愛の法則 Part5【パートナーとの関係におけるエゴ的感情】
愛の法則から見た子どもとの関係
人類が霊的にもっと速く進歩できるように、社会レベルで適用できる方策がありますか?
ああ、子どもたちを愛し、肉体的にも精神的にも傷つけないように気をつけることだ。絶対に彼らに、屈辱的な思いをさせてはならない。霊的な観点からは、幼児への虐待は、最も重い犯罪の一つであると忠告しておこう。
子どもたちが自由でいられるようにしてあげなさい。思い思いの気持ちを表現でき、好きに遊べて、遊びながら学べるように。
愛されて育てられる世代の子どもたちがいれば、君たちの世界は急速に変化するだろう。愛には世の中を変える力があるのだ。君たちには世界を変えられなくても、愛を知ることができた次の世代が変えてくれるだろう。
どうやって子どもと接すればよいのかがわかる、助言がありますか?
君たちは、子どもであったことがないのかい? 彼らの身になって考えてごらん。君たちが子どもだった頃の、良いこと、悪いことを思い出してみるのだ。人からされて嫌だったことを思い出したら、それを繰り返さないようにして、良かったことは手本とすればよい。
私は、肉体的な危害だけではなく、精神的な嫌がらせも問題としている。認める人はほとんどいないが、君たちの世界には、自分自身の子もさることながら、子どもたちを精神的にいじめる人たちが沢山いるのだ。
彼らは、自分自身の問題にどっぷりと浸かったまま、子どもたちを傷つけていることに気づく感受性のかけらも持ち合わせていない。子どもは所詮子どもであり、大人と同じようには物事が理解できないためにもっと鈍感であると考えて、何の配慮もせずに接して、自分たちのフラストレーションをぶつけている。
しかしながら、それは全く違うのだ。子どもたちは、大人よりも肉体的・感情的に敏感で傷つきやすいので、できる限り丁寧に、愛情深く扱ってあげることに重点を置くべきである。子どもたちそのまま丸ごと受け容れ、愛してあげなさい。
条件付きで、子どもを愛してはならない。自分の子どもを自慢するだけに利用する人は、子どもを愛してはいないのだ。その子が他の子とくらべて何らかの能力に秀でていると、頭がいいと鼻を高くするくせに、能力がなければ過小評価をするので、子どもの自尊心に甚大な影響を及ぼしてしまう。
自分の子どもを本当に愛する者は、顔が可愛かろうとなかろうと、頭が良かろうが悪かろうが、積極的であろうがなかろうが、その子をあるがままに愛するものである。
子どもを教育するには体罰が必要だ、という意見の人もいます。これについてはどうでしょう?
それなら、その人たちは、仕事の出来がまずかったと上司に見なされれば、時々たたかれても構わないのだろうね。
本当は、そうされたら、面白いとは思わないでしょうね。職場における暴力ということで、上司を訴えるのがふつうだと思います。
面白くないのは、たたかれるのが好きな人などいないからだ。大人をたたくことが犯罪行為となり許し難いのであれば、ずっと力が弱く身を守ることができない子どもをたたくことが、どうして許容されるのだろうか?
自分自身に望まないことは、他者にしてはならない。子どもという、もっとか弱く無防備の者が相手であれば、なおさらである。
親の中には、子どもが他の子をぶった時に、たった今、自分が駄目だと禁じたばかりのことと同じことで罰する――つまり、子どもをぶつのだ――者がいるが、それを目にするのは悲しいものだ。禁止されたことと同じことをする大人を見る子どもは、一体何を学ぶのだろうか? 一番強ければ、暴力で自分の規則を押しつけても構わない、ということに他ならないだろう。
絶対に子どもをぶってはならない。その子のためだとか、教育のためだとか、紀律を教えるためという言い訳を利用してたたくことは、なお、良くないことだ。
体罰を用いる者は、教育を施しているのではない。自分に教える能力がなく、子どもを扱う、こつや忍耐、優しさ、繊細さに欠くことを示しているだけである。性暴力や虐待に対して闘うのならば、幼児虐待に対しては、それ以上の力が注がれるべきだ。
それにしても、今日では幼児虐待は多くの国で法的に罰せる犯罪とされているので、虐待の証拠を示すことができれば、それをした人を処罰できる筈です。
そう、特に西洋ではね。そして、これは大きな進歩だ。
問題は、多くの場合、子ども自身が虐待を受けたという証拠を示すのが難しい点だ。虐待の証拠がそれほど明白でないことがあるからだ。
大人が虐待を受けるケースなら、自分自身で身を守ることもできるし、実際に暴力を受けたら、告発することもできよう。だが、子どもは守ってくれる大人を必要とするし、しかも家庭環境で虐待が起こる場合には、保護してくれる筈の人たちが加害者なのだから、一体誰に守ってもらえるのだろうか?
加えて、君たちの社会は依然として、軽い体罰に非常に寛容だ。自分たちがされたら嫌なのだろうが、多くの人たちが、たたいたり、ぶったり、お尻をはたいたりすることは、許容範囲内だとしている。子どもにすることを自分がされたらどう感じるだろうかと、一人ひとりがよく考えてみることだ。そうすれば、子どもたちに対してもっと心配りができるようになるだろう。
体罰を用いないのが理想的なので、それを制限するのは賛成だけど、とても反抗的な子どもがいて説明しても駄目な場合は、「強硬手段」を採る必要、つまりもっと断固とした方法で対処しなければならないよ、と言う人たちもいます。これに関してどうですか?
子どもの教育を大人の言う通りにさせることだと考え、言葉や肉体的な暴力で怯えさせて、怖れによって意に従わせようとする者は、自身が無能で霊的に未熟なことを表している。愛、感受性、理解力があれば、常に別のやり方を見出すものだ。だが、それがなければ、どんな口実でも、自分の悪癖を引き出すのに好都合だとされる。
でも、幼児を虐待する大人の多くが、彼ら自身も子どもの時に虐待を受けていたというではないですか。きっと、手本とすべきものがなかったのでしょう。
そういうケースでは、虐待された時に感じたことと、粗雑で屈辱的な扱いをされて受けた胸の痛みを思い出し、自分自身が嫌だったことを自分の子や他の子どもに繰り返さないように努めることだ。
幼少期に、多かれ少なかれ、肉体的もしくは精神的ないじめに遭ったことのある人は沢山いるが、それは君たちの世界のあらゆる分野で、エゴがまだ幅を利かせているからだ。実体験から学ぶことができ、苦悩の経験を覚えている人たちは、自分の子どもや幼児全般に、自分たちが味わった苦痛を回避してあげようと努めることだろう。
強硬手段に訴えずに教育するには、他にどんな方法がありますか?
強要しなくても子どもが自然に学ぶには、遊びを通して教えるのが良い。どんな価値観や知識でも、遊びながら教えることができるものだ。
子どもが悪いことをしたら、それが良くないことだったとわかるように、まずは一緒に話し合うべきだ。内省を手伝ってあげるには、「君がしたことと同じことを誰かにされたら、どういう気持ちかい?」という簡単な質問で充分だ。たとえば、その子が他の子をぶったとしたら、「君もぶたれるのが好きかい?」と訊いてみることが、反省を促す役に立つ。もめごとの解決には対話と内省とを優先し、自身の行為のどこが問題だったのか自覚できるように援助をし、してしまったことを償える可能性を提供してあげることだ。
実のところ、君たちの世界にも、このような思想に沿おうとする新しい教育の潮流が見られるのだが、それには、今よりも子どもたちに目をかけてあげる必要がある。
昔とくらべて今の教育の質が低下したと考える人たちもいます。新しい教育手法が手ぬる過ぎて、子どもたちが学ばず、先生たちを馬鹿にして、授業に集中しない、とのことですが、どう思われますか?
それは完全な間違いだ。確かに、特に厳格な人たちの中には、かつての教育を懐かしんでいる人はいる。そういう人たちは大概、勉強には血の滲む努力が必要だと思っているのだ。
過去の教会運営の学校は、毅然とした紀律をもって教えるという評判だったので、一部の親にとても重宝されていた。だが「紀律をもって教える」こととは、実際には、怖れや脅しや体罰などで、学校生活を辛くして、生徒たちを強制的に服従させるものであった。そのため、生徒は子どもというよりも、怯えた小さな徴兵みたいで、顔には幼児特有の自発性や感受性や喜びの微塵も見られなかった。しかも、神の名の下に、そのようなことが行われていたのだ。
だが、そういう教育では、もっと従順で言うことを聞く子どもにすることは可能だが、それでもっと賢くできるわけではないし、より幸福にも、より自由にもさせられない。怖れが染みついて育った子には、大人になると欠けているものが多い。幼少期のトラウマを乗り越えられないと、気持ちの表現が困難になったり、自尊心が低下し、感情的な問題を抱えやすい。学校で必死に暗記させられた歴代の王様の名前をまだ覚えていられたとしてもだ。
また、昔の生徒の方が現在よりも優秀で、習熟度が高かったというのも疑わしい。以前は、内容の暗記には力が注がれていたものの、論理的な思考は重視されていなかったからだ。授業内容が適切なものであったかどうかもおぼつかない。教育に向けられる資金も今より少なかったし、義務教育の期間も短かった。
現在の教育は、生徒の思考力と推察力を伸ばし、暗記を少なくして、論理的に考えさせようとしている。また、学習到達の比率が高く落ちこぼれが少ない国は、紀律に基づく教育モデルを採用した国ではなく、全く逆に、斬新な教育モデルを適用した国である。他の国々とくらべて、教育への人的・物的な投資が多いことが、その差である。世界で最も良い教育モデルを有するフィンランドが、いい例だ。
より効果的でもないのに、紀律正しい教育の方がいい、という親がいるのはなぜでしょうか?
いいかね、多くの場合、問題は子どもにあるのではなく、親にあるのだ。というのも、自分の子どもの気持ちもわからなければ、その子の愛情の必要性も理解できない親が沢山いるのだ。要は、感情に関して、全く無知なのだ。扶養し、病気の時に医者に連れて行き、物的な必要を満たし、学歴になる有名校で勉強させることができたら、親としてできることは全部したと思い込んでいる。だが、決定的な何かが欠けている。それは、自分の子の感情面に気を配ってあげる、ということだ。自分自身の子どもを煩わしく思い、一緒にいる時間をあまり作らずに、愛情も理解も示してあげない親が大勢いるのは、嘆かわしいことだ。そういう親は、子どもといるのがむしろ鬱陶しく、その子のやること成すことに我慢がならず、気にかけてやろうともしない。しかも、一部の親には、子どもの価値を学校の成績ではかる傾向が頻繁に見受けられる。中には、子どもの成績が悪かったり、病気になった時にしか心配しない親もいる。
そうすると、あまり愛されていないと感じた子どもたちは、親の注意を引こうとする。成績が下がれば親が関心を持つことを知っていて、勉強をしなくなるという手段をとる子どももいる。それどころか、感情的に大変傷ついて、勉学も含めて、すべてに対して興味を失う子どももいる。親は、子どもへの無知と関心のなさから、勉強に怠惰なのが問題なので、もっと強制的に勉強をさせる威圧的な先生のいる、紀律を課す学校に行かせるべきであると思う。しかし、問題となるのは学校ではなく、親たちの関心のなさなのである。
大人になった時に自力で生活できるように、子どもに勉強してほしいと望むことのどこが悪いのですか?
勉強してほしいと望むのは何も悪くはないが、子どもを愛するかどうかがそれに左右されてはならない。
頭の良さや成績がいいことだけしか評価されなければ、子どもたちは自尊心の問題を抱える上に、勉強のストレスに押し潰される。あるがまま無条件に子どもたちを愛してあげて、幸せになれるように彼らの気持ちに配慮してあげるべきだ。
また、大人が子どもの自由や自発性を大いに制限する、無意味な規則に慣れさせようとすると、子どもたちはそのような規則を不当に思い、反抗する。子どもに遊びを禁止したり、ずっとじっとしているように命じるのは、馬鹿げている。そういう見当違いは、理論で納得させられないので、親は強要したり強制したりするのだ。
でしたら、その子自身や他の人たちに害が及ぶことでも、子どもに好き勝手をさせてあげるのがよいのでしょうか?
全部は駄目だ。常識的に考えてみなさい。
何事にもそれをすべき時期がある。子どもの自由度と責任は、成長して能力が高くなるにつれて、増やしていくべきだろう。いろいろな危険に気づいていない幼児には、見張りをつけずに、外で独りで遊ばせるわけにはいかない。安全を確認しないで道を横切るなどの、無分別な行動をとってしまうかもしれないからだ。
その子にとって、そして他の人にとって危険なことを、段階を踏んで教えていかねばならない。他の子どもたちを大切にしてぶたないこと、侮辱しないこと、そして宿題をするとか遊んだ後におもちゃを片付けるなど、年齢に応じた責任を果たすことを教えないといけない。つまり、子どもの年相応以上でも以下でもないことなのだが、いつもその子の自由と感性を尊重して大事にしてあげて、理解を示し、愛情深く、また忍耐強く接することだ。
でも、限度はどこにあるのですか? たとえば、子どもが学校に行こうとしなかったり、宿題をしない場合は、強要すべきですか、それとも放任すべきですか?
常識を使ってほしいものだ。
力づくで強要してやらせるのではなく、子どもと対話し、学ぶことの大事さを教えて、やる気を起こさせるのだ。宿題を一緒にする時間を作って、楽しくとっつきやすいものにしてあげれば、カで押しつけるよりはずっといい反応を示してくれるだろう。
どうやって、必要なのに退屈で面倒なことを、子どもに学ばせることができますか?
それを面白いものにして、一緒にしてあげる。そうすれば、子どもは関心を持ってもらっていると感じるし、自分のしていることを手伝ってもらっていると思うので、続けていく気になる。子どもたちは遊んで楽しむものだが、ゲームを介せば、うんざりさせずに多くの物事を教えることができる。そうなれば、学習が楽しいものとなるので、自分から進んで勉強したいと思うようになる。
家庭内、家族においては、どのように教育するべきでしょうか?
子どもと一緒にいる時間を作ることだ。一緒に遊び、その子に関すること――問題や心配事など――について会話を持ちなさい。
子どもからの質問があれば、いつでも応じられるように心を開いていなさい。子どもたちは世の中を発見している最中なので、学ぶためには、何でも尋ねる必要があるのだ。君たちには明白なことかもしれないが、彼らにとってはそうではないので、馬鹿にされたと思えば萎縮してしまう。子どもに対しては、とてもとても辛抱強くあることだ。
また可能な限り、遊ばせてあげなさい。子どもにとって遊びは命であり、遊ばせてあげなければ大きな弊害を被る。彼らへの君たちの愛情を目に見える形で――言葉によってや、キスしたり撫でたり抱きしめてあげて――示してあげなさい。子ども自身の人格が自由に形成されるように見守り、自分たちがそうであってほしいと望む資質を押しつけてはならない。丸ごとあるがままに愛してあげて、子どもが少しずつエゴを削り取って、制約のない感受性と情緒を育んでいけるように助けてあげるのだ。それから、子どもたちとは何の関係もない、大人である君たち自身の問題や心配事で、彼らの生活に波風を立ててはならない。
ですが、子どもに対してあまりにも寛大だと、その子が要求の強い我がままになって、我を通そうとして、癇癪やヒステリーを起こすこともありますよね。そういう場合は、どうしたらいいですか?
確かに親の中には、怠慢であったり気が弱いため、あるいは子どもの文句を聞きたくないために、危険なことまでを許してしまい、どんな気紛れでも満たしてしまう者がいる。すると、その子は要求が強い我がままになって、小賢しく親の意志を曲げようとする。
そういう時には、子どもの脅しに負けない、毅然とした態度が必要であるが、暴力的または攻撃的に応じてはならない。子どもが横暴に振舞う時ほど、その言い分を聞いてはならない。そういう態度をとると無視されて、要求したものが手に入らないとわかれば、じきに諦めるだろう。対話をして内省させ、自身のエゴ的な言動に気づけるように、子どもを助けてあげなさい。
将来親となる人たちへのアドバイスがありますか?
子どもが愛してもらえること、生活のあらゆる面、特に感情面を気にかけてもらえることを確信して生まれてこれるように、愛をもって子どもを設けなさい。この世に生まれる子どもたちが愛と共に受胎するなら、世界の苦悩は著しく減少することだろう。
過去の時代と比較すれば、現在は事情が良くなっていると思いますよ。僕が言いたいのは、今の親たちの方が子どもの必要性を認識しているということですが、間違っていますか?
ある程度進歩したのは確かだ。過去の時代では、大半の子どもたちが、両親に知識と配慮がなかったために、この世にやって来ていた。つまり、両親が切に望まないまま、生まれてきていた。今日のような性教育も手段もなく、男女は避妊の手立てがないまま性関係を持ったので、偶発的に生まれてしまっていたのだ。生物的に可能な限りの数の子どもを産んだので、多くの場合、子どもたちの生まれ出る環境も物的に貧しかった。
子どもに対するほとんどの親の心配は、死なないでほしいということだけで、感情面への配慮は無きに等しかった。生まれ出るには最適な環境とは言えなかったが、魂にとっては、物質界に転生することで学んで進化することが欠かせないので、どんな機会であろうと提供されたものはすべて利用したのだった。親や子となったそれらの魂の感性は、今ほど発達していなかったので、子どもたちが情緒的・感情的に構ってもらえなかったとしても、感受性が鈍かったために、その苦しみも緩和されていた。
今日では、特に西洋の多くの国々において、状況が変化している。親の意志がないまま、偶発的にこの世に誕生する子どもの割合は減少した。大半の子が、両親の子どもを持ちたいという意欲と意識によって、妊娠する。より経済的に恵まれている西側諸国では兄弟の数も少ないので、子どもの生存と物的な心配りは親から保証されている。飢えも渇きも寒さも、また栄養失調や不衛生から生じる病気も体験せずに済むだろう。
だが、まだ重要なことが欠けている。それは愛のために、愛情をもって子どもを宿すということなのだ。まだ多くの子どもたちが、愛とは異なる動機によって、設けられている。
親が子どもを持とうとする時の、愛とは異なる動機とはどういうものですか?
家系を存続させなければという一種の義務感や、老後に子どもに面倒を見てもらえるという便宜上の理由から、子どもを作る場合が多い。
ある程度の年齢がいってもまだ子どもが欲しくない夫婦の場合は、子どもを持つことによって人生を変える必要が生じるために、そうする気になれないからだ。だが、生物的な妊娠能力は年齢と共に低下していくので、「時期を逸してしまう」前に、世間と同じように、やはり子を作ることになる。また、二人の関係が壊れる怖れがある場合に、伴侶を捉まえて夫婦関係の継続を強要するためや、上手くいかない関係を救おうとする必死の試みとして、子どもを設ける場合もある。
愛がないまま受胎した子どもは、どういう結果になりますか?
愛がなく生まれ出る子の多くが、虐待、無理解、無配慮、冷淡という形での両親の愛の欠如に苦しむ。現在誕生している子どもたちは、無数の転生経験から得た学びの成果として、過去の時代よりも進化した繊細な魂なので、非常に傷つきやすい。そのため、感情面への無配慮や精神的な不快感に対する彼らの苦悩の度合いは、過去よりも大きいのだ。
親がいくら、問題はいつも悪い態度をとる子ども側にあるのだと信じ込もうとしても、西洋の子どもたちの大半の苦しみの原因は、両親から愛されていないということだ。愛がないがゆえの苦悩のせいで、感情的なトラウマや肉体的な病気を引き起こしてしまう子も中には沢山いるが、大半の親がそれに気づかない。だから親は、子どもが感情的に良好な状態でいるかどうかをもっと認識して、敏感にならねばならない。そうすれば、今、子どもたちを打ちのめしている、苦しみの多くが回避されるであろう。
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