愛の法則から見た隣人愛
これまで、パートナーとの関係や子どもたちとの関係など、個人的な関係を集中的に見てきましたが、無条件の愛というのは、そういう個人的な関係よりも、もっと奥が深いものだと思うのです。
もちろんだ。愛に限度はない。もっと沢山の人を愛することのできる魂の能力が増すにつれ、血の繋がりがあるかどうかにこだわらずに愛することができるようになる。最終目標は、分け隔てせずに、創造の全存在を包括する無条件の愛に行き着くことだ。
イエスが「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい」、「汝の敵を愛せよ」と君たちに伝えた時には、このことに言及していたのだ。
進化するのは、どうしてこんなに骨が折れることなのでしょう? イエスが言ったような、無条件に愛することができるようになる進化レベルに、もっと早く辿り着く方法はないのですか?
これは、これまで我々が話してきたことの中核である。
イエスのレベルまで進化するためには、エゴを排除して愛の感情を発展させることに大変な力を注がねばならないのだが、それは、たやすいことではないのだ。一度きりの人生での仕事ではない。何千もの転生、何十万年もの歳月がかかる。しかも、すべての魂がこの目的のために生まれ変わってきているにもかかわらず、一度肉体を持つや、何のために生まれてきたのかを思い出せないでいる。
大多数の人びとは、肉体生があるところまでしか意識を向けておらず、物的な福の神が笑っている限りは、物欲を満たすことに人生を費やしている。そして、実存に関する内省はどれも無意味なたわ言であり、時間の無駄だと考える。彼らは、気ままな生活をやめたくないので、何の変化も起こしたくないのだ。
物質主義的な科学教育の下で知性を発達させて、自身の心の危惧を回避しようとする人たちは、存在に関わるあらゆる疑問を嘲り、無益だと見なしている。
また、霊性と宗教とを混同している人もいる。特定の儀式を模倣しさえすれば、「天国」での特権的な地位を獲得できると考えて、宗教というたやすい方の道に引き込まれる。そして、神も喜ぶだろうと自分を偽ることによって、霊的な努力を宗教的な熱狂に置き換えてしまうのだ。
実存に関する疑問を、心の中ではっきり自覚できる人たちも、確かに存在する。目覚めが起こるのは、人生でひどい逆境を体験しながらも、諦めずに説明を見出そうとした結果である場合が多い。人生の意義について、宗教や物質至上主義の科学がもたらす、偏った不完全な説明では納得できないからだ。しかし、自分の疑問に対して満足のいく答えが得られないので、絶望してしまうのだ。
無関心、無知、不信感、熱狂や絶望から大多数の人びとが人生の真の意味を見出すことができずにいるというのが、以上の総合的な結論である。したがって、人生を理解しないまま生きており、そこから学べないので、人生において進化することができない。つまり、エゴをそぎ落として愛の感情を育む努力が、ほとんどなされていないということだ。
僕が理解したところでは、仏教では、人間の諸悪の根源は願望であり、願望をなくすことで心の平安と魂の成長がもたらされると教えているそうですが、これに関してはどうお考えでしょうか?
その願望がどこに由来するものかで、区別する必要がある。利己的な願望と愛の感情に裏付けられる願望とは、異なるものである。
利己的な願望を排除することとすべての願望を捨て去ることとを混同し、自身の意志を放棄しなければ霊的な進歩は望めないとの結論に達する人もいる。これは大きな勘違いなのだが、他者を意のままに操ろうとする者たちにつけ込まれる要因となる。
君たちが仏陀と呼ぶ者は、人間の諸悪の根源がエゴであると見抜き、霊的に進歩するにはエゴを根絶すべきであると知っていたので、利己的な願望のことを指して、それらの衝動を排除しなければ幸せにはなれないと言ったのである。しかし、いつものことだが、歳月の経過と共に仏陀の言葉と教えも誤って解釈されてしまった。霊的な進化が不充分な者にとっては本物と偽物とを見分けるのが困難なので、スピリチュアルな様相を呈しているだけで、歪曲された教えを正しいものだと思い込んでしまうのだ。
具体例がありますか?
たとえば性に対する姿勢だ。多くの宗教で教え込まれているように、性的な願望は、それが願望であるがゆえに、進化したければ排除すべきものだと考えて、どんな状況でも自身の性願望を抑圧せねばと躍起となる人がいるが、これは大きな誤ちである。性的な願望は男女の愛の表れとして目覚め、幸福をもたらしてくれるので、それを拒むのは間違っている。
よく理解している者なら、闘って克服していかなければならないものは、情欲や色欲から生じる性的願望、つまり、利己的な性欲であると気づくであろう。悪癖が顕現した欲望としてではなく、性欲を愛の感情と一致させることに進歩があるのである。したがって、エゴ的な性欲の表れである情欲や色欲を排除することと、性欲すべてを不潔だと見なす純潔主義とが同一のものであると思ってはならない。
性欲がパートナーへの愛の反映、愛情の表れであることは、前にも話したろう。純潔主義は神聖なものではなく、偏見と抑圧に満ちている。他人をとやかく言う者ほど、先入観と鬱積したものを隠し持っているのである。
先ほど、霊性と宗教とを履き違える人がいると言われましたが、霊性と宗教とはどう違いますか? 同じことだと思っている人がいます。
同じではないよ。霊性は、魂独自の資質と能力で、それによって益々進歩していくことができる。進化とは、自由に愛する能力を発達させていくことを意味し、そうすることによって、感情、感性、意識、理解、叡智、幸福の、より高度な段階へと徐々に達していけるのだ。それは、いろいろな理由があるが、自分や自分を取り巻くものの存在意義を知り、自分と他の生物や創造主との絆を深め、自己を内包する宇宙の仕組みを、それを司る法則も含めて、知るためである。
宗教とは人間が創った階層構造を持つ組織で、一連の教義上の信念の周りにしがみついている。これらの信念は、的を射ていようがいまいと議論が認められず、権威者の見解次第である。つまり、その階層構造で一番権威を持つ者に、皆が信じるにふさわしい真の信仰を決める権力があるのだ。
隣人愛は、大概の一神教の基本を成すものですし、神を信じる人たちも世界には沢山いるのに、どうして、こんなにもエゴだらけで愛のない世の中なのでしょうか?
そのことは前にも話した筈だ。多くの宗教では、愛という言葉は死語に等しく、人を惹き付ける呼び水として使われているだけで、実践して見せることも、手本を示すこともない。しかも、愛は、それより重要視されている他の多くの規則や信仰の陰に、隠されてしまった。だが、これらの規則や信仰は、愛そのものや「魂の法則」と矛盾するものなのだ。たとえば、議論の余地を与えることなく、一連の教義を信者に押しつける者は、信仰の自由を妨げるので、自由意志の法則に違反する。宗教は、人間のエゴと結びついた現象である。少数の者の利己的な便宜によって、人の霊性が操られているからだ。過去の時代においては、支配的な宗教の権威者たちが自らの信条を力づくで課し、それに従わなかった者たちは抹殺された。彼らの権力は非常に強かったので、異議を唱えることは不可能だったし、しかもそれは命懸けであった。現在では勢力が弱まったとはいえ、宗教はまだ多くの国々で、人の自由を弾圧するくびきとなっている。
人が愛に向かって進化する上で、宗教が障害になると言われるのですか?
私が言いたいのは、愛に向けて進化する上で障害になるのは、人間のエゴであるということだ。エゴは大変巧妙に人の霊性に忍び込み、それを歪めて操作をし、その霊性とエゴが混ざって出来上がったものから、宗教が生じる。
多くの宗教の起点が、真の霊的な教えを説いて人びとの心に浸透させることができた、高次の存在たちの活動にあったことは話したろう。だがその教えは時間の経過と共に、目立ちたがりで野心家の未進化の魂たちによって、彼らの権力と富への野望を満たすために、偽造されて歪曲されてしまった。本物の「魂の法則」は、エゴによって突き動かされたそのような者たちの影響を被り、儀式や式典で飾り立てられ見せかけの霊性で覆われた、「エゴの諸法」に置き換えられてしまったのだ。
本物の「魂の法則」が「エゴの諸法」に置き換えられてしまった例を示してください。
そうだね、君たちの世界では、「霊的裁きの法則」を利己的な「漏斗の法則」と入れ替えてしまった。つまり、自分たちには許容間口を広くし、他の者には狭くしているのだ。
人は、自分が得することは公平だと思い、他者を得させることは不公平だと見なす。同じことでも、それをするのが自分自身なのか、それとも他者なのかによって、違う目で見る。君たち自身の利己的な言動は正当化するくせに、他人であれば、同じことをしていても熱烈な批判をする。そして、影響力の強い者の規則が、他の者たちに強要される羽目になる。
たとえば通常権力を握っている者たちは、法外な給料、不相応な年金、税金の免除など、他の者たちが持たない特権を享受しているが、その一方で、他の市民にはずっと厳しい規則を守るように強いている。
君たちは「愛の法則」と「富と成功とを充足させる利己的な法則」とを入れ替えてしまったために、個人の興味や物的な願望を満たして、成功や名声、気紛れで便利な快適な生活を手に入れようとすることが良いことだと理解し、そのためには仲間を苦しませようが意に介さない。そして反対に、そのようなものがほんの少しでも奪われてしまうと悪いことだと思うのだが、それは違うのだ。きちんと理解してさえすれば、良いことをするというのは「愛の法則」と調和した行動をとるということで、悪いことをするとは「愛の法則」と反する行為、一般的には苦悩や不幸を引き起こすエゴ的な行為、を意味するとわかる。
さらに「自由意志の法則」は、「強者の法則」に置き換えられた。それはつまり、一番強い者が一番弱い者に自分の好き勝手を押しつけている、ということである。
だから、君たちの世界では、発言者が重視されるのだ。その人がどういう役職、タイトル、身分なのかが見られ、話の真偽は問いただされない。質素な者は本当のことを話しても聞き入れられず、権力者、有名人、成功者、その他人間が発明した地位やタイトルに昇りつめた者は、何を言おうと一目置いてもらえるので、好き勝手が言える。そのような有名人の多くが、一般人を操り狂信的にさせる偽りのメッセージを発信しているのだが、なおかつ、他の人びとよりも優れていると見なされている。
「強者の法則」が幅を利かせ「自由意志の法則」が軽視されているのは、宗教の権威者に関しても明らかだ。自らを霊的に進化していると見なす者たちが、実は最も不寛容で理解がなく、頑なで、規則や儀式を厳密に守ることだけに熱心だというのは、なんたることか!そして従わない者を強く非難し、他者の行為や行動を安易に告発するのだが、自身の利己的な悪癖を直すことには力を注がない。霊的な美徳とは、他者の考えに対する寛容と理解ではなかったのかね? 彼らのどこにその美徳があるのかね?
でも僕は少なくとも今日では、大勢の人たちが、彼らの利己的な態度や教会の中で霊性が操作されていたことに気づいて、真の霊的な知識を探し求め始めていると思っています。
それは肯定的なことだが、知るだけでは不充分だ。真実を見分け、虚偽と区別することが必要だ。なぜなら、霊的な知識を多少なりとも身につけていたとしても、それらがすべて本物だとは限らないからだ。最も大事なのは、愛の感情とエゴについて自分が学んでいくことを実践に移すことだ。そうしなければ進歩もあり得ない。
私が言っておきたいのは、特定の霊的な知識を得ることと霊的に進歩することとを混同してはならない、ということだ。愛の感情を発達させて前進するのに役立てるべき学習知識が、上品に取り繕うことで霊性を装ったエゴを野放しにするために使われたら、教会の高位神官が陥ったのと同じ罠に落ちてしまう。
それは、どういうことですか?
さまざまな出処の霊的な知識を知りたがり、それらを勉強することに非常に熱心な人たちが沢山いる、ということだ。しかし知り得た知識を、利益をあげるためや名声・ファンの獲得や自己顕示の手段として利用して、自分を他の人たちより優れていると思い込めば、実は、愛の感情を育む代わりに、自己の虚栄心の奔放を許すことになる。だが、自分自身を見失うだけに留まらず、それを真似て後に続く者たちを混乱させて、カオスをもたらし、他の人びとを霊性の道から逸脱させてしまうことが、もっと罪深いのだ。
イエスはまさにこのことを告発し、当時のユダヤの聖職者たちを「盲人たちの盲目の導き人」と称したのである。それゆえ、他者に布教しようと勇む前に、最初に自分自身をよく見ることが非常に大切となる。なぜなら、初めに自分を見ないせいで自己のエゴに気づかず、エゴを排除しようと努めない者は、奉仕の行為において、他の人びとの手本になる資格がないからだ。
その点について、具体例を出していただけるとありがたいのですが。
君に話していることについてのたとえ話をしよう。
とある霊性の学校の教室において、一人の先生が百人の生徒の集団と共にいた。進化の過程の一環としてのさまざまなエゴの段階――虚栄心(見栄)、自尊心(プライド)、自負心(尊大)――それぞれの段階でエゴがどのように顕現するかを学んでいた。全学習の最後のまとめとして、先生は、「虚栄心の最大の特徴は自分が主役になりたがる傾向で、他の人以上になりたいと思うことだ。自尊心の最大の特徴は、あるがままの自分を知られるのを怖れることだ。自負心の最大の特徴は、この中では一番謙虚であるとはいえ、まだ完全に謙虚になりきっていないことだ」と述べた。
先生はこの説明の後に、これまで学んだことに照らし合わせて、自分が以上の三つの段階のどこにいるのかを考え、各自それを紙に書くようにと生徒に指示を出した。次に、その紙を回収箱に入れるように各生徒に伝え、教室の進化レベルを全体的に分析するために、数を調べてみようとした。用紙の数を確認して結果を調べた先生は、生徒たちに、「君たちのうちの80人が虚栄心の段階で、1人が自尊心の段階にいる。自負心の段階にいるのは、たった一人だけだ」と告げた。
その結果に驚き不満を覚えた生徒たちは、皆でひそひそ話をし出し、お互いに、自分自身にどういう評価をしたのかと尋ね合った。そして意見の一致をみて代表を選び、その生徒が先生に、アンケート結果に納得しかねる旨を表明した。「先生、僕たちはお互いに各人が紙に何て書いたのかを尋ね合ったのですが、先生が仰る結果と一致しないのです。というのも、あなたは自負心に相当する人は一人だと言われましたが、少なくとも10人がそう自己評価しているのです」
それに先生は、「納得できないのなら、君たちが数を調べてはどうかね」と応じた。そこで生徒たちが用紙の入った回収箱を引き受け、数え直したところ、80名の生徒が自分を自負心の段階だとしており、1の白紙回答があり、一人が虚栄心の段階だと見なしていた。
結果が明らかになると、生徒の代表が次のように発言した。「先生、ご覧になりましたか? 僕たちの言った通りでしたよ。お伝えした通り、僕たちの大半が自負心の段階にいるとしていますよ」すると先生は「確かに君たちの回答結果は合っているのだが、それが本当の結果ではないのだ」と返答した。
代表になっていた者は「仰ることがわかりません」と言った。
それに対して先生は、喜んで答えた。「今すぐに君たちに説明しよう。自負心と回答した30人は、本当は、自己顕示が好きで他の人以上になりたがる段階の虚栄心のレベルにいる。自負心が一番上のレベルだと知り、最後ではなく何でも一番になりたいので、自己を上級レベルと同一視したのだ。白紙で出した1名は、実のところ、自分を知られる怖れが特徴的な自尊心の段階にいる。白紙で提出したのは、自分を知られるのが怖いからなのだ。唯一虚栄心に投じた人が、実は、自負心の段階にいる者だ。確信が持てない場合に一番下の段階を選んだので、全員の中では最も謙虚な人である」
謙虚さに欠けるのが自負心の特徴ではありませんでしたか?
謙虚さの欠如はすべての段階で見られる。虚栄心でも、自尊心でも、自負心でりも進化が遅れている虚栄心の段階では、最も顕著なのである。
だが、真に謙虚になりきることは非常に困難なのが実情である。自負心の段階にいる魂たちでさえ、まだ尊大のエゴを完全に抜け切れてはいない。自負心とは謙虚さに欠けることだと言ったのは、もう他の欠点を克服しており、これが越えるべき主な欠点として残っているだけだからである。一方、虚栄心と自尊心には、謙虚さの欠如の克服に取り組む前に、乗り越えるべき他の欠点がある。謙虚さに欠くことを自覚しているだけで、自負心の段階に到達したと思っている人たちがいるが、それは尊大であることを率先して自覚したいからではないのだ。単に、自負心が自尊心や虚栄心よりも進んだレベルであるがゆえに、自分を他の人たちよりも上位の、霊性進化の最上階にいると思いたいだけなのである。他の人たち以上になりたがり、誰の下にもなりたくないというこの特徴こそが、虚栄心独自のものである。
まだはっきり理解できていないので、前述のお話の教訓を正確に説明していただけるといいのですが。
あの話で明らかにしたかったのは、自分自身のエゴを認めることは非常に難しいということだ。だから君たちは、改善のための真の努力をするよりも、エゴが見えないようにごまかすのに一生懸命だ。
だが、それでは君たちは否応にも停滞してしまう。自分のエゴを認めようとしない者は、それを克服できないからだ。
君たちは、手を差し伸べてくれて、君たち自身にどういうエゴが顕れるのかを教えれる人たちの助言を、嫌がって受け容れようとしない。耳に心地よい賞辞ばかりを貰いたがるが、真実は聞こうとしない。君らを褒めてくれる人たちのことは称えるが、成長できるようにと本当のことを言ってくれる人たちのことは非難する。これでは、前進は困難だ。
でも、僕たちは霊的な覚醒の時代を生きていて、他の人たちのために何かをしたがっている人が沢山いるのではありませんか?
今日では、霊性を目覚めさせて、他の人たちのために何かをしたいと言っている人は大勢いる。それ自体は良いことだ。しかし、他者を助ける以前に、自分自身をよく見つめ、それをしたいのは他者を助けるためなのか、それとも他者から称賛や認知されたいためなのかを知るべきである。
もし後者であれば、何もしない方がよい。まず自分自身を眺めて、自分の力がどこまで及ぶのかを見てみることが必要だ。人びとを助けるのは簡単なことではなく、大変な修練が必要となる。能力がなければ、些細なことで嫌になるし、他者を助ける代わりに混乱させてしまうことになる。
あなたの言葉からは、各人にはそれぞれの愛する能力があり、全員が他者のために同じことができるわけではない、というふうに理解しますが、本当に隣人を愛したいと思った場合に、人が最初にしなければならないことは何でしょうか?
第一歩は、自分自身のエゴを認め、他の人に対してエゴ的に振舞うことを避けようと強く決意することだ。この経緯をなくしては、もっと進歩した段階へと上れない。自己の内面を掘り下げ、エゴ的な部分を認識しようと努める者はめったにいない。そのため、道程の最初の箇所で行き詰ってしまい、それ以上は一歩として進んで行けないのだ。
必要とされる霊的な援助を受けながら、正しいやり方で、他者を助ける役目を開始する人たちは存在する。だが、往々にしてその人たちは、その立場が心地よいので、授けられるもので満足せずにもっと貰いたがり、自分の能力以上のものを欲しがるのだ。
しかし、内面の能力とは、一朝一夕に向上するものではない。大変な努力と長い進化の時間を要し、多くの転生でたゆみなく、エゴを排除して愛の感情を発展させていくことが求められる。だが、このような個々の努力を多くの人が避けたがる。皆、魔法によって、杖で触られるだけで、天才的な力を持った魔法使いにしてほしいのだ。そして愛だけで自分を満たすことをやめ、他者の称賛や感嘆を求め、野心を持ち、願望が現実だと信じ込むようになる。
そうなると自らのエゴによって、エゴが招いている思考を霊的なガイドからのメッセージだと勘違いし、人の注目を浴びたいがためにしていることを、他者への奉仕だと思い込むに至る。霊的に進化することはどうでもよくなり、そう見せかけるだけになる。
この危険性を、よく認識できている人もいるが、エゴはとても巧妙かつ示唆的に、我々を言いくるめるものである。そのことをよく自覚していないと、霊的に進歩していると思っても、実際には自分のエゴを増長させているだけになる。隣人愛を育む上で、特に邪魔になるエゴの形態があるので、それと闘わないでいると、隣人への愛の試みを、隣人を利用する試みに置き換えてしまうことになる。
隣人愛を育む上で邪魔になるエゴの形態には、どんなものがありますか?
邪心、妬み(嫉妬心)、野心、偽善、主役になりたがる傾向、傲慢である。
それらを今見てみることができますか?
よかろう。
では、邪心について話してください。
邪心や悪意は、わざと痛手を与えようとする意思や意図を持って行動する者を、定義する時のエゴ的感情である。当人はそのことを意識していて、他者を苦しめることに満足や快感を覚える。悪巧みをする人は、見つからないように、最大限の弊害を与える策を練ることに知恵を働かせて、偽善をも増長させている。邪心は、妬みや野心といった他のエゴ的感情で培養されるので、悪巧みをする人は、同時に妬み深く野心家であることが多い。
妬みについて話してください。
妬みとは、自分が欲しい何かを持った人たちに対する嫌悪や反感として顕れる、エゴ的感情である。その何かとは、物的な所有物であることも、物的・知的・霊的な資質である場合もある。
つまり、相手の持つ富(物的な所有物)を妬むことも、美貌(物的な資質)や知性(知的な資質)、善良さや愛する能力(霊的な資質)を妬むこともあるのだ。
妬みは、他の人以上になりたいという願望から生まれるので、虚栄心の段階に際立って見られる。他の人以上になろうとするので、常に自分を他人と比較することになる。嫉妬心に囚われた人は、妬んでいる相手を蔑んで損害を与え、批判するためであれば、どんな策でも弄することができる。嫉妬深い人は他の人たちの不幸を喜び、他の人たちが喜んでいるのを見ると残念に思う。
霊的な成長のさまざまな段階で、妬みは同じ形で顕れるのでしょうか? 微妙な違いがあるのでしょうか?
多少の違いはある。
物的な物事に対する妬みは、虚栄心の初期の段階から虚栄心の進歩した段階までの特徴であることが多いが、霊的な資質に対して目覚める妬みは、虚栄心の進歩した段階から自尊心、あるいは自負心に至るまで見られる。
虚栄心の進歩した段階にいる者は、物的なものも霊的なものも妬む。自尊心のある者は、特に霊的なものと愛情に関するものに嫉妬する。
妬みは、虚栄心(見栄)のある人に具体的にどう顕れますか?
見栄っ張りな者は、自分にない財産や資質を所有する人を妬む。
嫉妬深い見栄っ張りは、妬んでいる相手の悪いイメージを創り出すために、人前でその人を侮辱し、悪口を言い、批判する傾向にある。つまり、自分がその相手の被害者なのだと他の人たちに信じさせるためや、その人への攻撃を正当化したり隠蔽するために、事実を曲げてしまうのだ。暗示や操作、犠牲者のふりや嘘と偽りで、妬んでいる相手を貶めるという狙いを果たそうとする。
その方法で目的が達せられないと、言葉の暴力、脅迫、恐喝、強制、さらには肉体的な暴力などの、もっと直接的な手段に訴える。理があるのは自分だと自分自身を納得させ、自己の憎悪や反感を正当なものだと信じている。何よりも自己の願望を満たすことを優先し、他の者に及ぼす損害は気にかけない。
では、自尊心(プライド)のある人にはどう顕れますか? 具体的に何を妬むのでしょう?
プライドの高い者は見栄っ張りな者とは反対に、物的な所有物を持つ人を妬みはせず、愛情が絡む物事を妬みやすい。プライドの高い者が妬む最大の要因が、愛情に関するものなのだ。まだ愛する対象に出会っておらず不幸に感じていれば、他の人たちの間に存在する愛の感情を妬むことがある。
例を挙げてみよう。嫉妬深いプライドの高い者が、ある人に恋をしたとしよう。もしその人が気持ちに応えてくれず、他の人を愛していたとしたら、嫉妬深い者は、自分が欲しいものを相手が持っていると思い、愛の受け手を妬む。つまり、自分の愛が奪われたと思うので、自分の競争相手だと見なした人に対する反感が目覚める。
プライドの高い者は、愛情への嫉妬に囚われると、自分の本当の感情を知られまいと懸命になる。他の人に自分の気持ちを隠し、その裏で欲しいものを手に入れようとするが、拒絶されるのが怖いので、はっきり意思表明をすることがない。愛していると思っている人を獲得するために、ライバルと見なす相手よりもいい点数を稼ごうとする。褒め言葉、礼儀正しい態度、ほのめかし、魅力、説得などを駆使する。
だが、欲しいものを手に入れるのが不可能だと、自分の殻に閉じこもって、悲しみ、憤り、無力に浸る。孤立し、その状況から立ち直るために差し伸べられる援助を拒む。一方、もっと感情について知っていて、その知識を使って感情を痛めつけることができるので、虚栄心のある人よりも相手に深い傷を負わすことができる。
たとえばカップルの間に不和を生み出し、自分の愛の対象となる人に、その人が実際にはパートナーから愛されていないと思わせるために策を練ることもある。二人の間に疑いの種を蒔ければ、それを利用して、後釜に座ろうとする。嫉妬で盲目になり、愛すると思っている人の自由意志を侵害していることなど意に介していない。相手の意志も、その人が自分ではなく別の人を愛していることも尊重できていないからだ。
妬みはどのように乗り越えますか?
初めに、自分が妬んでいることを認めること。自尊心のある者は、虚栄心のある者よりもエゴ的感情をよく理解しているので、妬んでいることを自覚できる。
残念ながら、妬みは、君たちの世界で頻繁に見られるエゴ的感情である。しかも、大多数の者は妬んでいることを認めたがらないので、それ以上進歩できないのだ。自己の悪癖を認識しない者は、それを修正することができないのである。
妬みを克服するには、他の人たち以上になりたいという願望を放棄する必要がある。他者の持ち物を所有したいという欲望を放棄し、幸福になれるかは自身の資質と感情とを覚醒できるか次第なので、人から何も奪う必要はないと気づくことだ。
邪心や妬みも、大なり小なり他者を拒絶すること――毛嫌い、嫌悪、恨み、憎悪に至る――であり、隣人愛とは正反対の一番邪悪なエゴ的感情を培養するので、幸せになる代わりに不幸の主原因である心の病気になりやすい。望むものを手に入れるのが不可能だと、憤り、無力感、悲しみが生まれる。
では、どうやって邪心を克服するのですか?
これは理解や自覚によって解決するのが難しいエゴである。邪心を患う者は、自分が痛手を与えていることを完全に自覚しながら行動しているからだ。邪心のある者は、苦悩を生み出すことに執念を燃やしている。他者にしたことを自分が身を持って苦しんでみるまでは、改悛の情を持ち始めることがない。
こうして気弱で無防備な状態になった時に、かつて自分が犠牲にした人たちから利他・無条件の愛の行為を受けると、思考回路が覆り、それが決定的な変化を遂げさせる一打となる。常に計算づくで動くことに慣れているので、自分がこっぴどく痛めつけた人たちが復讐のチャンスがありながら、赦してくれて手を差し伸べてくれるのが理解できないのである。
彼らの邪心が溶解して、過去の自分の犠牲者たちへの揺らぎない忠誠心に取って替わるのは、この時である。その人たちは自分が恩赦にも救済にも値しないと知っていたにもかかわらず、赦してくれて、助けを求めた時に救ってくれたからである。
今度は野心について話してください。
野心とは、所有または支配したいという強力な願望である。
野心の対象が物的な形態であれば、強欲や貪欲の形で顕れる。つまり強欲や貪欲は、実際には野心の変種なのである。
領土や人に対する権力欲や支配欲も、野心の別の異形である。
野心家は、何でも人の上位に立つことを狙い、誰にも主導権を握られたくないので、嫉妬深い人でもある場合が多い。
野心家は、手に入れていくもので絶対に満足せず、飽くことなき所有欲をどんどん募らせていく。目標としたものを獲得するにつれて、幸せになれると思っているが、目指すものを得るとそれで納得せずに、常にそれ以上のものを欲しがる。そうして、もっと過度で獲得困難な目標物を探し出す。
でも、世界平和や飢餓の撲滅など崇高な目的を野望に抱く人たちもいますが、正しい行為ではないのでしょうか?
それらは野心ではなく、大望である。野心と大望という言葉のここでの意味づけの違いは、野心は崇高な概念に基づかないとしていることだ。
野心家は、利己的な考えで動き、行動する際に良心の咎めを感じにくい。自分の持っているものでは決して満足せずに、所有したい、支配したいという熱意は止まることがない。つまり、野心は飽くことを知らず、過度になっていく。野心家は倫理的・道徳的な紀律を全く尊重せず、目的は手段を正当化すると考えているので、自由意志を大切にできない。そのため、往々にして自分の見解を人に押しつけ、失敗を認めたがらない。
見込みが外れると激怒し、目的を達するために、さらに攻撃的で有害な手段に訴える。つまり、自分の欲しいものを正当に手に入れられなければ、不当な手段で獲得するのだ。だから、他の人たちに損害を与えずに野心を満たすことは難しいのである。
野心はどのように克服しますか?
所有したいとか支配したいというような強力な願望では幸せになれるどころか、自分自身に動揺と不安を生み、他者にあらゆる苦悩を与えると気づくことだ。行き過ぎた野心は、極度に有害なエゴが顕れ出たものである。過度の野心に支配された人は、人類に最大の弊害と苦悩とをもたらすが、同時に、自分自身でも大きなカルマの負債を負う。
人類の最大の犯罪者は、この物質界の所有者になろうとして、思いのままに政治や国際金融の糸を操ってきた権力者たちである。世界支配を渇望し、自分たちの富と権力を増やせるのであれば、何百万という人たちに苦悩や死を引き起こす決定にも躊躇しない。だが彼らは、自分たちが生み出した苦悩が全部、霊的次元に戻った際に、自らの身に降り注いでくることに気づいていない。一生懸命獲得したものは全部、一切合財、物質界を去る時に失うことになり、霊界に移った時に待っているものは、カルマの巨大な債務である。そして、他の人びとに与えたあらゆる苦しみを、自分の身を持って味わうことから返済していくのだ。彼らの魂は犯した罪を全部修復し終えるまで苦しみ続けるが、それには大変長い時間がかかるので永遠に思えるほどである。
次は偽善について話してください。
偽善は、それ自体がエゴ的感情というより、虚栄心の顕れである。それは、いいイメージを与えようとして、実際には違うもののふりをすることだ。偽善者は霊的な進化を望んではおらず、褒め称えられたいために、そう装っているに過ぎない。自己変革をしようとせず、世間体を繕っているだけなのだ。それゆえ偽善は、霊的進化の大敵である。自己のエゴの改善や排除の努力をせずに、エゴを隠して、偽りの慈善のイメージを人に与えるからだ。狡猾に行動して、他者のためになる本当に善良な人だと思われようとするが、実際には自分自身のエゴを満たすために行動する人たちである。
偽善的な態度は、政治においてよく見られる。特に選挙の時期にはそれが顕著で、候補者は誰もが投票してもらおうとイメージ作りに熱心で、市民の状況を改善しようと望んでいるふりをする。だがひと度権力に就くや、自分自身や恩がある者への利益を優遇する。
これは政治に限ったことではない。あらゆる分野で、本来の自分とは異なった顔をして、他者を利用する傾向にある。他者を愛するふりをしながら、その外見的な善意の陰に、人から認められたいとか、名声・富・権力への願望など、利己的な目的を隠している人が大勢いるので、偽善は人類愛の大敵である。
本当に善意で行動している人と、ただそう見せかけたい人とをどう区別したらいいですか?
善意の人は正直に利他の精神で行動し、言うことと行うことが一致している。偽善者はふりをしているだけで、言ったことと全く別のことを行うなど、常に矛盾している。これで違いは明らかだ。たとえば、謙虚だと自慢しがちであるが、本当に慎み深い者は、他者のために良いことを行っても自慢したりしない。それを行うだけで充足できるからである。だが偽善者は、何らかの見返りを貰えない限り、誰のためにも何もしない。偽善者はいつかはミスを犯し、その利己的な目論みが露になる。その時に、化けの皮が剥がれてしまうのだ。
偽善を乗り越えるためには何をしたらいいですか?
最初にそれがあることを認め、打ち克つ努力をしなければならない。また、生涯にわたって芝居を続けるのは疲弊することで、虚しさを生み、それゆえ不幸になると気づくことだ。霊界では自分を偽ることは不可能で、人は見せかけたいと思うようにではなく、それぞれがあるがままに見られるので、霊的な視点からも無駄で無益な努力である。
偽善は他の人たち以上になりたいという願望から生じるので、虚栄心と主役になりたがる傾向との関係が深い。その願望を手放せれば、偽善を克服できるかもしれない。
次は、主役になりたがる傾向についてお話いただきたいです。
主役になりたがる傾向については前にも話したので、ここではあまり取り扱わないことにしたい。繰り返しになるからだ。
要約すると、主役になりたがる傾向は、注目の的になって注意を引き付けたいという願望である。これは虚栄心の段階で一番強く見られるもので、名声や成功、他者からの称賛や賛辞への願望となって表れる。
この傾向は自尊心と自負心の段階でも表れるが、その場合は、愛情不足や愛されたいという願望が原因であることが多い。自尊心や自負心のレベルにいる人たちが自己顕示欲が強いと、傲慢になる。傲慢な人は、他の人たちに勝っていると感じていて、優越的、高圧的に行動する。
人から好かれたいと思うのは別に悪いことに思えませんが。
好かれたいのも悪いことではないが、それが正しいやり方ではないのだ。何かの見返りを期待して行動する人は、それが得られらないと失望したり怒ったりするので、他者のためだったのではなく、利益のためであったとわかる。本当に愛する者は、人から認められる必要もなく、人のために行動するだけで満たされる。
それに、私たちを好きになるかを決めるのは我々ではなく、相手の意志次第であることに思い至らなければならない。相手にしてあげたことへの感謝の意として、私たちに対する好意を要求することは、その人の自由意志を侵すことになる。
主役になりたがる傾向と傲慢とは、どのように克服すべきですか?
謙虚になる練習をすることだ。
では謙虚さとは正確には何でしょうか? 定義できるものですか?
謙虚さとは完全に正直に包み隠さず率直に行動でき、自己の美徳を自慢せずに自分の欠点と過ちとを認められる人に特有の、霊的資質であると定義できる。霊的に人の役に立つためには、謙虚さという資質を伸ばすことが欠かせない。謙虚でなければ、自画自賛や自己崇拝に陥ったり、自惚れたり傲慢になってしまう。
謙虚さに欠けると、どうして自画自賛したり自惚れたり、傲慢になったりするのですか?
他者の支援に関心のある人がどんどん皆の注意を引き付けていっても、当人が謙虚でなければ、きっと自分自身に陶酔して失敗することだろう。自分が大勢の人びとの注目の的であると感じれば、必ず主役になりたいと思う気持ちが暴走する。自己のエゴをよく内省してみなければ、他の人よりもすごく、勝っていると思い込んでしまうのだ。
この時、何よりもこの人の動機となっているのは、もっともっと沢山の人たちからの注目・称賛・賛辞を獲得したいということだ。もっとも、良識的なやり方で大変巧妙にやれば、霊的な内面を洞察する能力の大きい魂にしか最初は気づかれないかもしれないが。
また、より高い霊的な素質を示す人たちを自分のファンを奪うライバルだと見なして、その人たちへの妬みが芽生えることもある。比較されることによって当人の欠点が歴然とする場合は、狡猾かつ悪意を持ったやり方で、その人たちを卑下しようとする。
往々にして、自分の直属の特権的なポストに、充分な能力はないものの言うことはよく聞く従順な部下を配置する。こうなると、人の役に立ちたいという動機は二次的になり、それは、より多くの信奉者を獲得する口実として使われるだけとなる。
こういうことが起こるのは、謙虚さを育まなかったからである。つまり、完全に正直に包み隠さず率直に行動せずに、欠点(主役になりたがる傾向、傲慢と妬み)を認めることもなく、自分の徳だと思っていることを自慢するからである。
そういう見方をするなら、隣人愛や人助けは不可能に思えます。主役欲に囚われることなく求められる謙虚な状態に達するのは、非常に難しいです。一体、エゴの罠に陥ることなく、隣人を愛し人を助けることなどができるのでしょうか?
もちろんできるとも。心からそう望み、自分自身のエゴを見張って、エゴが顕れた時に気づいて、意思を支配されないように頑張るなら可能となる。
自惚れたり思い上がったりせずに自分自身の能力をわきまえて、それ以上のことをしようと望まないことだ。人助けをしようとする場合に、皆より目立ちたいというのが目的であってはならない。また、他の人たちが行っていることと競い合っても比較してもならない。単にそれが誰かの役に立つかもしれないことだけで、満足して行動すべきである。これが、無条件の愛に向けて確実かつ安全に歩を進める秘訣である。
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愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】
愛の法則 Part1【プロローグ】
愛の法則 Part2【愛の法則】
愛の法則 Part3【愛の法則から見たパートナーとの関係】
愛の法則 Part4【愛の法則から見たカップルにおける不実】
愛の法則 Part5【パートナーとの関係におけるエゴ的感情】
愛の法則 Part6【愛の法則から見た子どもとの関係】
愛の法則 Part7【愛の法則から見た隣人愛】
愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】
愛の法則 Part9【イエスの地上での使命 その2】
愛の法則 Part10【おわりに】
愛の法則 Part11【あとがき】