無理をしたり、自分の気持ちを抑圧するなどして、自分自身の感情の自由を強要した場合に起こる罪悪感である。受動的な執着心を患う人によく見られるものだ。
恋愛における罪悪感が起こるケースの一例としては、カップルの一方が他方に恋愛感情を抱いていないことに気づいたものの、一緒になって年月も経ってしまったために、伴侶を愛して関係を維持することを義務付けられていると思う場合である。つまり、そうするのが自分の義務だと思って、伴侶に対してパートナーへの愛を覚えようと努めるのである。それには、相手を性的に満足させる、世話を焼く、一緒にいる時間を作るなど、パートナーに対してすべきであるとされる行為が含まれる。こういうことを全部するのは、相手を愛していないことに罪悪感を抱いているからで、自分に愛がないことを何かで埋め合わせすべきだと思い込んでいるからだ。
恋愛における罪悪感が起こる別のケースは、ある人に恋をしたものの、同時に自分自身の道徳観から見て、それを不適切であると判断した場合である。その例としては、すでにパートナーがいる人を愛してしまった場合、または当人にパートナーがいる場合だ。この場合は、愛するべきではない「不適切」な人を愛してしまったことで罪悪感を抱き、不道徳、あるいは禁断だと見なすその恋心を抑圧したり、断念したりする。こうして自分自身で不幸になる道を選ぶ。

すでにパートナーがいるのに、別の人に恋をしてしまった場合は、一体どうするべきなのでしょうか?

その人が好きなようにすればいいのだ。だが、幸せになりたいのであれば、感情のために闘うべきである。

それは、それ以前の関係を切って、愛する人と一緒になるべきだという意味ですか?

愛のない関係は、愛が欠如しているという時点で、すでに壊れているのだ。ただそれを認めて、それに従って行動すればよい。前にも話したろう。伴侶を愛していないのであれば、正直になって、それを伝える勇気を持つことだ。そうしてから、正式にカップルの関係を終了させることだ。これは、他の人を愛しているか否かとは別問題だ。
ましてや別の人を愛しているのであれば、自分の本当の気持ちを認めて、愛している人に伝え、相手もそう想ってくれているのかを見てみればよい。そして、相手がどういう決断をしようと、それを受け容れることだ。二人が相思相愛であり、カップルとして一緒になる意思があるのなら、誰にも何にもそれを妨げられないし、妨害すべきでもない。まして、罪悪感を持つ必要などない。霊的には罪悪感を持つ理由は何もないからだ。

でも前述のような状況では、罪悪感が芽生えるのがふつうだと思います。どうやって、恋愛における罪悪感に打ち克つことができるのですか?

罪悪感を持ってしまうのは、君たちがカップルの愛を所有的または執着的なものだと誤解しているからで、所有権つきの結婚、婚姻の不解消など、同じように誤った道義上のルールを作り上げてしまったからだ。
罪悪感に打ち克つためには、愛の感情は自由で自発的なものなので、強要できないしすべきでもないということと、どんな慣習でも縛りつけておけないということを理解する必要がある。人は誰でも、好きな人を自由に愛する権利を持つ。自分自身ですら、感じられない気持ちを抱いたり、感じている気持ちをなくすように自分に課すことはできないが、これは誰のせいでもない。我々はまたもや、感情における自由の尊重、という同じ原点に辿り着いたのだ。
前述のケースでは、当事者の感情面の自由を尊重すべきであり、ありもしない犯罪行為に仕立てて不当に罰してはならない。人生をまるごと変える羽目になろうとも、真の愛の気持ちを持つことで、誰一人として罪悪感を覚えるべきではない。罪悪感という感情は、打ち克つことができなければ、愛の感情を存分に感じて味わうことを阻む障害となり、そこから湧き起こる幸福を享受できなくなる。

愛することへの怖れについて

その名が示す通り、これは、苦悩の原因になるだろうと思って、愛を感じることに怖れを抱くことだ。
これは、別れた相手に苦しめられたとか、第三者に恋愛関係を壊されてしまったなど、過去にトラウマ的な経験をした人たちによく見られるものだ。
また、幼少期から感情を抑圧する教育を受けてきたために、感情面での自由が制約されてしまった人たちに見られる。このような人たちは、自由な気持ちを持つと、なんらかのお仕置きを受けるのではないかと怖れている。教えられてきた行動規範から見て自分の感情が正しくなければ、良心の呵責を覚えるように自己規制してしまうこともある。
愛することを怖れる人は、自分をさらけ出すことで傷つけられるのが怖いので、人と交際する時に心を許さないことが多い。そのため打ち解けにくく、あるがままの姿を知るのは困難だ。無理解、拒絶、恐喝、脅迫、裏工作、中傷、攻撃を怖れ、自己をさらけ出さずに感情を隠すか押し殺しておけば、誰からも危害を加えられないと思っている。このため、感情的に孤立する傾向にある。被害を避けるには、それが最良の策だと思っているのだ。

でしたら、危害を加えられないためには、感情的に孤立するのがいいのですね?

そうではない。感情的な苦しみを怖れる気持ちから、外部の情緒攻撃から守ってくれそうな鎧に身を隠しても、その鎧自体が、人に愛の想いを伝えたり、他の人たちの愛を受け取ることを阻んでしまうので、幸せになれなくなるのだ。この場合は他人ではなく、自分で自分自身を傷つけているのだが、それで辛い苦しみが軽減されるわけではない。

孤立してしまうと、どうして苦しむのか具体的に説明してください。

よかろう。感情的に孤立している人が自分の類魂に出会ったとして、相手が気持ちを伝えて親しくなりたいと思ったとしてみよう。通常このような場合は、双方がそれぞれ感情を表明して、相手に愛を覚え、二人は幸せに感じるものだ。
だが孤立してしまっている人は、怖れと不信感から、与えられる愛を感じ取れず、それと同時に、自分自身の愛の感情を抑圧してしまう。そして、そのことで苦しむのだ。また、愛を伝えることができなければ、その人の類魂も愛されていると感じられないので、苦しむことになる。
おそらくその人の類魂は、何が起こっているのか理解できず、混乱してフラストレーションを覚えることだろう。そして、自分の気持ちに罪悪感を持ったり、感情を表現するのを怖れるに至る。好かれていないと思って、その人とパートナーの関係を築こうとするのをやめてしまうことさえある。
こうして、愛への怖れと不信感に由来する感情的な孤立のせいで、一緒になって幸せになれた筈の二人の類魂たちは、お互いに別々の道をとり、幸福を味わえないまま歩んでいくのだ。

でも、これまでの恋愛関係で悪い経験がなくても、愛することや恋することを怖れる人もいますよ。そういう場合は、どうしてでしょうか?

感情的トラウマは、前世からのものである場合もある。過去の状況を覚えていなくても、そのトラウマを乗り越えていなければ、それが魂に深く浸透していて、その後の転生に持ち越され、怖れとなって顕れる。
愛することを怖れている人たちは、自分たちは幸福とは無縁であり、本当に愛してくれる人などいるわけがないと思っているので、生き甲斐がない。暴力的な飼い主に長い間いじめられた挙句に逃げ出せた、野良犬のような気分である。ある日この犬は、感受性が高く可哀相に思い、家に置いて愛情深く世話をしてくれようとする人たちに出会い、中の一人がなでようとして近寄っても、虐待を怖れるあまり、その手が愛撫ではなく乱暴をするのだと思い込み、より良い生活をあてがってくれようとした人たちから、震え上がって逃げ出してしまう。これと似たようなことが大勢に起きている。怖れのせいで、人生で幸せになるチャンスを失ってしまうのだ。

孤立主義と愛することへの怖れは、どのように克服しますか?

まず、自分が怖れを抱いていることと、そのせいで孤立してしまうこととを認めること。自分に自身の感情を自由に表現することを許し、それに従って生きるために闘う勇気を持ち、人生での決断の際に他者の意見に左右されず自己の感情を信用することで、怖れを乗り越え、孤立に打ち克つことができる。
どんなに困難な状況に思えようと、決して感情を放棄してはならない。また、抑圧してもいけない。それが、幸せになるための唯一の方法だからだ。もう一度、愛への希望と信頼を取り戻すことだ。

けれど、愛の感情のために果敢に努力したにもかかわらず、愛する人と一緒になるという目的を果たせなかった人や、他の人に妨げられて強要された関係を断ち切ることができない人もいます。前にも、性暴力についてや、感情における自由の権利を守ろうとして殺されてしまう女性のことを話しましたが、そういう人たちは闘いに負けてしまったのでしょうか?

愛の感情のために闘う時に、失敗することなどない。人間の無理解とエゴのせいで、物質界で幸せになることができなかったとしても、霊界でその報酬を受け取ることを疑ってはならない。気持ちに正直に生きる努力において示された勇気は、進化の一つの成果であり、永久的に魂のものとなる。愛の感情が明確で、それに対して勇敢であるのは、これまでの転生で体験した試練において、自分自身の力で勝ち取った大変価値のある霊的な資質だ。そのような魂は以後は永久に、この資質を持ち続けることになる。そしてこれによって幸せになり、惨めな目に遭った過去の罠にはまらないで済むのだ。

感情的混乱について

感情的混乱は、人が心にない気持ちを持とうと無理をしたり、本当の気持ちを抑圧したり、あるいはその両方の場合に起こる情動的な状態である。その状態に長く留まってしまうと、本当の気持ちと強要している気持ちとの区別が上手くつかなくなってしまう。これは、そういう人たちにありがちな混乱のことであり、感じていることと感じなければならないこととを混同し、気持ちが義務と入れ替わってしまうことだ。
自分にない想いを自分自身に無理強いする人は、その義務感によって疲労し虚しくなり、苦しむことになる。愛の感情は強要できず、自発的に生じなければ、存在しないからだ。
また、本当の愛情を抑圧することで苦しんでしまうこともある。そういう気持ちになるべきではなく、その権利もないと思うからだ。しかし、感情的混乱から生じた自己欺瞞ぎまんによって、自分が不適切な感情を抱いてしまったがゆえの良心の呵責から苦悩しているのだと思い込み、それが不幸の原因なので、感情自体を排除する努力をすべきだと考える。

感情的混乱は、感情における自由を断念してしまった人によく見られる。自己の感情を放棄する要因の一つに、禁制的な道徳律に従った教育を授けられ、それを自分の中に取り込んでしまったことがある。この場合、その人の感性は、その道徳規範に強く規制されてしまっている。また、愛情の断念を強要された経験など、感情面に関連した何らかの辛い状況を人生で体験したせいである場合もある。

感情的混乱が具体的にどういうもので、どう表れるのかが理解しづらいです。もっとはっきりするように例を挙げてくださいますか?

いいだろう。教会で結婚式を挙げて、何年も婚姻生活を続けている人を例にしてみよう。
その間にその人が、実際には自分に恋愛感情がなかったこと、またその結婚で幸せでないことに気づいたとする。この人が感情における自由を大事にするなら、すぐに伴侶を愛していないことに気づき、それを伝えて離婚を求めることだろう。
だがこの人が、結婚とは一生涯続けるものであり、解消はありえないという宗教的な教育を授けられていたとしたら、義務感と他の人たちの否定的な反応への怖れから、無理してその関係を維持しようとするだろう。

「結婚した相手を永遠に愛すること」が道義上の義務であると信じ切っているので、伴侶を愛するように自分を仕向ける。愛していないことを相手に気づかれないように、あれこれサービスして悦ばせ、愛のために多大な犠牲を払っているのだと自分を信じ込ませようとするが、自己犠牲的に感じ、義務だと見なしていること自体が、実際は愛がないことを表している。真の愛を感じる者には、相手への奉仕が犠牲とはならず、好きでやる行為になるので、それに悦びを覚えるものである。

別の選択肢は、伴侶の態度が悪いことにして破局を正当化するやり方だ。こうすれば、伴侶が決別の責任を負うことになり、当人は義務を怠ったことから免責される。つまり、「私は彼を愛しているのだけれど、構ってくれないし愛されていないと感じるので、もう一緒に暮らしていけないわ」、または「こんなことをされたから、もう許せないの」と弁解するのだ。

もう一つのやり方は、伴侶の生活を不可能にして、相手に別れの決断をとらせる方法だ。このやり方では、愛し続けなければならない義務を公式に怠ったのは相手となり、当人は結婚の破局に関して免責される。世間の目には伴侶が悪く、自分を犠牲者に見せかけるが、事実は全く反対である。

こうして、その精神的な葛藤の状況は、明らかに「伴侶を愛していない」のが原因であり、それには「別れる」という単純な解決策があるのに、感情的混乱のせいで、自分や他者に苦悩を引き起こす複雑な騒動へと発展させてしまうのだ。つまり、愛の感情が自分にないことを認めようとせず、臆病で、宗教的な道徳律を破れなかったために、事実を偽装してしまったのである。

感情的混乱はどのように乗り越えますか?

自分に完全に正直になって、真の愛の感情と、抑圧的な教育のせいで取得された義務的な感情とを区別できるように、自分を掘り下げてみることだ。自分自身の感情がはっきりしたら、他者の意見に左右されることなく、授かった教育のあらゆる禁制や偏見のしがらみからも解放されて、気持ちに従って生きる勇気を持つこと。感情における自由の権利を侵害するものは、霊的視点からは誤った規則や見解であるので、配慮する価値がないのである。

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