愛の法則から見た十戒
(訳註)十戒とは、モーゼに率いられたイスラエルの民がエジプトから脱出した後、シナイ山で神から授かったとされる10の戒律で、旧約聖書では、申命記5章と出エジプト記20章に記載されている。プロテスタントやカトリックなどの宗派の違いで多少内容が異なるが、この『愛の法則』では、スペイン・カトリ教会の教義の十戒をとりあげている。
スペイン・カトリック教会における十戒
1.すべてに優先して主なる神を愛せよ。
2.神の名をみだりに唱えてはならない。
3.祝日を聖なるものとせよ。
4.あなたの父と母を敬え。
5.汝、殺すなかれ。
6.不純な行為をしてはならない。
7.盗んではならない。
8.偽りの証言をしたり嘘をついてはならない。
9.不純な考えや願望を抱いてはならない。(本書のイザヤによると元来存在しない)
10.人の財産を欲してはならない。
本書に登場するイザヤの十戒
1.神と隣人とを自分のことのように愛しなさい。
2.神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない。(霊性で商売をしてはならない)
3.少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい。
4.君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈愛、尊重、理解を示しなさい。
5.どのような形であろうと、いかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。
6.望まない性行為を誰にも強いてはならない。(感情の自由を尊重せよ)
7.エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない。(公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ)カトリック教会の7・8・10の統合
8.自由意志を尊重せよ。
9.霊的裁きの法則を尊重せよ。
10.個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ。
旧約聖書の申命記と出エジプト記に書かれてある十戒
(括弧内は、原典のヘブライ語訳からのイザヤの解釈)
1.わたしのほかに何ものをも神としてはならない。(唯一の神)
2.自分のために、偶像を造ってはならない。(神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい)
3.神の名をみだりに唱えてはならない。(神の名を、欺くために使ってはならない)
4.土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。(6日間は働いてすべての仕事をし、7日目は
いかなる仕事もしてはならない)
5.あなたの父と母を敬え。
6.汝、殺すなかれ。
7.姦淫してはならない。(売春してはならない)
8.盗んではならない。
9.隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
10.あなたの隣人の家――妻、奴隷、牛、ろば、すべて――を欲しがってはならない。
十戒(モーゼが神から与えられたとされる10の戒律)の元となったのは何ですか? 神自身が口述したのでしょうか、それともモーゼが発案したか、誰か別の人間が作ったのでしょうか?
神自身ではない。神だとするのは言い過ぎだろう。しかし、君たちが十戒と呼んでいる最初のものが、高度に進化した存在たちによってモーゼに伝えられたのは確かだ。高度に進化していたがゆえに、彼らを神の使者だと考えてもらっても構わない。
それらの存在は、どんな目的で十戒を伝えたのでしょうか?
その時代の人びとに、霊性とはいかなるものかという基本的な概念を与えるためだ。だが高次の存在は、何かを要求したり義務付けたりすることがないので、戒律というよりは助言であったと言った方がよい。それゆえ、それを十戒と名付けたのは間違いなのだが、君たちが聞き慣れているのなら、引き続きそう呼ぶことにしよう。
真実であるものが少しでも残されたことに感謝します。
とはいえ、改ざんや改変、加筆などの標的にならなかったわけではない。
そんなことだと思っていました。で、改ざんされたものはどれで、されなかったものは何ですか?
もしよかったら、一つ一つ見てみよう。歪曲されているものは、後世のもので歴然としているので、君たちにもわかることだろう。旧約聖書に書かれた内容と、カトリック教会で公認された十戒とを比較すればいいだけだ。
では、最初の戒律から始めましょう。カトリック教会によると、それは「すべてに優先して主なる神を愛せよ」ですが、これは何をいわんとしているのでしょう?
これは良い戒律だが、エホバがモーゼに十戒を与えたとされる申命記(モーゼ五書の一書。十戒は旧約聖書では、申命記と出エジプト記に記載されている)では見当たらない。
これはむしろ、当時の律法学者に「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」と問われたイエスが、「第一の戒めは『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』であり、第二は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』である」と答えたことに由来する。
しかし、申命記においては、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。また自分のために、偶像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、あるいは地の下の水中にあるもの、いかなるものの形も造ってはならない。それらを拝んではならないし、それらに仕えてはならない」となっている。
どちらが本物なのですか?
両方とも霊的に高次のものだ。モーゼのものは、その時代に頻繁に見られた多神教と偶像崇拝に対する風刺である。神が唯一の存在であること、そして、偶像を崇拝しても主たる神には届かないし霊性とも無関係であると伝えたのだ。つまり、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と告げている。
イエスのものは、神が唯一であることを認めた上で、より高度な要素が付加されている。それは、「神と隣人とを自分のことのように愛しなさい」ということで、「愛の法則」の要と言えよう。
二つとも正しいのだとしたら、何が問題なのですか?
私には、何の問題もない。カトリック教会の十戒が申命記にも記載されていて、エホバが――ヤハウェと呼ぼうが構わないが――モーゼに告げた通りのものであると頑なに信じている者にとって、問題となるのだろう。でも、実はそうではないところに近世のペテンがあるのだ。
旧約聖書に書かれていることに的を絞って見るならば、第一の戒律はイエスのもので、モーゼのものではない。
ではどうして、そのように変えたのでしょうか?
申命記の戒律では、「神のように崇めるために偶像を造るのはやめなさい」と人に告げている。しかしながら、よく観察すると、カトリック教会はこの掟に背いている。彼らは、多くの聖人や聖母、またイエス自身のあらゆる種類の、おびただしい数の像を崇拝することに力を入れているからだ。ルターのような宗教改革者にも気づかれたこの矛盾をなくす策の一つが、この戒律自体を削除して、他の体裁を繕えるものにすり替えてしまうことだった。
なぜカトリック教会は、聖像を崇拝するようになってしまったのでしょうか?
これもすでに話したことだが、コンスタンティヌス皇帝以後のカトリック教会は、それ以前の宗教の慣習と儀式とを採り入れたのだったが、それらの宗教では神々への偶像崇拝が一般的だったのだ。この風習はローマ帝国のさまざまな地域において根強く残り、コンスタンティヌス帝が布告した強制的な改宗をもってしても、簡単に一掃できなかった。
しかも教会にとっても、この習慣を排除することは得策ではなかった。というのも、偶像やそれらへのお供え物を崇めさせておけば、人びとの気を逸らせておくことができ、真の霊的な価値観を問われることも、それに相反する彼らの利己的なやり方が問題視されることもなかったからだ。
こうして、過去の男性神の数多な偶像は、聖人やイエスのものに替わり、女性神の偶像は聖女や聖母のものとなった。除外されたものは、新しい宗教の聖像にするのが不可能だった、動物の像のみであった。
私の話が意外だとしたら、もっと時代が近い、似たような現象を見てごらん。アメリカ大陸が征服されて先住民は強制的にキリスト教に改宗されたが、いまだに、先コロンブス文化の神々への崇拝と祭式が続いている。今では、かつての神々の名が、教会の聖人の名前に置き換わっているだけなのだ。
以上のことが、ユダヤ教徒が偶像を崇めない理由の一つになっている。他方、カトリック教会はユダヤ教会と並んで、十戒を正式に認めると公言しているにもかかわらず、信者は偶像を崇拝しているのだ。
霊界が儀式についてどう思っているのか、もう少し深く教えていただけないでしょうか。というのも、人間が宗教を信仰するのは、祭式が神聖と見なされている影響が大きいと思うのです。
儀式というものは、それを執り行うことで神に近づけると勘違いした人間が発明したお遊びに過ぎないのだが、実際には、真の霊性に人が近づくことを阻むカモフラージュにされている。
祭式は、人間社会の慣習と感受性の度合いに応じて、時代ごとに変化していった。過去の時代においては、人間を拷問したり生贄にすることで神々が満足すると信じられていたために、儀式というものは身の毛のよだつ行為であった。のちに人間の生贄が動物の生贄に取って替わり、今日でもこの習慣はさまざまな地域社会に残存している。イエスのお陰でキリスト教の社会では動物を捧げる風習はなくなり、それほど残酷でない儀式に置き換わった。
しかしながら、神や霊性の導き手たちが彼らの援助と引き換えに、祭式や捧げ物を要求したり必要とすることなどないと知っておくことだ。彼らは、この習慣を進化の乏しい人間にありがちな特性だと思っており、捧げ物をすることで命が奪われ苦しみや痛みが生まれることに悲しみを覚えている。そして、それをする者たちが自らを騙してしまっていることを悲しく思う。それというのも、人間や動物を犠牲にするような残酷な儀式は「愛の法則」に反するものなので、実際には意図したこととは反対に霊的な債務を負うことになるからであり、無害な儀式でも霊的な観点からは無意味であるからだ。
また、聖地とされる場所に巡礼する必要もなければ、それを要請されることもない。願をかけて長期間絶食するといった馬鹿げた行為も、自分を鞭打つことも、健康を損なうリスクがありながら誰の得にもならない、苦痛を生み出す無意味な肉体的なせっかんも不要だ。求められるのは、前進したいという意志のみなのだ。
これまでに何度となく繰り返してきたが、もう一度言っておこう。霊的な向上に役立つのは、エゴを排除し愛の感情を育むことにおける我々の進歩のみである。そしてこれには、日々の努力が欠かせない。それゆえ、霊性の道に近道など存在しない。つまり、多くの人びとが望むように、自己努力をせずに目標に達する、手段も儀式も存在していないということだ。儀式というものは、偶像崇拝やお祈りを繰り返すのと同じように、霊的な視点からは意味のないものだ。
特定の儀式やおまじないによって、霊的な力を獲得できると約束する人もいますが、そういうこともあるのでしょうか。
そんなことはもちろん、愚か者だけが騙されるでまかせだ。前に説明した筈だが、テレパシーや透視力といった能力が発達するのは、愛における霊的な向上が見られる時だけだ。だから、そのようなことを実践して、超人的な能力を獲得できる者などいやしない。
しつこく聞いて申し訳ないのですが、魔術やおまじないについてはどう思っていますか? 効き目があるというのは本当ですか? つまり、ブードゥー(黒魔術)や呪いのように危害を加えるとが目的であっても、人が願い事をする時には、ある種の霊の協力を得られるのでしょうか? また、何か根拠があるのでしょうか?
魔術もまじないも、霊的な実習とは見なせない。まじないとは、儀式と同様お遊びであり、宝くじに当たりますように、という他愛もないもののこともあるが、時にはゾッとするものもある。他者に損害を与えようとして願をかける場合などは、利己的な意図が明らかである。
確かに中には、悪い目的を持った人間の要求に応じようとする、ネガティブな存在がいる。彼らも似たような悪い意図を持っていて、特定の人に害を及ぼそうとするのだ。
だが、そうは言っても、それが成就されるとは限らない。人に危害を加えたい霊や人間がそう望むだけで、誰でも好きな人をいじめることが許されるとしたら、それは、肉体を持って生まれた者たちの自由意志を侵害することになる。ネガティブな存在たちに、好き勝手に人を痛めつける能力があったとしたら、皆がメチャメチャにされてしまうだろう。
しかし、すでに話したことだが、彼らが影響を及ぼすことのできる範囲は限られている。ネガティブに感化することができるのは、そのような悪い影響を甘んじる低波長の者たちか、怖れや自己暗示によって、そうなると信じてしまう者たちなのだ。したがって、このような悪い霊に感応しないように防衛するには、各自の人生に対する姿勢が一番有効である。人を傷つけないように気を配りながら、善い意図を持って行動する者は、自動的にこのような影響力から身を守ることができる。それよりも、魔術で他者を不幸にしたいと思う者の方が、この手の行為の被害者になりやすい。悪霊たちは、誰にも危害を与えることができないと、悪いことを企んで自分たちを呼び込んだ者自身に影響して、餌食にしてしまうのだ。
他者に黒魔術を使った者は、原因と結果の法則において、将来人から呪われることになる。そうして自分自身で、他人に及ぼした忌まわしい行為の結果を体験することとなる。
それでは、誰かに呪われているため、または悪霊に苦しめられているために気分がすぐれない、と言っている人たちをどう思われますか?
ほとんどのケースが事実ではない。気分が悪いのは本当だろうが、それは呪われているからではなく、自分自身の感情的な問題や利己的な行為が原因となっている。また、霊に嫌な目に遭わせられるかもしれないと信じることで怖くなり、悪霊という恐ろしい存在を自分の想像力で創りあげてしまう人もいる。そしてそのことによって、自分の力を失い、精神的にも落ち込んで、自己暗示によって不快になってしまう。不快感の原因が何であるのかを突き詰めて考えるよりも、それを人のせいにした方が簡単なので、そういうことになるのだ。
でも、実際にネガティブな霊の影響を受ける場合もあるのでしょうか?悪魔に憑かれてしまった人とか、悪霊に支配されてしまった人もいますか?
悪魔は存在しないので、悪魔に取り憑かれてしまった人はいない。記録に残る「悪魔憑き」のほとんどが実際には、強い心理的錯乱がある精神患者で、極度のトラウマ状態を経験したことや、狂犬病などの伝染病の犠牲となったことによる。
だが、エゴ的な感情が起こるとネガティブな霊の影響を引き付け、それがより一層助長されることになるというのは本当だ。人からかけられた呪いが効いたのではなく、自分自身で招いた状況なのだ。
さまざまな要因で、大なり小なり憑依的な霊に左右される人がいるのも確かである。その理由としては、悪い霊との交信を望んだためとか、彼らに感化されやすい弱点――たとえば麻薬を常習しているなど――があるとか、極端にネガティブな利己的な態度をとったせいである。
他に、過去に悪いことをしたせいで、その復讐をしたがっている霊にさいなまされる場合もあるが、通常その影響力はかなり限定されている。一般的には、被害者となる人に否定的な思考を起こさせるだけで、その人に取り憑くことはない。
霊媒になる才能がある人は、その資質ゆえに霊界との交信が取りやすく、コンタクトも強いものとなるので、ネガティブな霊にもっとリアルな形で邪魔されやすい。でもそれは低俗な本能や邪悪な行為に引きずられた場合だけで、ホラー映画に出てくる悪霊に取り憑かれるケースなどは全くの作り話だ。
では、そのような場合には、どうしたらその影響を振り払えるでしょうか? いわゆるエクソシスト(悪魔払いの祈祷師)は、悪霊の影響を払う特別な力があるのでょうか?
もう説明した筈だ。ネガティブな存在に悩まされるのなら、それは通常は、我々がその霊を呼び込むような態度をとってしまったことを反映しているのだ。だから、自分自身が肯定的な態度に変わること、つまりエゴによって生まれた悪習を断つことが、その影響からの解放に繋がる。何か特別な儀式やまじないを行うことで振り払うのではない。君たちがエクソシストと呼ぶような祈祷は、無益なだけでなく馬鹿げている。
エネルギーを通すことで被害者のエネルギー体を綺麗にすることは、ネガティブな霊の影響を払う役に立つのでしょうか?
エネルギーを流す人が良いパイプ役であり、その能力を利己的な目的に使用しないのであれば、助けになれる。高次の霊たちがその人を通して活躍するので、悪い影響を振り解いてあげることができるからだ。
だがそれをしてもらっても、当人が否定的な態度を変えようとしなければ、その効果も一時的なものだ。したがって、ネガティブな存在たちの影響を振り解くのは他人に頼ることではなく、自分次第なのである。
自分の態度が悪くなくても、ネガティブな霊がいる雰囲気を感じ取れる敏感な人もいますか?
そういう人もいて、疲労や倦怠を感じてしまうが、不快感は長くは続かず、その場所を離れれば消失する。つまり一部で信じられているように、低波長の霊たちが頻繁に出入りする環境にいたからというだけで、悪い霊に憑かれて苦しめられることなどない、ということだ。
時折そのような悪い雰囲気は、肉体を持った者自身のエゴ的感情によって生じている。繊細な人であればそれを感じ取って気持ちが悪くなるが、それも一時的な感覚であるものだ。
いわゆる「超常現象」を発生させることのできる霊がいるというのは、本当でしょうか? 物が動いたり、照明や機器が独りでに点滅したり、ビデオや録音で捉えた声や残像などがあって、そのような現象に遭遇した人たちはとても怖がっているようですが。
そのような現象はあるが、悪さをしようとしているためとは限らない。
時には、まだ生きていることを知らせたいために、肉体を持った者と交信したがっている霊に過ぎない。そういう場合は、少し前に亡くなった霊であることが多い。この物理的な生にまだ執着を残していて、住んでいた環境や人間関係を捨てたくないために、まだ生き続けていることを知らせたくて、近親者の注意を引こうとする。彼らに話しかけたり触ろうとするのだが、肉体を持つ者との交信やコンタクトの可能性に限界があるので(肉体を持つ者の感受度による)、その存在に気づいてもらえない。そこで彼らにとっては、物質よりもエネルギーを扱う方が簡単なので、電気で動く機器に干渉して、電球やテレビやラジオを点けたり消したりする。また、そこに霊媒体質の人がいる場合には、その人のエネルギーも借りて、物体を移動させることもある。
こういうことは、何が起きているのかわからない人たちを大変怖がらせてしまうが、実際には邪悪な意図はなく、注目を集めたいだけで、肉体を持つ人たちの間に引き起こす怖れには気づいていない。
すでに肉体のないこのような存在たちに状況を把握してもらって、霊的次元で自分の道を進んで行ってもらえるように手助けすることはできるのでしょうか?
それは君たちによるというよりは、彼ら次第だ。なぜなら、霊的な次元では、その移行に必要とされる援助が得られるのだが、時々、物的な世界との繋がりを断ち切り難い場合があるのだ。そういう場合、支援する魂たちは、彼らが自分自身の意志で歩み続けることを決めるまで、見守っている。また、そのような境遇の存在たちは思考を読むことができるので、声に出さずに頭の中で話しかけてみることも有効だ。彼らの置かれた立場――つまり、もう肉体的な生を終えたこと(中にはあまりに混乱していて、自分が肉体を離脱したこともわかっていない者がいるのだ)――や、その場所に永久的に留まっているのは不可能なことを説明し、霊的な世界の仲間や愛する者たちに助けてもらうべきだと諭すのだ。
何よりの助けとなるのは、彼らを亡くしたことによる悲痛や悲嘆の感情を避けることである。というのも、旅立つ準備ができていない者を引き留めてしまうことになるからだ。肉体を失った者は、愛する者たちが自分がいなくなったことで悲しみに暮れているのを見ると、哀れに思い、その状態で独りにさせてしまうのを辛く感じるものだ。だから、喪失感と悲しみを乗り越えることが、彼らを心置きなく立ち去らせてあげることになるのである。
仲立ちをしてくれる霊媒や予知能力者を通して、死んでしまった家族と交信できるでしょうか?
故人は、人の最も敏感な時を選んで別れを告げたがるものなので、コンタクトは、夢の中やはっきり意識できる体験として、自然に起こり得る。コンタクトが自然に起きないのであれば、あえてそれを強いる必要はない。
たまに、故人との交信を強く渇望するあまり、それに便乗する者の手に落ちてしまうことがある。事前に一定額を支払うことで、死者との待望のコンタクトを取ってあげると口約束されるのだが、大概それは偽物であり、ただの演技に過ぎないのだ。
愛する故人からの連絡の形跡がすぐになくても、心配には及ばない。死というものは存在していないからだ。連絡がなかったとしても、他界した人は、そのまま霊的な次元で生き続けている。
君たち自身の準備が整っていないために、連絡が取れないこともある。たいていの場合、君たちはあまりに悲嘆に暮れていて、愛する故人が伝えたいと思うことを受け取る余裕がない。そういう時にコンタクトがあっても、喪失感が増して、別れ難い思いをズルズルと引きずり、辛くなるばかりだろう。だが、悲しみを克服すれば、切望することが叶うかもしれない。
睡眠中は皆、身体から離れられるので、愛する者たちがいるところへ赴くことができる。敏感で感受性が高ければ、その経験を覚えていることが可能となろう。
では、手相見やタロットや同様の手法で、未来や過去を言い当てられると言う人や予知者のことをどう思われますか?
未来は白紙である。いわゆる「アカシックレコード」と呼ばれる、個人の過去の記録や未来の可能性にアクセスすることは可能だが、それはとても制限されている。肉体を持った者は、当人の進化のために有益となる場合に限り、特別に自分個人の記録を見ることが許されるが、他人のものにはアクセスできない。
アクセスは通常眠っている間に起こり、その体験は夢として記憶されたり、予感となったり、深くリラックスしている状態でビジョンとなって現れることもある。しかし、それができるのは自分が望んだ時ではなく、霊的世界がそうした方がよいと判断した時だ。
人は大概、好奇心や欲心や利己的な関心から、自分の過去や未来のことを知りたがるが、霊的なガイドたちは、君たちのそのような動機を満たすために、このような情報にアクセスさせてくれるのではないと、はっきり伝えておこう。
それなのに、他人のアカシックレコードに入り込めると言っている人たちの数の多さには、全くびっくりさせられる。その多くが、事前に一定額を受け取っているのだが、いい加減にカードを並べたり、適当に本のページを開いたり、生贄にした動物の臓物の形状を読み解いたり、あるいは他のゲームや多少不快な儀式をするだけで、いともたやすくその人の過去や未来を知ることが可能だとする。もちろんのことだが、このようなことはすべて嘘だ。
でも、予知者の中には、言い当てられる人もいますよね。
ほとんどの場合は当たらない。当たるように見えるのは、透視力を持つと自称する者が狡猾で、クライアントを持ち上げるのが上手く、その人から情報を引き出して返答したり、お客が耳にしたいことを話すのに長けているからだ。お客を満足させれば、今後もセッションの代金を払ってくれる顧客となるからだ。
だが一体誰が、自分の運命や未来が、適当に並べたカードに書かれていると信じられるのだろうか? カードを切り直してもう一度引いたら、違うカードが順番を変えて出てくるのではないだろうか? そうなってしまえば、その人の将来も変わってしまうということかい?
常識を使って判断すれば、たとえばタロットというものが、ただの遊びに過ぎないことがわかるだろう。カードを並べるだけで、未来を占ったり過去を透視できると信じる人は、ゲームのモノポリーが得意なだけでエコノミストだと思い込んだり、飛行機を操縦するビデオゲームが上手いだけでパイロット気分になる人と同じである。
それゆえ、そのようなゲームと霊性とをごちゃ混ぜにしてはならない。根拠のないことを信用してはならないのだ。これらはすべて霊性とは無関係なのだが、しっかり意識していないと虚偽と真実とを混ぜてしまい、迷信と霊性とを見分けられなくなってしまう。
ごく一部だとしても、言い当てることができて、正しかったとわかるケースはどうですか? たとえば、人の個人的な出来事を詳しく言い当てられる場合は、どう説明できるのでしょうか?
確かに霊媒能力を持つ人もその中にいるのだろうが、その能力を間違って使用しているようだ。霊媒能力というものは、霊的な授かりものであり、いたずらに用いてはならない。利益を目的にすべきではなく、ましてや職業にしてはならない。
過去を言い当てた時のお客の反応が面白いので、そういうことを生業とする人たちに、進化の乏しい霊たちが寄り付くことがある。その場合は、カードを読んで当てているのではなく、そのような霊たちがお客の信用を得るために、彼らに正しい情報――その全部が正しいとは限らないのだが――を提供しているのだ。
また、霊媒能力を持つ人の中には、下心があるわけではないのだが、無知であるがゆえに世間のエゴに翻弄されて、自分の本当の能力と俗世間で学んだ技法とを混同してしまっている人もいる。こういう場合は、あまり進化はしてはいないものの、悪い意図を持たない霊たちが介入しやすい。
占星術、つまり、天体が人生に及ぼす影響についてはどうお考えですか? 星座占いや星座カードは? 生まれた日付けと時間がわかれば、その人のだいたいの性格や、人生で起きる出来事をあらかじめ知ることができるというのは本当ですか?
創造の万物は相互に網の目のように結びついているので、天体が発するエネルギーの光が、他の天体やそこに住む生物に影響するというのは本当だ。そして、地球からの距離によって重力の強さが変わるのと同じように、それらの天体の近くに行けば行くほど、その影響が強くなることも確かだ。また、天体の配置によって、特定の霊的な仕事がやりやすくなることもあるので、進化した魂は、霊的次元の任務に取り組むために、より好都合な時期を選ぶことがある。
しかし、それはあくまでも影響力に過ぎず、決定的な要素ではない。マラソンの選手が、いつも適度な気温と湿気を望むのは、それが、いい記録を残すための大切な条件だと知っているからだ。しかし、いい天気だから良い選手になれるわけでも、悪い天候のせいで劣ったランナーになるわけでもない。天候の及ぼす影響は、選手の記録を調整するのに限られるが、これと同じことが天体についても言える。進化した魂は、生まれる時の天体の配置がどうであろうと進化しているのであり、そうでない魂は、天体の位置が良くても進化した魂にはなれないのだ。
転生することになる魂の誕生が二週間早まるか遅れるかによって、その人が違う人生を送ったり、異なった性格になるなどということが、どうして信じられるのかね? 魂の人格や成長というものは、無数の転生を経て獲得した霊的な学びの結果である、と何度も言わなかったかね? 人生で出会う試練は、生まれる前に自ら選んで準備をしたもので、それを乗り越えるかは個人の意志次第だと言っているのに、どうして誕生の日付によって、その人の人生の出来事が決まってしまうと思えるのだろうか?
もう一度、はっきりさせよう。未来は白紙だ。人の未来が誕生日で決定されているのなら、どこに自由意志の余地があるのだ? 二次的なことばかりに注意を向けていると、本当に大切なことを見逃してしまう。
そうですね、では十戒の二つ目を見てみましょう。「神の名をみだりに唱えてはならない」ということですが、これについて教えてください。
これは申命記にも記載されているが、訳に誤りがある。ヘブライ語を逐語訳すると、「神の名を、欺くために使ってはならない」となる。つまりこの掟の問題は、戒律自体が間違っていることではなく、その意味の解釈の仕方にあり、そうなったのは、もともとのヘブライ語の翻訳を改変してしまったためである。このことは前にも話したかもしれないが、とても重要なことなので、ここでも掘り下げて見てみることとする。
多くの人は、「神の名をみだりに唱えてはならない」ということは、世間で一般的に使われる下品な表現の中で、神の名を用いてはいけないことだと思っている。そして、誰かがそのような表現を口にするのを聞くと、発言者でさえ文字通りの意味で言っていないことを考えてみようともせず、神への冒涜だとして腹を立てる。しかし実際には、そのような言い回しは通俗的で粗野であるかもしれないが、無害なもので、霊的には何の問題ともならない。
しかしながら、この戒律が真に意味するところは、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」である。人類はこれまでにもこの掟を平然と破ってきたし、今も破り続けている。
最もひどい残虐行為も神の名において行われてきた。その中には、聖なるものへの儀式に人間を生贄に捧げることから、異教徒の殺戮、宗教戦争や十字軍、改宗の強要、異端者の迫害・拷問・殺害などや、宗教権威のエリート層を肥やすための搾取、信徒を操るための教義の改ざん、人びとの間に不和や争いを生み出すことまでが含まれている。このようなことのすべてに、大変有害な利己的な意図があるのだが、人間が神の名のもとに犯したのである。これは本当に由々しきことで、霊的には致命的な結果をもたらす。本当は自分たちのエゴのせいなのに、神がそのようなことを命じたと皆に信じ込ませるのはペテンである。
聖典でさえも改変し、神がイスラエルの民に他民族の殺戮を命じたと信じさせようとするのは許しがたい。また、神、あるいは神の遣いとされるモーゼが災いを招いて、兄弟であるエジプト人を殺し、イスラエルの民をエジプトから解放するようファラオに迫ったとすることも看過できない。もし、それが本当であるなら、神とモーゼは、そこら辺の人殺しや暗殺者、人類の殺戮者などと同じように残酷で、命を粗末にするのだと認めないわけにいかなくなる。
話が逸れてしまいますが、モーゼやファラオのお話で好奇心が刺激されてしまいました。実際はそうでなかったのなら、本当に起きたことは何だったのでしょう? エジプトの災いについては、宗教でも絶対に確かなこととされていますが。
当時は二人の関係が良かったので、イスラエルの民を解放してもらえるように、モーゼがファラオを説得したのだ。
では、ヘブライ人(古代イスラエル人・ユダヤ人の別称)たちは、彼らを殺そうとするフォラオの軍に追われなかったのですか?
追われはしたのだが、それはファラオとその軍によってではなく、ファラオの決定に不満を持ったエジプトの支配層による。ヘブライ人たちが出発することを知ると、追っ手の傭兵隊を組織した。そして、ファラオに歯向かうことを避けて、エジプトの手の届かないところで捕らえようとしたのだ。
それで、何が起きたのですか? 聖書には、モーゼが聖なる力を借りて紅海の水を断ち割り、ヘブライ人が渡れるようにした後、エジプト兵に水が押し寄せたので、彼らは溺れ死んでしまったとありますが。
実際に起こったことは違うのだ。まず、モーゼが水を断ち割ったというのは本当ではない。モーゼが考えたルートは、通常水に覆われている地域を通らなければならなかったが、時折、気候と潮の状況により、場所によっては渡れるほどの水準にまで、一時的に水が引くことがあった。モーゼの顧問役たちはこのことを知っており、彼にそれが起きる日時を教えたので、単に、潮が引く頃まで待って出発したのだ。ファラオに仕えている者たちも、通り道に当たる地域を整えてくれていた。2~3日遅れてそこに追っ手が到着した時には、もう潮が満ち始めていた。中に入って行けば海に飲まれてしまうことは明らかであったから、常識があれば渡ろうとはしなかった筈だ。だがそうしてしまい、渡っている途中で水かさが増して、溺れ死んでしまったということだ。
これでわかっただろうが、実際には、何も超自然的なことは起きていない。信じられているように、神の怒りに触れて死んだわけではない。死んでしまったのは、彼ら自身の憤りのせいだ。ヘブライ人に追いついて殺したいという欲求の方が、自分たちの命を守ろうとする良識よりも勝っていたということだ。
それでは聖書には、なぜ別の話が書いてあるのでしょう?
利己的な関心のためなら、すべてが歪曲されてしまうと言っただろう。当時は聖なる書物というものは、司祭職しか手にすることができなかったのだ。だから、実際に体験した人たちが死んでしまうと、自分たちに有利になるように事実を変えてしまうことは割と簡単だった。
どの宗教でも同じだが、ユダヤ教の支配者たちは、人民に神の存在を怖れさせて従順にさせることで、彼らの権威に逆らわないようにしておきたかった。そのために、裁きの神と執行者モーゼ、というイメージを創り上げたのだ。ひと度そのような神話を作りあげれば、人民を意に従わせようとする場合は、神の言葉をモーゼが代弁していると言いさえすれば、人びとを震え上がらせ、怖れから言いなりにさせることができたからだ。
なんてことでしょう!その時代の歴史に、本当に起きたことをもっと知りたいです。人類の宗教観に多大な影響を与えてきたことですから。
それは、我々が見ている大事なテーマから外れてしまうので、今は不適切だ。君に話したことを、人間がどういうものであるかを示す一例としてほしい。自分の一時のエゴを満たすためになら、何でも改ざんしてしまうのだ。霊的な教えもしかり、また、捏造された間違いだらけの神や使者の概念さえも伝えようとするのだ。
第二の戒律(神の名をみだりに唱えてはならない)に最も違反したのは、特に過去の時代における宗教権威者だったようですね。
過去の宗教権威者だけでなく現在の宗教権威者もだ。現在はより巧妙に行われているとはいえ、まだ神の名が利己的な目的のために使われている。霊的には偽りで、人間の魂の進歩を妨げる宗教上のドグマを正当化するために、いまだに神の名が用いられる。高位聖職者たちは、その地位がもたらす権力を利用して、ありとあらゆる搾取や犯罪を犯し続けている。今では多くのことが秘密裡に行われているが、それは首謀者が明るみに出ると、法廷に引き出されるからだ。
政治権力者たちも、都合のいい時には宗教を利用して、利己的で侵略的な目論みを市民に納得させようとする。たとえば、市民を戦争に送り込みたい場合などには、犠牲を要請しているのは神であると言いくるめ、神が味方についているから、戦闘中も守ってもらえると思い込ませる。
だが、一番の影響力を持っていた宗教や政治の権力者たちが最も有害だったとはいえ、この戒律を破っているのは、彼らだけではない。個人的なレベルにおいても、見せかけの正統宗教や霊性の下に人間の自由や意志を制約したり、私欲に基づいて他の人たちをコントロールしたり操作するなど、偽善的で利己的な行動は、この掟に背くものである。
同様に、自己の利益のために、人の宗教及び霊的信心を利用する者も、この戒律を破っている。したがって、「神の名を、利己的な目的を正当化するために使ってはならない」ということを我々が正しく応用するのなら、「霊性で商売をしてはならない」ということに繋がるという結論に至る。つまり、霊性を商売にして儲けようとする人も、この戒律に背いていることになるのだ。
「霊性で商売をする」とは、具体的に何を意味するのですか?
霊性とは、魂が存在するだけで元来生まれ持つ特性である。進化を促す力となり導き手となるために、霊界から個々の魂に授けられた資質であり、天賦の才なのだ。
したがって、霊性というものは、特定の人に属するものではなく、皆が平等に有するものだ。我々には無償で与えられているのであるから、それを使用する時には無料とせねばならない。それゆえ、霊性を金儲けのために使ってはならない。そうするのなら、それは、誰かが空気を私物化して、呼吸をする権利と引き換えに、人からお金を取るようなものだ。我々の持つ霊的な能力と知識を、思考に忍び込むエゴに占有させてしまえば、無私の志ですべき他者や自己の進化に役立つ霊的な仕事も、利潤や儲けを引き出す物的な商売に変わってしまう。
さまざまな霊媒能力も、すべて霊界から授かった才能なので、どれも商売の対象としてはならない。この中には、エネルギーの伝授も含まれるが、お金と引き換えに霊界からの助言や交信を受け取るのもダメである。霊媒能力は、我々の進化を助けるために与えられたのであり、取引のための商品ではない。霊的な才能の使い方を誤れば、霊的な援助が貰えなくなろう。高次の霊たちは、私欲を肥やすことに協力的でないのだ。
でも、「お金持ちになりたいのではなく、霊性に天職を見出したのでそれに従事したいと思っている。他の仕事をする時間がないけれど、何かで暮らさないといけないので、スピリチュアルなことでお金を稼ぐ必要があるんだよ」と言う人がいますが、これについてはどうですか?
誰から、物質界での仕事を免除されていると言われたのかね?我々は全員、霊的な進化と関係があるのだから、「霊的なこと」に従事するために皆が仕事を辞める決意をしたとしたら、この世界は何で生きていくのだろうか?
現在、多くの人たちが、スピリチュアルな変化を遂げるということは、世俗的な仕事を辞めて、彼らが霊的な仕事と呼ぶことに専従することだと思い込んでいる。そして、世俗的な仕事からの収入がなくなるので、霊的な知識を伝えたり助言を与えたりして、お金を貰っても構わないと正当化しているが、そうではない。
霊的な成長は、物質界の仕事と完全に両立させることができる。しかも、病気、老体、肉体的または精神的に不適合な場合を除いて、誰もそれを免除されることなどない。肉体を持って生まれた者の生きる上での義務――たとえば仕事だ――を回避する口実として、霊性を持ち出してはいけない。なぜなら、すでに霊的な仕事をしているからと言い訳をして働かない者は、楽をしようとする怠け者であり、霊的に進化はしない。誰もが生計を立てるために働かねばならず、皆がそれにふさわしい対価を受け取らねばならない。霊的なことを物質界の職業にすることは、正当化できない。
霊的な観点から見ると、霊性を職業化するのは正しくない、と言われるのですか?
その通り、正しいことではない。君の言うところの霊性を職業化したことによって、宗教や聖職者が存続することになったのだ。聖職者たちは、霊的な仕事らしきもの(儀式や礼拝に時間を割くことは霊的に無駄なことなので、実際には仕事とも呼べないが)をすることで世俗的な仕事を免れて、自分たちで稼げないお金を信者や信徒から貰って食べていく必要があると人びとに思い込ませ、彼ら自身もその気になってしまった。
繰り返すが、霊的な仕事に専念できるように実際的な仕事を免除されることがあるなど、誰も信じてはならない。
カトリック教会は、イエスやその使徒たちの例を見習ってそうしなければならない、と理屈をつけることでしょう。
一体どのような手本があるというのだ? イエスは大工の息子であり、一緒に住んでいる間は、父親の仕事場で働いていた。多忙な使命に取り組むと大工をする時間がなくなったのは事実だが、霊的なことで一度きりともお金を取ったことはないし、養ってほしいと頼んだこともない。
彼の使徒たちも、そんなことはしたことがない。各々が持っている物を提供し、家族や職業上の義務を投げ出した者はおらず、世俗的な仕事と霊性とを両立させていた。注目すべきは、使徒の中に一人としてユダヤ教の司祭がいなかったことだ。当時働いていなかったのは、ユダヤ教の聖職者だけだったのだ。
使徒たちは生存中、教会を組織することも、聖職者を名のることも、扶養してほしいと人に頼んだことも、一度もなかった。ただ質素に暮らし、持っている物を分かち合っていた。
イエスと使徒たちがユダヤ教の僧侶たちにそれほど睨まれたのは、彼らの宣教によって、ユダヤの聖職階層に最も収入をもたらす商売であった、動物の生贄のために寺院に行く人の数が随分減ってしまったからだ。
この場合はカトリックのことですが、教会は何を間違って、創始者たちが行ったことや宣教したこととは裏腹に、ユダヤ教会と同じように成り果ててしまったのでしょうか?
すでに話してあるが、イエスもその使徒たちも、教会など一つとして設立していないし、そうする意図もなかった。そのような機関を創り上げたのは、先駆者たちが伝えてくれたメッセージを悪用した、後からやって来た者たちである。
君もまるで教会に独自の命があるかのような質問の仕方をするが、それを見ても、君たちが宗教機関というものをいかに重要視しているのかが伺える。実際には、教会というものは存在していないのだ。教会独自の意志も良心も存在しないのだから。それゆえ、教会が善を成すこともなければ、悪を成すこともない。それは、ただ、特定の人間によって組織され、運営されている構造上の枠組みに過ぎない。内部の人びとは時代と共に移り変わるが、幸いなことに人の一生は短いので、せいぜい何十年かしか権力にはしがみついていられない。
だから、違う質問をしたらどうか。人間はどうして、霊的な成長に役立てるために授けられた真の霊性のメッセージを、それと正反対のもの、つまり、自分が隷属させられるドグマに変えてしまったのだろうかと、質問してみたらどうか。そのような教義は、人に自己の意志と自由を放棄させ、搾取や狂信、格差を増長している。
教会は、自己のエゴに流されてしまった者たちによって企てられ、組織され、歴史において存続してきた。実のところ、それは、霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎず、徐々にコントロールに成功したのだ。
霊性を求める人びとの潮流によって手放さざるを得なくなった指揮権を力づくで奪い返して、以前の抑圧形態を再度導入したものに過ぎない、とはどういう意味ですか?
つまり、イエスの死後、継承者たちがその教えをあらゆる場所で普及させることに尽力したので、イエスの無条件の愛のメッセージは急激な広がりを見せた。そのうちに、その無条件の愛のメッセージに賛同する人びとの数も、飛躍的に増えていった。イエスの教えは、人間同士の平等や兄弟愛を訴えていたので、それによって自分たちのやり口がバレてしまうと思った時の権力者たちは脅威を感じ、幾人ものローマ皇帝が大規模な迫害を行った。しかし大虐殺にもかかわらず、キリスト教徒と呼ばれることになった人たちの数は、止まることなく増え続けた。そこで、この流れを外圧で撲滅するのが不可能だと見た権力者たちは、内部に浸入することで舵取りをして、進路を変えてやろうと決意したのだ。
この新しい戦略で最も際立つものの中に、コンスタンティヌス帝の治世のものがある。彼は自らキリスト教に改宗したと宣言して、ローマ帝国全体の強制的な改宗を布告したのである。しかし、これによって、すでに時の経過と共に作り変えられていたキリスト教は、それ以後は、より一層改変されてしまった。キリスト教は、もはや貧困者や奴隷の信仰であってはならず、富と権力と相容れるものになる必要があったのだが、実際には違っていたので、丸ごと改造されてしまったのである。
このように、我々は、再び人類の諸悪の根源に行き着くことになる。一番の問題は、人間の利己心なのである。道徳の権威者だと自称したこれらの者は、そういう利己的な魂であり、教会を維持して強大にするのが大事だと人びとに思わせ、神が喜ぶからと、そのために命を捧げたり他者の命を奪うことを奨励したのだ。だがそれは、霊性の面で進化の乏しい人びとの無知、怖れ、狂信だけに支えられる大嘘である。
本当のことを知りなさい。君たちが教会と呼ぶ枠組みは、神にとっても霊的世界にとっても、何の意味もなさない。霊界にとって大切なのは、霊的な生命を有するものだけなのだ。一言で言えば、神にとって意義があるのは人間であり、教会ではない。それゆえ、宗教的または霊的な組織を拡大しようと努めて、人生を無駄にしてはならない。またそこに富を貯えたり、信者の数を増やそうとしてはならない。これらのことは、霊的な視点からは無意味な努力であり、君たちの進化にとっても全く役に立たない。
それよりも、自分たちの心の中のエゴを根絶して、愛の感情を発達させるように努めなさい。それだけが唯一、奮闘する甲斐のあることで、霊的な進化の階段を昇らせてくれるものだ。
けれど、そうならないように回避できたであろう特定のエゴがありますか? つまり、具体的にはどのような事柄が、教会のような機関を創るのに貢献してしまったエゴ的な行為と見なせるのでしょうか?
一番の問題は、イエスが宣教した霊的な教えを基盤として、教会や宗教を創り上げてしまったということだ。先にも言った通り、イエスはいかなる教会も創ろうとしたことなどない。そうではなく、ただ人類に、ごく単純な次のメッセージを伝えようとしたのだ。「愛の感情を育み、エゴを排除しなさい。これは、一人ひとりの仕事であり、物理的な組織の設立を一切必要としない」
将来、同じことを繰り返さないで済むように、アドバイスをください。
いかなる旗印の下にも結束しないこと。なぜなら人間というものは、すぐに自分のグループの者とそうでない者とを分け隔てして、仲間を優先し、他の者を差別する傾向にある。信仰や政治に関してであろうと、愛国心であろうとである。これが集団的なエゴの姿なのだ。
霊的な真相を知れば、そのお陰で、人類は皆兄弟であると気づけるようになる。人それぞれにレッテルを貼るのは違いを生み出すだけで、時が経つと、争いや不和の口実として利用されてしまう。
どういう意味かわかりません。
人間はお互いの違いを見出すために信仰を利用してきたので、宗教のために対立してきたし、今でも仲間を殺しあって敵対する羽目になっているということだ。
実のところ、これまでになかった組み合わせは残っていないほどだ。つまり、ユダヤ教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対イスラム教徒、キリスト教徒対ユダヤ教徒といった始末だ。しかも、キリスト教徒の中では、カトリック対プロテスタントとなり、同じイスラムでも、シーア派対スンニ派となる。
不思議なことに、これらの宗教はどれも同一の神を信じており、アブラハムを始祖とし、モーゼを神から民に与える戒律を授かった預言者だとしている。
社会から離れることを試みたり、世間から孤立した共同体を創るのはやめなさい。むしろ、その反対のことをするように。世の中が少しずつ「魂の法則」――特に愛の法則――と調和したものとなるように、社会を変えようと努めるのだ。すべての人には、自由で幸福になる権利があるので、誰からもこの権利を奪ってはならない。世間から離れて閉ざされた共同体を創れば、他の人たちは、君たちが成し遂げた成果の恩恵にあずかれなくなってしまう。
でも俗世間と交われば、協調した行動がとれなくなり、霊的な悪習に染まる危険を冒しはしませんか? 初期キリスト教徒も、またそれ以前にはエッセネ派の人たちも、他の人たちから離れたコミュニティーに集まりませんでしたか?
初期キリスト教徒やエッセネ派の者たちがその時代の町から離れた場所に隠れたのは、度重なる迫害から身を守るためであり、社会から遠ざかりたいわけではなかった。同じ理念を追う人たちの協力を求めるのは何も悪いことではないが、それを口実にして他の人たちと距離を置いてはならないし、同じ考えや信仰を共有しない者を排除するのもよくない。
自分の信念をしっかりと持っている者は、他の人の信念にそう簡単になびくことはない。引きずられるとするなら、それはそれほど確固たるものではなかったということだ。
また、自分と違った信仰や文化を知ることも、決して悪くはない。そうすることによって人間的な幅が広がり、自分自身の考えや信念を形成する上で、さらに多くの情報が得られるからだ。カトリックの信仰者は、カトリック教国に生まれたからそうなっただけだ。また、イスラム教徒の者はイスラム教の国に生まれついたからであり、自分の信仰を自由に選べたわけではない。他に選択肢がなかったのだ。
ですが、物理的な機関を何も創れないとなると、隣人愛のメッセージと矛盾することになりませんか? 教育や医療の現場や困窮者の保護施設などの、物的な支援をするプロジェクトの実現を妨げることになりませんか?
我々がここで問題視する機関の創設とは、それ自体の存続を図ることを主目的とした物質主義的な機関のことで、それを設立することで、権力と富とを肥やそうとするもののことだ。富と権力は、利己的な願望を叶えてくれる特権的な地位を狙う、欲望と野心に満ちた者を引き付け、現状を一層ひどくしてしまうのだ。
寄る辺ない人たちを助けたいのであれば保護センターを創ればいいし、病人を看護したいのであれば病院を創ればよく、子どもたちを教育したいのであれば学校を創ればよいのだ。
大切なのは、単に儀式を執り行ったり聖遺物を貯える機関ではなく、相互扶助に役立つものにすることだ。そうでなければ、人びとの助けとなるべく設立された筈なのに、当初の機能を果たせなくなってしまう。君たちは、あまり利用されていない既存の機関を活用して、社会的な機能を持たせることができるし、まだなければ新しいものを創り上げることで、ここでのアドバイスを実行できる。
私が批判しているのは、物的な手段を利用することではない。それらは、正しく使用されさえすれば、公正で気高い理念である、公共の福利に役立てることができる。そうではなく、これと正反対のこと――つまり、エゴ的な利益を満たすこと――をしようとして、物的な手段を悪用することを非難しているのだ。私欲は、多くの貧しき者の犠牲の上に成り立つ、少数の富める者を生み出す社会格差の元凶となる。
それでは、(教会などで)人のために募金集めをするのもいけませんか?
困っている人のために助けを請うのは、悪いことどころか、その反対だ。貧困者を支援するという善い目的のためにお金が使われるのであれば、それは霊的に気高い行為である。
正しくないのは、仕事をしないで済むように、自分のためにお金を貰おうとすることだ。無意味なことや利己的な目的で、お金をせがむのも正当化できない。そして、それに輪をかけて不当なのは、公正なことを口実としながら、後で利己的な目的にそのお金を使ってしまうことだ。貧困者を救済するために集金しておきながら、それを株に投資してしまうというようなやり方が、これに当たる。
でもふつうは、募金集めをする人は、立派な志でやっていると思っている筈ですよ。ある人にとっては気高い目的でも、別の人にとっては無意味なことがありますが、それをどうやって見分けるのでしょうか? たとえば、信仰の場の建設や老朽化した教会の修復を崇高なことだと思う人がいても、他の人たちには意味がなかったりします。
崇高な趣旨とは、必要としている者を助けることである。社会格差や理不尽な物事を一掃するのに役に立たず、貧困者のためにならないものには、利己的な意図がある。
各人が良心を見つめ、人のために募金を集めてあげる時の自分の動機が何であるのかを内省してみるがよい。そうすれば、自分を突き動かしているものがエゴ的な思いなのかがわかる。他人は欺くことができても、自分の良心を騙すことはできないからだ。
カトリック教会は大金持ちであるので、聖堂の改修や新しい教会の建立のために資金を集める必要などない。もっとも、他の人たちに自分たちの棲み家の請求書を払わせることができれば、大満足であろうが。
他にしてはならないことはありますか?
前に言ったことだよ。霊性を職業にしてはならないということ、つまり、スピリチュアルに関係する活動をして生計を立てようと思ってはならない、ということだ。霊的なことでお金を稼ぐ者は、霊性の助言役としての資格を失い、霊性の商人と成り果てるのだ。
また、財産や経済的な利益を手に入れるためや、人より有利になるためや優遇されるために、霊性を使うべきではない。そうすれば、組織の資金で維持される、宗教的な職業(僧職)階層ができてしまうこともない。そのようなものは、教会の信仰や儀式をしきり、組織を維持する方策として加入者を勧誘すること以外に、何の役目も果たしていない。
私の話は、今日のピラミッド型の不公平な会社構図を例にとれば、理解しやすくなるだろう。
宗教への勧誘が悪いことのようにお話されていますが、矛盾が出てきてしまいました。霊性の知識を自分の人生に役立てることができて、それを他の人たちにも教えてあげたいと願うことが、いけない行為なのでしょうか?
先ほどの勧誘とは、相手の自由意志を尊重せずに、何かを説得したり納得させようとすることを指している。私が問題にしているのは、力づくで信徒を獲得したり、操作や強制をしたりする者たちのことだ。あるいは、特定の信仰に加味することを条件に人を助けたり、全く関心のない者を説得したり、自分の概念や信念を押しつけようとする者たちのことである。このようなことはすべて、相手の自由意志を強要することになる。
他者を愛するということは、相手が必要としていることを助けてあげるということで、その見返りとして、自分の考えや信仰を共有してもらうことを期待してはならない。霊的な知識を広めようとすること自体は、悪いことではない。その反対にそれは善いことで、人が成長し幸せになるために求められることでもある。だが、それを相手の意志に反して行ってはならないのだ。要するに、自分が真実を知っていると信じていても、人に強要してしまえば間違いを犯していることになる。したがって、自分自身の信念を相手にも信じさせようと躍起になって、無理強いしたりプレッシャーをかけたりしてはならない。誰にも、絶対に、自分の信仰を押しつけてはならない。そうではなく、それを自分自身に適用して、愛の感情を発達させてエゴを一掃することで、もっと幸福になるのだ。自分が実際に手本となって示してあげることが、他の人たちにとっては、一番の学びとなるのだ。
では、スピリチュアルな援助を求めて人が来る時は、どのような態度で接するべきでしょうか?
人を助ける時には、自分の信念を受け容れてもらうことや共有してもらうことを引き換え条件としてはならない。心を開いて、彼らが興味を持つことに応じて、分かち合うべきである。さまざまな意見が出るのを認め、自分と違う視点を尊重すべきだ。そして、他の人の視点がより的を射たものであれば、聞く耳を持ち、自分自身のものの見方さえ変えようとしてみるべきだ。
感情的な問題を解決してくれるように頼まれた時は、自分の意見を言う前に、「君の心はどうしたいの?」とその人に質問してみてごらん。我々は思考と感情とを混同してしまうことが多いが、心の声ほど適切に我々を導いてくれるものはないからだ。頭に介入するのはエゴなので、そう尋ねることで、心で思うことと頭で考えることとの区別がつくように手助けしてあげられるのだ。考えが整理できるように、君たちの意見や体験談を話すのはいいが、当人に代わって決断を下したりせずに、それぞれの人生にふさわしいことを自らの価値判断で決めさせてあげなさい。
求められる援助の内容と程度は、人によりけりだ。各人のレベルに合わせて、必要とされ、受け取る気があることだけを与えるまでだ。それと同様に、君たちの能力が及ぶことまでに限られる。君たち自身に、その人の手助けができる準備が整っているかを見てみるのだ。自分がまだ力不足に思えれば、それを認めて、その用意がある人に助けてもらえるように適役を探しなさい。悪気がなくても、知らないことを助言してしまえば、その人を助ける代わりに混乱させてしまうからだ。また助けが必要な人がいても、それを欲しがらなければ、当人の意志を尊重して、アドバイスはしても押しつけないことだ。このような場合には、その人が気を変えるかを、ただ見守るだけしかできない。要は、その人が中に入ってこなくても戸は閉ざさずに、考えを変えた時に一度は断った助けを頼む勇気が出るように、半開きにしておくのだ。
他につけ加える大事なことがありますか?
ああ、自分の信念は権威ある者の価値観で決めずに、自分自身を拠り所としなさい。私が言いたいのは、あの人が言うことだからと特定の人の言葉を重視しないで、伝えられるメッセージの質で判断して、自分自身の価値基準で、それを排除するのか受容するのかを決めなさい、ということだ。そうすれば、真の霊的な教えが、身分の低い人のものであるために過小評価されることもなければ、利己的な内容が、著名人のものであるために持てはやされることもない。
宗教上の権限は、実のところ、権威者の裁断が正しいものだと信者に思い込ませたこと、つまり、地位が上の者の言うことは下位の者の意見よりも価値があると思わせたことによる。最高司祭、あるいは大司教などと呼ばれている法王(教皇)の言葉は、絶対なる真実とされ、霊性に関してはそれ以上の権威を持つ者がいないので、議論の余地もないのである。
このようにして宗教の権威者たちは、彼らの利益にはなるが人間の霊的進化を阻む、利己的な信念を良しとすることに成功した。一方で、霊的には本物であっても、彼らの利得を損なう概念は非難や中傷をされ、葬られてきたのだ。
まだ他にもしてはならないことがありますか?
そうだね、他者のために行うことで、人から認められたいとか、有名になりたいとか、賞賛されたいなどと思わないことだ。そうなれば愛ではなく、自分の虚栄心を肥やすだけだからだ。
では、第三の戒律に移りましょう。これは、「祝日を聖なるものとせよ」でした。
この戒律もまた、改変されてしまっている。申命記の文中では、「土曜日を心に留め、これを聖なる日とせよ。六日間は働いて、すべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」となっていた。
この戒律の意義は、権力者の搾取に対して労働者の権利を認め、その代償に報いるための休日を与えるものであった。当時は奴隷制が頻繁に見られる時代で、支配者は、自由人であろうと奴隷であろうと、働き手に休みを与えずに搾り取る傾向にあった。それゆえ、従僕や荷積みの動物までを含めた全員に、休む権利があると明記する必要があった。それは、すべての搾取に歯止めをかけようとするものだったのだ。つまり、「少なくとも週に一日は休日として、仕事を休むためにとっておきなさい」と言おうとしていた。
教会もまた、この戒律を自分たちの都合のいいように改変するのに、ささやかながら手を貸した。初めは休日を尊重するものだったのに、彼らの都合に合わせて、イエスや聖母や聖人たちを祭る儀式を重視するものに変えてしまったのだ。
つまり、これも、コンスタンティヌス帝以前のローマ帝国の風習を模倣したものであったのだ。聖ヨセフの祝日や聖ヨハネの祝日といった聖人のお祭りやクリスマスでさえ、それぞれが春分の日、夏至、冬至と重なっているが、それは、以前の異教の祭日をキリスト教のお祝いに再編したからなのだ。
第四番目の戒律である「あなたの父と母を敬え」を見てみたいと思いますが、これについてはどういうご意見ですか?
これは、老人を保護するのが目的だった。その時代の社会制度には、高齢者を守るための社会保障制度も、年金もなかったのだよ。当時の統治機関は、困窮者や弱者を守ることなど一切しなかったし、老人を保護しようともしなかった。したがって、老人たちに残された唯一の選択肢は、家族、つまり子どもたちに頼ることであった。子どもたちは大人になると、もう自分たちではやっていけなくなった年寄りを扶養したのだ。
しかし、この戒律もその意味合いにおいて、やはり改ざんされている。というのは、両親を敬い世話をするといった肯定的なことを、親の意に従うのが子どもの義務であることにしてしまったのだ。この掟を盾に取り、子どもたちに対する所有権を得た親の多くは、心置きなく横暴に振舞い、彼らを隷属させた。虐待や侮辱、操縦によって、ほんのいたいけな幼少期から子どもたちの自由意志を侵害して、勝手に結婚相手を決めて不幸な人生に縛り付けるなど、彼らの意を曲げ、その人生をコントロールしたり支配したのだ。しかも、それが神聖なる権利だと思い込んでいた。
よって、宗教色が濃い社会においては、親は子の人生に関して、より一層支配的になっていった。だから子どもが大人になって、しがらみを断ち切るほど強くなると、親などと関わり合いたくもないという事態になる場合が多いのも、驚くに値しない。
その時になると、親たちは「こんなにも色々尽くしてあげたのに、なんて仕打ちだ」と言いながら、子どもらに見捨てられたと嘆くのだが、実際には、自分の蒔いた悪い種を刈り入れているに過ぎない。
それゆえ私は、「父や母を敬う」だけでなく、人を理解し尊敬して慈しむ心は、家族すべてに、つまり、祖父母や、父母や、兄弟や子どもや孫たちにまでも、行き渡らねばならないと言うのだ。その中でも特に子どもたちは一番弱い存在なので、大事にしてあげなければいけない。
小さな子どもたちは、最も傷つきやすく無防備な存在なので、より一層の理解と愛情と尊敬をもって、扱ってあげなければならない。子どもは絶対にたたいたり、辱めてはならない。以前にも子どもに対する愛情については取り上げたと思うが、それはとても大切なことだからだ。
したがって、この戒律に関しては、次のようにより広範な意味で解釈することだ。君たちの人生を取り巻くすべての人たち、特に最も傷つきやすい者である子どもたちに対して、慈愛、尊重、理解を示しなさい。
今度は、五番目の戒律である「汝、殺すなかれ」について話しましょう。
これは、議論の余地がないほど明確だ。この掟は、霊的な世界から授かった時のままの形で保たれてきた。それゆえ、他の解釈はあり得ない。
「殺すなかれ」は殺すなかれであり、命を奪ってはならないということだ。
知っての通り、魂は不死なので、幸いなことに人間が何をしようとも、その不死性を絶やすことはできず、せいぜいできても、肉体の生を中断させるだけだ。だが、肉体での生命は、霊界が魂に授けてくれる贈り物の一つである。肉体を持って生きている期間は、霊的な世界で魂が学んだことを実践してみせる場であり、身体が息をする必要があるのと同じように、魂にとっては欠かせないものだ。そのため生き物には、自己の存在を認識できる前から、自分や同族の命を保つプログラムとなる、生存本能というものがある。
命を奪うことは、その人の進化のチャンスを絶ってしまうことであり、霊的視点からは極めて否定的なことだ。それゆえ、この戒律のように簡潔だが基本的なルールを守れない限り、地球人類が心待ちにする、進化の飛躍を遂げる準備が整ったとは見なせない。
世界のどこを見回しても、人を咎めない刑法というのはあり得ないと思いますけど。
それはそうだが、人間は、死においてでさえも分け隔てをしているようだ。ある命は他の命よりも重要度が高いらしく、多くの場合において、殺人を合法化している。
それは、どういう意味ですか?
平和時にある男が何人もの人を殺すと、連続殺人者ということになり、必ず裁判で有罪とされるだろう。だが、同じ男が戦時に敵側の人たちを殺すと、戦争の英雄となり、政府から勲章を貰うだろう。しかし、この男が敵兵を殺したくないがために軍を離反するとなると、お上に捕らえられて、反逆者の罪を着せられ、処刑にされるかもしれない。
ある指導者が、自国の軍隊に敵国を爆弾で攻撃することを命じたとして、それで何千人もの人が死んだとしても、それは職務を遂行したということになり、死者が軍人であれば「損失」と呼ばれ、市民であれば「付随的損害」と呼ばれる。そして、その国が戦争に勝てば、その指導者は英雄として記憶され、歴史でも名誉ある記録をされて、街路や学校の名前は、彼の名を戴くことになる。また世界の多くの国々には、刑法の中に死刑があり、罪次第では「正義を行う」ためにそれが執り行われている。
以上の結論を言うと、君たちは「殺すなかれ」という戒律を、不当な契約書の末尾に小さい文字で書かれた「殺すに値しない者を殺すなかれ。しかし殺すに値する者を殺せば、じょうできだ」という補足と共に、適用していることになる。そうしておけば、殺されても当然だったという口実を後から探しさえすれば、済むからだ。人殺しをしたりそれを命じる者は皆、そうしてもいい動機があると思い込んでいるものだ。
戦争については、どうお考えですか?
戦争と呼ばれる集団的な殺人や殺戮は、霊的な視点から見れば、最も重い罪の一つである。無数の命が奪われるという理由だけでなく、生き残る者に与える破壊と苦悩には、計り知れないものがある。それゆえ、戦争を煽ってはならないことも、非常に大切な霊的な助言であると伝えておこう。戦争の最高責任者たちは、彼らが与えた損害をすべて修復するまでは、永く辛い償いを耐えねばならない。
でも、たいていの場合、戦争に赴く人は自分がひどいことをしているとは気づかずに、祖国のためとか、自分たちのイデオロギーや宗教的な信仰を守るためなど、いいことをしていると信じ切っていますよ。
それは自分を欺いているか、騙されているのだ。殺人を正当化し得るほどの理念や信仰や祖国など、何一つないからだ。
したがって、「聖戦」というものは存在しない。そんなものは、人間が作り出したものであり、富や権力への野望を正当化するために神を利用して、狂信によって、他の人たちに仲間殺しをさせようとするものだ。
ゆえに、戦争を先導してはならず、戦争に参加してもならない。それを正当化できるものは、何一つとしてないのである。
死罪についてのご意見も聞いておきたいのですが、死刑は、世界の多くの国で、重い罪を裁く妥当な方法とだと考えられています。
死刑は、どんな事情があるにせよ、またいかなる理由があろうとも、霊的な観点からは恥ずべきもので、残虐で恐ろしく、身の毛のよだつ、おぞましいものである。
あろうことか、最も宗教心があり神の信徒だと自認する国々が、犯罪者への罰として死刑を適用するのに一番熱心である。それを我々が、どれほど深く嘆きながら見ていることか。
裁きの代理人たちが、法に背いた者に死刑を課して、罪人と同じレベルになるならば、どの点で殺人者よりも優れていると言えるのだろうか?
より残酷な国家では、軽犯罪に対しても死刑が適用される。中には、霊的に見れば罪に値しないものまでが含まれる。たとえば、そこでは愛してもいない男性との結婚を強いられる女性が大多数なのに、夫に不実であると処刑されてしまう。
一神教を奉じる三大宗教、つまり多数の国の何十億人もの信者が、この「殺すなかれ」が織り込まれた十戒を聖なるものとしている。しかし実際には、どれほどの人たちがこの掟を尊重しているだろうか?最も信心深いと言っている者が、この掟を一番守っていないように見えるではないか。よくあることだが、自分の宗教の儀式や規則をすべて守り、従わない人がいると目くじらを立てる、熱心な信者を自認する者が、実は最も感性に欠け、情け容赦がないのだ。そういう者は、人の生命や苦悩には全くお構いなく、死刑を擁護したり、自国の子どもを軍役に就かせて戦争によって他国の兄弟たちを殺すように煽るのだが、自分たちが神に祝福されていると強く確信している。
神の真の信奉徒でありたい者は、正義の行為に見せかけたこのおぞましい犯罪に、真っ向から反対せねばならない。死刑が正当であると思わせているのは神ではなく、自身のエゴを神の似姿に仕立てあげたい者どもの狂信によって支えられていると知るべきだ。
人殺しをしたり、誰かや大勢の死に対して責任のある人が死んだ後は、どういう運命が待ち受けるのでしょうか?
通常、一部の霊たちの間で「奈落」と呼ばれる、下層アストラル次元の特定の場所に拘留される。そして、自分と同じような犯罪を犯した者たちと共に、犯した罪の大小に応じて、かなり長い間そこに留まることになる。
そのような場所で、犯した犯罪の場面を何度となく再体験させられるが、今度は犠牲者の苦悩をあたかも自分のもののように感じるので、その苦しみは最たるものだ。このような者は、お互いに苦しめ合ったりもするが、復讐に執着する進化の乏しい犠牲者の魂にもさいなまれる。
犯した罪を自覚し後悔する兆候が見えると、より進化した魂によって「奈落」から救い出されて、救助所に運ばれ、回復の手当てを受ける。その後、自分の罪の更正のための準備に取りかかるが、それはまず霊界で始まる。一例を挙げると、自分と同じ状況にいる者たちの救出を手がけたりする。そして、機が熟して物理的な次元に転生すると、罪の償いに捧げる人生を送りながら、それを継続していくのだ。
自殺について話されることはありますか?
自殺は自分自身を殺すことに等しく、霊的には魂の成長の機会を無駄にすることになるので、否定的なことだ。それはまた、試験を欠席してしまうのと同じであるが、今回中断してしまったことは、次の転生で、再び立ち向かわねばならなくなるのだ。
自殺者は霊的な次元で、どういう運命を辿るのですか?
一般的には、混乱した状態で、繰り返し自分が命を絶った瞬間を思い出し、近親者の悲しみを自分のことのように感じるものだ。再体験を繰り返すうちに、自分のとった行動がいかに無意味なものであったかを意識するに至る。自覚して後悔し始めた兆しが見えると、彼らには新しい転生が準備される。それほど時間をおかないで生まれ変わることが多く、中断してしまった人生で越えなければならなかった試練と同じものに直面することになる。
安楽死に関してはどうですか? 治癒の可能性のない病人や末期患者の場合のように、それを擁護できるケースがありますか?
前にも言ったと思うが、生命とは神聖なもので、死が自然にもたらされる前に中断してはならないものだ。苦しみを避けてあげたいという善意からでも、命を打ち切るという行為は、霊的視点からは良くないことだ。
苦境にいる人たちの命を全部終わらせてしまったら、誰もこの世にいなくなってしまう、と気づかないかね? 人が直面する状況はすべて、それが遺伝性の病気であろうと、半身不随であろうと、どれも、その魂を成長させる意味があるのだ。それらは、魂が生まれる前に選んだ試練なのだよ。
寿命の前に命を中断させても、その人は別の機会に戻ってやり残した課題を終わらせる羽目になるので、全く助けとならない。苦痛を味わっている魂は、時折おじけて、命を断って逃げ出したいと思うことがあるが、安楽死によっては、その状況から抜け出すことはできない。
でも末期患者の場合なら、安楽死を正当化できませんか?
死にかけているのなら、死を早めることにどういう意味があるのかい?自然に死なせてあげなさい。
おそらく、苦痛を短くしてあげるためでしょう。くの末期患者が耐え難い痛みを抱えていますから。
ならば、痛みを緩和してあげなさい。だが、命を途絶えさせてはならない。
では、永く昏睡状態にある場合はどうですか? その場合には安楽死を弁明できますか?
いや、その場合でも擁護できない。人が肉体生を終え、この世を去らなければならない時には、霊界から助けが来て、なるべく早く身体から離脱できるようにしてくれる。でも肉体にまだ生命が宿っているのなら、その人生にまだ意味がある、ということだ。なぜなら、寿命が来て魂が肉体を脱ぐ瞬間が訪れたら、君たちが何をしようとも、その人の旅立ちを避けることはできないからだ。
中絶について話しておかれることはありますか?
このことについては前作で深く取り上げているので、ここで繰り返すのはやめておこう。犠牲となる胎児の顔を見ることもなく、その苦しみがわからないとしても、妊娠中絶が殺人であることに変わりはない。空襲を命じる者たちは犠牲者の顔を知らないが、それでその罪が軽くなるわけでないのと同じことだ。
胎児に宿った魂は、拷問されて殺される人と同じくらい苦しむのだ。そんな苦しみを与えずに済めば、自分自身の子どもの死刑執行人となって、苦悩することもない。
生命を尊重するのだ。生命は、進化のために与えられた非常に貴い天の恵みである。殺人、戦争、死刑、自殺、安楽死、中絶といった、どのような形であろうと、またいかなる理由があろうと、絶対に命を絶ってはならない。そうすれば、自分自身のためにも、他の人のためにも、多くの苦悩を回避できる。
第六番目の戒律は、「不純な行為をしてはならない」です。
これも、時代と共に変化してきた戒律だ。カトリックやキリスト教の申命記の訳では、「姦淫してはならない」とある。
どちらが正しいものなのですか?
どちらも正しくはない。申命記に記載されているヘブライ語の十戒を見てみれば、この戒律の最初の訳は「姦淫してはならない」ではなく、「売春してはならない」であると気づくだろうが、それは「望まない性行為を誰にも強いてはならない」というに等しい。
取り決め婚も、この戒律の及ぶ範囲だ。伴侶の一方に――通常は女性になるが望まない性関係を持つことを義務付けるからだ。つまりこの戒律は、婚姻関係があろうがなかろうが人に望まない性行為を強いてはならない、という意味である。
この時代の女性や子どもの権利(特に子どもの)は無に等しく、彼らは、家畜に毛が生えたも同然の扱いを受けていた。
女性は、特に最下層に属していれば、いたいけな幼少期から商品とされ、奴隷や娼婦として売買されて、お金を払うことができた者たちの低俗な本能をみたす道具とされた。女性が誘拐されたり強姦されることなど、日常茶飯事だった。戦時には、たびたび戦利品とされて、兵士に強姦されたあげく、娼婦や奴隷にさせられた。
取り決め婚も日常的で、家族でさえも自分たちの娘をお金や権力がある人と結婚させることができると、いい取引をしたと思っていた。親の利益のために、少女が大人や老人と結婚させられたり、男児と女児同士の結婚も頻繁であった。子どもたちがまだ小さい頃や生まれる以前に、親同士の決断で婚姻が取り決められていたので、結婚の90%以上には、弱い方の伴侶の意志が反映されていなかったと言える。
権力者や野心家は、より一層の富や権力を貯えるためや領地拡大の手段として、あるいは単なる気紛れから好き勝手な人を性的に所有できるように、婚姻を利用した。一夫多妻はふつうのことで、富と権力の象徴であり、良いことと思われていた。
これほどまでの搾取と屈辱を忍従させられていた、女性や少女たちの苦しみを想像してみてほしい。この戒律は、そのような搾取のすべてに歯止めをかけようとしたものだ。それなのに、ここでもまた人間のエゴが、犠牲者を刑吏に、刑吏を犠牲者にすり変えてしまった。なぜなら、すぐに罰せられるのは売春を強いられた女性たちとなり、売春を担ってこの掟に背いた、娼婦斡旋者、レイプ犯、強引に夫となった者、あるいは娘を売って商売した親などは、お咎めなしとなったのだ。
この戒律を変えようとした動機は何でしょう? つまり、いつ、どうして、「売春してはならない」が「姦淫してはならない」になったのでしょうか。
権力者が堂々とレイプや売春をしていれば、「売春してはならない」という戒律に違反していることが明白になる。政略結婚も一夫多妻制度も、代わりに妻や妾たちを扶養しなければならなかったものの、権力者にだけ許される人目を欺く売春や強姦の一種であった。実際のところ、この慣習はモーゼが生まれるずっと以前から、広く行き渡っていたのである。
モーゼはそのような搾取の実態を知り、大変な憤りを覚えたので、聖なる助言を拠り所にして、その廃止を法令化しようとした。彼の生存中は、最も目にあまる乱用行為を止めることができたが、彼の死後は、支配者たちが彼らの都合のいいように、この戒律を解釈し始めたのだ。だが、戒律自体を変えてしまう度胸はなかったので、元の意味が曖昧になる新たな法律を発案して、それを付け足した。
始めに、政略結婚や一夫多妻制や妾を囲うことが神の意に叶うことだというイメージ作りをし、結婚はそれ自体が聖なる制度であるとした。次に、不用となった妻たちの扶養義務から逃れるために離縁制度を考案し、この戒律自体の解釈を変え、売春していたのだと告発して、離婚を女性のせいにした。
中には本当に、恋愛感情を抱く別の男性と性関係のある女性もいたが、それは、無理やり権力者の妻にされていたために、公にその人とつき合うことがならず、人目を忍ぶ恋をしていたからである。また他の女性たちは、離縁によって社会から完全に閉め出されてしまい、身売りをして生き延びるしか術がなく、虚偽の罪状を現実のものとして認める羽目になってしまったのだった。
カトリック教会はさらに大胆で、最終的にこの戒律を改ざんしてしまい、配偶者を選ぶ自由は無視して、婚姻制度を最も重要なものとした。のちの時代の権力者たちも、エゴを満たす武器として政略結婚を利用し続けており、それを放棄する気がなかったからである。
そのために不義密通という概念を導入し、掟の再定義に利用したので、この戒律は「姦淫してはならない」に変わり、婚外交渉を持つ配偶者を罰することが可能になった。だが、カトリック教の社会もユダヤ教のように男尊女卑が根強いので、実際に姦淫罪で有罪とされたのは女性だけで、男性は咎められることなく依然として二重生活を送っていた。
お話にもかかわらず、最も信仰心の篤いとされる社会では、今でも取り決め婚は正常で神が喜ぶと見なされている、一般的な習慣です。これについて話されたいことはありますか?
取り決め婚は、外見上「潔白」に見せかけているが、実は制度化された蹂躙形態である。この点に関して疑義が生じないように補足をすると、取り決め婚は、自分が選んでもいない相手と暮らして性関係を持つことを強要されるので、霊的な観点からは、自由意志の甚だしい侵害であり、人の感情を極度に屈折させるものである。
しかも、言うことを聞かなければ神の計画に背く不純で汚い人だと思い込まされるなど、脅迫や恐喝の限りを尽くして隷従から逃れられないようにされるので、「神の名を、利己的な目的に使ってはならない」という掟にも違反することになる。
それでは、不義密通は霊的に見て悪いことなのですか、どうなのですか?
この件については、パートナーとの関係について話した時に幅広く扱ったが、霊的な次元では、自分の感情に誠実であるか否かが唯一の問題だと言った筈だ。それが、幸せへの鍵であるからだ。夫婦にお互いに男女の愛情があれば、自然に忠誠心が湧いてくるものであり、その無理強いはできない。
世間のしきたりは、ここでは問題でないのだ。無理やり夫婦にされれば、強要された伴侶とセックスすることを嫌悪して、間違いなく大反発するだろうし、自分で選んだ人と交際して性関係を持ちたいと願うに決まっている。また、自分で決めた関係であっても、愛情がないならば不満を覚え、性欲が減退しセックスを拒否するかもしれず、別の関係において満たされない思いを埋めようとするだろう。
このようなケースでは、不義または密通と呼ばれるものは、夫婦間に男女の愛がないことを反映している。そのような夫婦は、我慢しているか、愛のない関係を強いられているかで、家庭の中に見出せない愛を外に求めているのだ。
ラテン語源学上では、「不義密通」という言葉[adulterio]は、物の品質や純正さを異物を混ぜて変化させてしまうことや、真実を偽ったり改ざんすることを指す「偽造する」という語[adulterar]から派生している。
これらの意味を知ることで、不義密通という言葉の霊的な定義がわかりやすくなる。不純な関係とは、二人が外見的には愛情があるふりをして一緒になっておきながら、本当はそうでない場合である。つまり、愛のないカップルの結びつきは、演出された偽ものであり純粋ではない、ということだ。
パートナーとの関係が相互の愛の感情と類似性に基づいていれば、霊的な定義においても現世的な意味においても、不義密通は存在しなくなる。愛する者と一緒にいれば、性関係も真に満たされたものとなるので、性欲を満たすために別の関係を求めようとしなくなるからだ。
だが、これが実現するためには、感情においての自由がなければならない。よって、人間がこのことを理解できるまでに進歩した今日においては、この「売春してはならない」という戒律は、「感情の自由を尊重せよ」に置き換えられると言っておきたい。別の言い方をすると、すべての人は、誰とカップルになりたいか、またはなりたくないかを、性的な関係を持つことも含めて、自由に選ぶ権利があり、何者もこの権利を侵してはならないということだ。それゆえ、誰も、望まない相手と一緒になることを強要されはしないし、嫌な関係をずっと続けるように強いられることもない。
教会で褒め称えられている婚姻非解消主義はどういう位置づけとなりますか?
前にも言っただろうに。署名入りの結婚契約書の有無にかかわらず、確固とした愛情がある場合には、夫婦の関係は自然に続いていくのだ。継続を強制することは、自由意志の侵害になってしまうので、してはならない。
婚姻の不解消は神聖な法律ではなく、人間が考案したもので、モーゼもイエスも関係ない。事実、これは、イエスが地上にやって来てから千年以上も経って、導入された規則である。歴史を復習してみるがいい。キリスト教徒のローマ皇帝が支配していた間はずっと、離婚は合法であった。キリスト教徒の皇帝の時代の民法では、離婚後に再婚することを認めていたのだ。ローマ帝国が解体して誕生した国家も全部が、離婚を有効としていた。
キリスト教国家で婚姻非解消主義を推進したのは、法王(教皇)グレゴリウス9世(在位:1227-1241)である。彼は、当時の皇帝や王族と敵対していたために、彼らが頻繁に妻を取り替えているのを見て、法令を出したのだ。
それでは、離婚しても天の法則に違反することにならないのですか?
もちろんだ。その反対に、自由意志の行使と感情における自由を選択できるので、良いことだ。先にも言ったが、望まない関係を続けるように強要される者は一人もいない。それに霊界は、人間の自由意志や感情の自由の妨害などしやしない。
離婚が増えているのは、夫婦間の愛情が減ってきているからだと解釈する人がいますが、そうなのでしょうか?
いや、そうではなく、もっと自由に関係を切れるようになったということで、満たされない関係を終わらせることに、心の咎めを感じなくなったことの反映である。
以前の方が離婚が少なかったとしても、関係が良好であったからでも、もっと愛があったからでもない。そうではなく、法律で離婚が認められていなかったためか、合法であっても抑圧的な教育を受けたせいで、多くの人たちが、愛がなくてもその関係を継続させねばならないと感じていたからである。
「売春してはいけない」という戒律の話のついでに、霊的な視点からは売春をどう見ているのか、ご意見いただけますか?
売春は、感情の発達の成長が乏しいことを反映している。進化した魂ならば、愛のない性関係など理解できない。また、二人の合意がない場合は、なおのこと受け容れがたい。
売春で性欲を満たそうとする者は、感情が貧しく、愛の感情や感受性よりも本能に支配されている。
でも売春はどのように法令化すればいいのでしょうか?合法化すべきでしょうか、禁止するべきでしょうか?
未成年が関係するものは、全部禁止すべきである。斡旋業者も客も――このケースでは小児性愛者になるが――追及されるべきで、未成年者は二度とそのような搾取をされないように保護されなければならない。
成人の売春に関しては、強制されたものを禁ずるべきである。つまり、売春をする者が、そうするように何らかの方法で、強要されたり圧力をかけられる場合である。これは自由意志の侵害となるので、司法は売春を強いた者を追及すべきであるが、強制的に身売りさせられていることを客が知っていた場合は、客も同様に処罰されるべきである。そして、身売りさせられていた者がそれ以上の痛手を受けないように、保護してあげなくてはならない。
誰も経済的な理由から売春をせずに済むように、政府も、経済的な糧のない人たちを支えようとすべきである。他の選択肢がなくどうしようもないので、自分や家族の食い扶持を稼ぐための最終手段として売春に訴える者がいるが、そういう売春では、社会そのものが共犯者なのだ。
しかし、家族を扶養する必要もなく、充分な自己決定能力がある人が、自発的に身体を売ることを自分自身で決意した場合には、それを禁ずることはできない。このような決断自体が、当人の内面の乏しさを映し出しているとはいえ、その人は自分の意志でそうするのであり、客がそれを強要して犯罪に加担したわけでもないので、この場合は自由意志の侵害の対象とはならない。
また、売春を完全に禁止しても、かなり原始的な性本能を満たす需要が多く、自由意志を尊重できない君たちの世界の現状では、それを根絶することはできないとつけ加えておこう。むしろ、その結果、強姦や性的虐待のケースが増えて、売春も秘密裡に行われることだろう。よく考えてみれば、君たちの社会で自ら売春に従事する人たちは、多くの強姦や性的虐待を防いでくれている。それがなければ力づくで性欲を満たそうとする、進化の遅れた大勢の魂の低級な本能を、自分から進んで満たしてくれているからだ。
それゆえ、君たちの世界では、強制的には売春を排除できないだろう。そうすることによってではなく、人類が感性を充分に発達させて、性欲が生物的な本能を満たすものから、男女の愛の想いを表現するものに変わった時に、売春は自然となくなるだろう。そして、これを達成するためには、人間が感情と性的な面で、自由を獲得していることが外せない。そうなれば、性的な関係も自然なものになり、それが商売や搾取の目的に使われることもなくなるのだ。
次の戒律は、「盗んではならない」です。
そう、人は通常、盗むということを、誰かからその人に属する物的な所有物を無断で取り上げる行為である、窃盗のことだと考える。そのため、スリや、銀行や宝石店などの店舗を襲う強盗などのことを泥棒だと見なしている。
しかし、労働者にまっとうな賃金を払わずに私腹を肥やす者や、ペテン、詐欺恐喝などを用いて、人の損害、苦しみ、欠乏などの犠牲の上に権力や富を貯える者は、司法によってその罪が暴かれることがなくても、実は最たる泥棒なのだと言っておこう。
したがって、「盗んではならない」という第7戒律は、「偽りの証言をしたり嘘をついてはならない」という第8戒と「人の財産を欲してはならない」という第10戒と共にまとめられる。このどれもに、自己のエゴを満たすために人に損害を与えるという意図があるからだ。そう考えてみると、これらの三つの戒律を一本化して、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という助言にすることができる。
最も物的なエゴの形態は、強欲、貪欲、野心である。これらのエゴは、他の人に及ぼす弊害には目もくれずに、自己の富と権力の貯財に夢中にさせる主犯である。だが、人間関係のテーマで扱った、執着、嫉妬心、憎悪、憤怒、独占欲、恨み、無念などのエゴ的感情のように、物質主義的ではない他のエゴの形態も、他者を傷つけるものだ。
他の人に損害を与えずにお金持ちになった場合でも、霊的な負債を背負ったり、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という最大律を侵してしまうことになりますか?
掟を破ってはいないが、進化した魂ならば、富を欲することもないし、金持ちになろうと時間や労力を無駄遣いすることもないので、大きな進歩を遂げてはいない。進化した魂は、そのような状況には全く惹かれないのだ。
人に直接的な損害を与えなくても、自由になる物的な富と権力を隣人の支援には使わずに、自分の物欲を満たすためだけに使うなら、成せたであろう多くの善を施せなかったことになるので、他者を助ける好機を無駄にして、自分自身も愛において進歩するチャンスを逃したことになる。ある魂が、公益に役立てるように物的な富を望みながら転生しても、生まれた後でそれを自分のエゴのために使ってしまえば、そのミッションは失敗なのだ。
いずれにせよ、君たちの世界では、財産を相続するとか宝くじに当たるとかでもしない限り、誰にも損害を与えずに金持ちになることは難しい。君たちの経済や商業のやり方は、最も強い者の理論に支配されているので、そのような好戦的なシステムにおいては、それに毒されずに、善人が成功するのは至難の業だ。
明確に言うと、どういうことでしょうか?
君たちが資本主義と呼ぶ、地上に君臨する経済システムは、人間のエゴから生まれた制度であり、この戒律とは始終一貫して矛盾しているということだ。なぜなら、それは人間の権利を全く考慮することなく、止めの効かない法外な富の蓄積を追い求め、それを認めているからである。
僕は経済のことはよくわかりませんが、マクロ経済の指標が多過ぎて、国際経済を推進しているのを理解することは、とても困難な気がします。多くの格差や不正、貧困が蔓延していて、それが益々ひどくなっているように見えますし、今日のような経済危機の時代にはそれが悪化しています。この現状では、人類のより良い未来を垣間見ることは難しく思えますが、どうしたらいいのかもわかりません。
本当は見かけよりもシンプルだ。全体がとても複雑で、物事がそうなっているのは誰のせいでもないと思わせているのは、君たちに解決策がわからないようにして、責任者を追及できないようにするためだ。
現在の世界の経済システムは、ピラミッド型組織の大企業のようだ。それは、利子が増大してゆく巧妙な貸付制度に基づいており、利潤を得る仲買人の手を経るたびに利子が増える仕組みになっている。そして、一番最後に貸付をせずにお金を借りるだけの者は、借金とその利子とを自分自身の仕事と生産品で返さねばならないので、押しつぶされることになる。このような人が、ピラミッドの底辺にいる大多数なのだが、このシステムは彼らの労力で維持されている。
残りの者は、何であろうと安く買って高く売ることで儲ける投機市場を創り上げ、高利貸しと投機で生きている。ここで売買される商品の中には、農産物、畜産物、海産物、鉱物や工業製品のような現物もあるが、他のものは株式、証券、投資信託など、「金融商品」と呼ばれる架空の産物である。実際には、現状の物事はごく単純である。少数の者が貨幣を造幣する権利を独占してしまっているのだ。つまり、お金を造る機械を持っている、ということだ。ただ同然でお金を生み出すことができ、他の人たちにはそれに利子をつけて貸し出しているので、皆が彼らに借金を負ってしまう。
彼らは、安く買い占めて高く売りさばく特権的な情報を常に持っているので、自分たちが創り上げた市場を操作して、皆を思惑通りに動かすことが、このシステムでは可能なのだ。
このことは、経済危機と関係しますか?
その通り。経済危機というものは、偶然に起こるものではなく、ピラミッドの頂点から誘発されるものだ。手始めに、多くの人の借金が増えるように、低利子でお金を貸してあげるのだ。ピラミッドの下層にいる人たちには、数段階の仲買人を経た後に、より高利でこの貸付金が回ってくるが、このお金を使って商売をしたり財産を購入したりするので、経済が活性化して消費が増える。これがいわゆる好景気に当たる。この時期は、表面的には裕福であるが、すべてが借金で成り立っていて、それに利子をつけて返済しなければならないので、うわべだけのことである。
上層部の漁師たちは、沢山の魚が餌に食らいついた――つまり、多くの人が借金を背負ったのを見届けると、釣り糸を引き上げて、獲物を収穫する。これは、ある時期に財布のひもを締めて、貸付金の流れを止めてしまうという意味だ。すると、市場の資金が不足する。人びとが借り入れをするためには、ずっと高い利子を支払わねばならなくなり、それまでに許与されていた貸付金の利子も高額になる。
何もかもが、経済活動の妨げとなる。負債者は借金を返済できなくなり、財産を没収されてしまう。国民の生活レベルは顕著に悪化するが、一方で、その間に生み出される儲けはこのシステムを牛耳る者たちの手に渡る。こうして金持ちは益々金持ちになり、貧乏人はより貧乏になる。経済危機はこのようにして起こるのである。
これには一体、どういう解決策があるのでしょう?
解決策は簡単なものだ。各人が自分の置かれた立場で、エゴを、つまり貪欲と強欲とを放棄し、分かち合うように努めるのだ。他者を自分自身のように見て、その人の幸福も自分のもののように気にかけてあげることだ。皆がこの一歩を踏み出すならば、世界は瞬く間に変わるだろう。
現状の経済システムが保たれているのは、人間の強欲や貪欲、野心がふんだんで、愛や寛容が乏しいからだ。ほとんどの人が分かち合おうとしない。多くを所有する者は、自分が持っているもので満足しない。自分の豊かさを持たざる者と分かち合おうとはせず、他の人びとを犠牲にしてでも、それ以上のお金と権力とを、さらに手に入れることを目指す。また、大勢の持たざる者たちも、上層階級の者のように、成功して金持ちや権力者になりたいと望むので、彼らが持てる者の立場になれたとしても、同じことをしてしまう。
それゆえ、上部の者たちを入れ替えるだけでは、不充分である。我々全員が本当は霊的な存在で、同じ霊的進化の道を歩む仲間であり、愛を体得して幸せになるという目標を共有し、そのために互いを必要とし合っていると認識できるような、人類全体に及ぶ集合的な意識改革が起こらなければならない。
富を溜め込んでも幸福になる役には立たないが、生きるために必要な物がなければ苦しむことになる、と気づくことが肝心だ。こうして、豊かにある物を分け合えば誰も損はしないし、皆が恩恵を受け取ることになる。だが繰り返しになるが、そのためには富の蓄積を放棄し、分かち合おうとしなければならない。
素晴らしい展望ですが、まるで夢物語です。もっと具体的な対策があるべきだと思います。
対策の処方箋を望んでいるとしても、そんなものは存在しない。エゴを放棄して分かち合いで兄弟愛に努めようとする、人間の意志と善意次第だからだ。そういう協力精神がない限り、すべての努力は水の泡だ。愛に基づく社会変革を実現したいと大多数の人たちが願い、それが根付くように精力的に協力してくれねばならない。強制によってや、全般的な協調がない場合は、何も成し得ないからだ。
指導者には、霊的に高度の許容力を持つ人たちを選ぶ必要がある。愛に満ち、謙虚で、寛大で、貪欲・強欲・野心を一切持たず、状況を把握していて、公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進する方策を採る用意がある人たちだ。そういう人たちならば、その場その場で、するべきことがわかるであろう。
大至急すべきことの一つに、高利貸しと投機で成り立つこの経済システムを解体し、利己的な手口が世界に再臨しないように見張って防いでくれる、正義感のある公平な法を制定することがある。したがって、「エゴに突き動かされて、他者に損害を与えてはならない」という戒律は、「公共の益・社会の正義・富の公平分配を促進せよ」で補完されることになる。
今一度に三つの戒律を分析してみたので、残りは「不純な考えや願望を抱いてはならない」のみになりました。これについてはどうですか?
そんな戒律は存在していない。申命記にすら記載されておらず、後世の発明品である。プロテスタントのキリスト教会にも見られない。エゴなく行動するのも難しい人間に、エゴ的な考えも持たないように要求すること自体が望み過ぎというものだろう。
しかも「不純」とされるのは、おそらく、教会の法規で許容外である――つまり婚姻関係以外の――性的な願望を指すのだろうが、この定義もかなり曖昧である。この戒律は、感情と思考や性における自由を抑圧しようとした人間が創り上げたものなのだ。
三つの戒律を一つにまとめたり、一つを除いてしまったので、十戒が七つになってしまいました。
一体誰が十個でなければならないと言ったのだね? だが構わなければ、とても重要で配慮すべきに思える助言が私にはあと三つほどある。
どのようなものですか?
「自由意志を尊重せよ」、「霊的裁きの法則を尊重せよ」、「個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ」である。もめごとを平和に解決するには、個人レベルでも集団レベルでも公正であり、他者の自由意志を尊重しなければならないので、この三つの助言はお互いに深く関連している。
それぞれの意味がはっきりするように、もう少し深く取り上げてくださいますか?
「自由意志の法則」と「霊的裁きの法則」がどういうものかを説明した時に話してはいるが、もう一度見てみよう。
「自由意志を尊重せよ」は、他の人たちの自由を尊ぶことである。つまり、その人たちの意志、意見、信仰、感情や人生における決断を尊重するということだ。感情における自由も、自由意志の一部に過ぎない。人は誰にも属さないので、誰にも他者の意志を奪う権利はないし、他者に代わって決断することもできない。
「霊的裁きの法則を尊重せよ」は、他の人たちに、自分にしてほしいことをしてあげることであり、自分にしてほしくないことはしないことである。なぜなら、実際のところ、他者にすることはすべて自分自身にすることになるからだ。そしてこのことは、個人レベルにおいても集団レベルにおいても、守られねばならない。
個人レベルのことはわかりますが、集団レベルとはどういうことですか?
人類全体が和合して共存するためには、正義と自由意志を尊重してそれを実践して見せねばならず、社会機能や統治形態、さらに法律、経済、教育、文化などに反映させないといけない。理論上では、正義と自由の原則が法令化されている国々においても、実際にはそれはエゴによって反故にされ、ただの紙切れに成り果ててしまっている。
例を挙げてくださいますか?
歴然とした奴隷制度はどの国においても不法とされているが、事実上は全人類が、搾取と虐待とを黙認して助長する経済・政治システムの下に統治されていて、奴隷制なのかと見間違えるほどだ。多くの国が外見的には民主主義であるが、実はその内に、国民に奉仕するふりをしながら逆に利用して、利己的な目的を果たそうとする政府が潜んでいる。平和を希求するふりをしながら戦争を推し進め、他の選択肢を探そうともしないくせに、それが唯一の紛争解決の手段であると思わせる。他の方法を模索しないのは、エゴ、野心、貪欲に目が眩んで、代償を顧みずに突き進もうとするからだ。
だが、その気になって他の人たちを尊重して理解しようと努め、自分の利己的な行為を放棄する心構えを持てば、常に代替策はあるものだ。だから、「個人的または集団的な争いごとを平和に解決せよ」という助言を頭に置いておけば、君たち自身や他の人たちのために、多くの苦しみを回避してあげられる。絶対に、暴力、脅迫、恐喝に訴えてはいけない。また、自分に理があると思っている場合でも、自分の意志を他者に押しつけてはならない。
ちょっと疑問が出てきてしまいました。万が一、襲われたり、虐待されたり、脅迫されるなど、一言で言うと、自分の自由意志が他者に脅かされるような事態になった場合には、争いを避けるためにその暴力を許容すべきでしょうか、それとも防衛する権利があるのでしょうか?
もちろん防衛する権利がある。身を守る権利があるだけではなく、そうせねばならない。他の人たちの自由を尊重するのと同じように、自分自身の自由も守らねばならないからだ。
争いを避けるというのは、一番強い者の意志に屈することではなく、暴力を避けつつ解決する、という意味だ。もっとも、相手のレベルまで身を落とす必要もない。
この点が明らかになるような例がありますか?
夫から虐待を受ける女性がいるとするなら、どんな事情であろうと絶対に我慢するべきではないが、これは、相手と同じレベルになって暴力を仕返すという意味ではない。加害者から離れてDVを告発し、正義の裁きに委ねるのが理にかなっているだろう。
でもそうしたら、加害者はきっと怒り狂って、暴力をエスカレートさせて、争いもさらに激しくなるかもしれません。そうなると、平和に争いごとを解決するという助言に反してしまいますが、これについてはどうでしょう。
暴力は被害者の態度からではなく、思い通りにすることができない加害者によって生み出されているのであるから、ここで平和に紛争を解決するという助言を適用すべきなのは加害者であり、被害者ではない。平和主義であるのと従順になることを勘違いしないでほしい。両者は違うものだ。ここでは平和主義者になることを勧めてはいるが、従順になるように言ってはいないのだ。
両者の違いがわかるためには、兵役が義務付けられている国でそれを拒む平和主義者がいい例となる。こういう人は、ふつう不従順だとされないかね?つまり平和主義者とは、暴力に対して不従順な人であり、確固たる信念を持って首尾一貫した行動をとる人なのだ。そのような人は、自分の良心が正しくないと思うことを強制されて行うことはないので、自己の自由意志が侵害されないように闘っていることになる。
集団的にも、たとえばある国が他国から侵略されたとしたら、防衛する権利がありますよね?
防衛権はあるが、それは常に平和的な解決策が尽きてからだ。
ガンジーの例を見てみれば、平和主義者と従順な者との違いが理解できるだろう。彼はまた、暴力に訴えなくても、崇高で公正な理念に対する信念と堅固な意志さえあれば、大きなことが成し遂げられることを証明してくれている。
大概の戦争や武力抗争は一朝一夕に起こるものではないし、それを引き起こしたいと思う人たちも少数派である。武力衝突の背後には一般的に、少数の者たちの利己的な関心――つまりある物を独占したいという野望――があり、人びとを騙して汚い仕事をさせるのである。好戦的な野心家どもを指導者の地位から追放すれば、すべての戦争や暴力的な紛争が回避できることだろう。
でも、ガンジーが成し遂げられたことは例外だと思うのです。たいてい、いつも強者が弱者を服従させます。それにそういう方法でも、多くの犠牲者が出ました。
戦争になっていたら、もっと多くの犠牲者が出ていたであろう。しかも君の言う通りであっても、人生の意味は政治的な闘争にあるのではなく、霊的進化にあるのだ。
それに、ある国が他国を不当に侵略していると君たちが思い、結局は強者が弱者を支配するのだとの結論に至ったとしても、今日の被侵略者が昨日の侵略者であるかもしれず、過去に自分がやったことを経験している可能性もあるのだ。人類の歴史を振り返れば、民族間の闘争は途切れることなく続けられてきたが、時代によって、抑圧者と被抑圧者の立場は入れ替わってきた。抑圧された民族は、ごくたやすく抑圧者となる。以前そうでなかったのは、抑圧者になりたくなかったわけではなく、単になれなかっただけだからである。
そしてこれは、全民族、全人種に、野心と貪欲や強欲に満ち溢れた非常に原始的なエゴを持った魂が転生していたからであり、誰が一番富と権力を掌握できるかと互いに争い合っていたからである。これまで人類を互いに争い合うように駆り立ててきたもの、そして現在においても駆り立てているものは、野心、貪欲、強欲、そして狂信である。だが、どれほど強大な帝国であったとしても、どれも、時の流れと共に崩壊してしまった。愛の基盤がないものは短命なのだ。
以上のことから学びとるべきことは、野心と貪欲や強欲の姿を借りたエゴは多大な苦しみを生み出すが、誰もその苦しみを味わいたくはないので、各自が心の中からエゴを排除すべきであるということだ。この教訓を身につけたあかつきには、国家、民族、人種、宗教の間で、再び争いが起こることはないであろう。いかなる動機であろうと兄弟を傷つけることを正当化できはしないし、そうすれば自分自身を傷つけることになると、転生する魂には、はっきりわかっているからだ。
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愛の法則 Part9【イエスの地上での使命 その2】
愛の法則 Part1【プロローグ】
愛の法則 Part2【愛の法則】
愛の法則 Part3【愛の法則から見たパートナーとの関係】
愛の法則 Part4【愛の法則から見たカップルにおける不実】
愛の法則 Part5【パートナーとの関係におけるエゴ的感情】
愛の法則 Part6【愛の法則から見た子どもとの関係】
愛の法則 Part7【愛の法則から見た隣人愛】
愛の法則 Part8【愛の法則から見た十戒】
愛の法則 Part9【イエスの地上での使命 その2】
愛の法則 Part10【おわりに】
愛の法則 Part11【あとがき】