第三の法則:「霊的裁きの法則」
または、「霊的な作用と反作用(原因―結果)」の法則
- 他者にすることは、自分自身にもすることになる。
- 魂が自分の過ち(万物の生命に反する行為)を自覚し、それを償えれば、霊的に進歩できる。
無神論者は、「神が実在するのだったら、この世の多くの理不尽を許す筈などない」と声高に主張していますが、これをどう思われますか?
そのような意見の者は、人の命が肉体の誕生と共に始まるという信念を持つために霊的な真相を完全に理解できず、それで、地上の一部の劇的な状況を理不尽だと解釈してしまうのだと思う。
人間の生が誕生をもって始まると見なせば、神が初めから一部の者だけを優遇してその他を冷遇しているように見えるので、この世は不平等で、創造主がいてもやはり不公平なのだろう、という避けがたい結論に行き着いてしまう。
生まれた時から、先天的な病気や極貧、歓迎されない家族の下に生まれるなど、災難が山積みの人生が見込まれる人がいる一方で、ずっと賢く美しく、深く愛され健康で、神のお気に入りに思える人がいないだろうか?
しかし我々が、今生は各人の生のほんの短いエピソードに過ぎず、今編は、今の魂の状況と内容的にきちんと噛み合うこれまでの連載ものの続編で、ふさわしい結末であると考えられれば、以前は理解できずに不公平に思えた事柄を、次第に理解し始めるであろう。
実にすべての魂は、同じ起源から生じている。魂という存在はすべて、無知で無自覚な生命の素として等しく創造されたが、無数の転生経験を総合して、愛と叡智の最高次元に達するまで、絶え間なく永久に進化する可能性を宿している。
ある魂と他の魂との唯一の違いは、創造された時期、つまり魂の年齢による。魂の生命の創造過程は、やむことがないからだ。
あるものは、君たちの銀河系がまだ星雲になる以前の何十億万年前に冒険を開始し、物質界への数え切れない転生の歴史があるが、他のものはまだ進化を始めたばかりの、いわば若い魂だ。
各々の行為と決断により、進化の道程は真っすぐにも、曲りくねったものにもなるし、遅くなったり速くなったりもする。
ほんの稚い幼児期から愛と理解の偉大な能力を持ち、年齢に不釣合いなほど精神的にとても成熟している人がいる一方で、肉体上では大人や老人なのにまだ振る舞いが幼稚で、見かけほど歳がいっていないように思える人がいることに、気づいたことはないだろうか?
ある魂と他の魂との霊的な力量の違いは一見先天的なものに見えるが、魂の年齢差とこれまでの転生を霊的進歩のために有効活用してこられたかによる。
各人の今生の環境の違いは宿命の産物に思えるが、実は、これまでの前世や肉体に宿っていない期間に決断してきたことに起因するのだ。
現在の人生での行いが、過去のものとどう関係するのですか?
宇宙的な法則がある。それを「霊的裁きの法則」、「霊的な作用と反作用の法則」、「原因と結果の法則」、などと呼べるが、その概要は、魂は与えたものと全く同じものを受け取る、というものだ。それは、我々が他者にすることは実際には我々自身にすることになる、ということに等しい。
各魂は自らが創り出した状況に立ち向かわなければならない、というのがこの法則の結論であり、それゆえ、魂が人生で直面する逆境の多くは、前世で自分が作り出した原因の帰結、またはその影響なのだ。
それがなぜ、宇宙的な法則なのですか?
なぜなら魂は、宇宙の諸法や万物の生命に反する自分の行為が招いた状況に向き合って、それを解決しない限り幸せになれないし、自己の霊的な進化においても前進できないからだ。
「自由意志の法則」において、好きな道を選んで適切な決断をする自由が魂に認められているのなら、「霊的裁きの法則」では、自分の行為の一つ一つがそれぞれの結果をもたらし、遅かれ早かれそれらが自分に影響することを知らねばならない。別の言い方をすると、「種は自由に蒔けるが、刈り取る責任がある」のだ。
つまり、行為の担い手として正当に思える行いなら、受け手としてもそう見えるべきで、その逆も然りだ。だが、もし自分がしたのと同じことをされたくないのなら、あまりいいことをしていなかったという訳だ。我々にとって善くないことは、他者にとっても善くないのだ。
イエスを含む多くの偉大な預言者が、「自分にして欲しいと思わないことは、他者にしてはならない」、「自分がして欲しいと思うことは、他者にもしなさい」と言っていたのを君たちも耳にしたことがあるだろう。
「作用と反作用の法則」を知ったからには、これらの金言に一文を付け加えて「自分にして欲しいと思わないことは、他者にしてはならない、なぜなら結局は自分自身にもしてしまうことになるのだから」、「自分がして欲しいと思うことは、他者にもしなさい、なぜなら本当は自分自身にするのだから」とするべきだ。
「私たちが他者にすることは、私たち自身にもすることになる」という至言に、霊的裁きの原理が含有されている。
どうして、「霊的な作用と反作用の法則」と呼ぶのですか?
それは、ある意味でニュートンの第三の法則、つまり伝統物理学の作用と反作用の法則に似ているからだ。
これに馴染みがない者に説明すると、この法則は、ある物体が他の物体に力をかけると、それ自体も同時に同じ大きさの力で押し戻される、ということだ。つまり、二人の宇宙飛行士が宇宙空間で手を繋いでいて、一方が他方を押したとしたら、その人も等しい力で逆方向に移動してしまうのだ。銃や同様の武器で撃ったことがある人なら、物理的な作用と反作用の法則をよく知っている。射撃というものが、銃に力をかけられた弾丸が物凄い速さで外に飛び出すものであるのは周知の事実だ。しかし実は、弾丸は同時に銃に、同じだけの力を反対方向にかけるのだ。
作用一反作用の法則が存在するがゆえのこの反力は大変強く、銃器業界では「後退」として知られる。訓練できていない場合には、銃を支えていた部位が怪我してしまうこともある。
物理的な作用と反作用の法則に類似する「霊的な作用と反作用の法則」は、霊的な次元では、他者に行ったすべての行為は同じ規模で我々自身に戻される、と言っているのである。それは実生活において他者に行うことはすべて、実際には我々自身に行うことになる、という意味である。
各人がそれぞれの行為と向き合うことになるというのがこの霊的裁きの基本であり、自分の行為の結果を経験した後で、その行為を修正するか否か決めるのは本人次第なのだ。
他者に対する行為は、どのように霊的進化に反映されるのですか?
それらの行為が「愛の法則」に反するものなら、魂が進化の高い領域へと上昇するのを阻む錨のように重たいものとなる。反対に、「愛の法則」と調和した行為は、気球のバーナーの炎のように作用する。炎は空気を熱すると、ガス粒子の振動レベルを増加させ、気球内部の空気濃度を希釈し、気球がもっと大気の薄い地帯まで上昇していくことを可能とする。
同様に、「愛の法則」に賛同する行為は魂の波動を高め、もっと高振動でさらに霊性が高いアストラル界域まで上昇することを可能とする。
それにしても、この法則が一般的に適用されているようには見えませんが。世間に知れた殺人鬼や犯罪者や大量殺戮者が、一度も裁判にかけられないまま、歳をとってから穏やかに亡くなってはいないでしょうか?
特定の原因または行為に連結した結果はすぐには顕れないので、犯罪者が生存中に罪を償うのを観ていない者には、裁きが存在していないような印象を与える。
確かに一度だけの人生では、特に地上の権力の座を占める者の場合であれば、多くの犯罪行為が裁きを逃れて終わってしまう。このような場合には、他者を傷つけて「愛の法則」に違反した者は、その後の転生で自分の行為の結果と向き合うことになる。
ある統治者が戦争を招いて、大勢の人を拷問したり死刑にする命令を下したとしよう。でもその権力がゆえに、地上のどの裁判所でも、絶対に裁かれることも有罪とされることもなかったとする。だがその人生で帳尻が合わされなかった借金は、以後の転生に持ち越され、かつての死刑執行人が、明日は一見無実な犠牲者となり得るのだ。
説教でよく耳にする「義に飢え渇く人びとは幸いである、その人たちは満たされる」という一節は、地上で裁かれなかったことは、疑いなく霊的な裁きによって解決されることを意味している。
だがそれでも、この仕組みは懲らしめるためのものではなく、教えるためのものだ。いずれにせよ、悪いことをした魂は自分自身に負債を負い、前進していくためには、まず自分が与えた害を自覚して、次にそれを償うことが必要となる。
その対極には、生存中に多くの善行を積んだのに、感謝されるどころか、中傷されたり拷問されて、殺されてしまった人たちがいるのではないでしょうか?
「霊的裁きの法則」のコインの裏面も見なければいけない。
「愛の法則」に従って行動しても同輩から感謝されずに、その善行の対価として無理解、拒絶、暴力、拷問や死を受け取った者たちは、人間の独善的な法律に縛られない真の世である霊界で、行為の成果が報われるのだと確信すべきである。
これが、イエスの言葉の「心の貧しい――謙虚であるとの意味だ――人びとは幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人びとは、幸いである、その人たちは慰められる」が意味することだ。
なぜ、作用と反作用、つまり行為とその結果との間に、時間のズレがなければならないのですか? 行為と反動が連続した方が、もっと公正ではないですか?
反作用は行為の瞬間に起動するが、直ちに効果を発揮しない。行為が「魂の法則」に賛同するものなら「霊的な褒美」を受け取り、反するものなら「霊的な負債」を負うと言えるが、その「収穫」は、魂が自分を試す期間が終わるまで、つまり人生が終わるまで延期される。それは、試験の際に、完全に終了するまでは成績を知ることができず、また、終えた問題を先生が採点し終わらなくても次に進んでいくのと同じだ。
請け負い仕事では、途中ではなく終了した時点で報酬を受け取るように、「魂の法則」に則した行為の場合も直ちにではないが、いつかは霊界で妥当な代償を授かる。この「霊的報酬」は、最終的に魂が肉体を離脱した時点で、もっと愛に満ちた霊が居住する高い次元まで昇って行くことを可能とする。
霊的な負債の場合には、償い自体は、魂自身の意志で自発的に損害を修復しようと決意するまで待たれるが、それは必然的に、魂が自己の言動を自覚したことを意味する。「自由意志の法則」により、償いを強いてはならない。いつその状況に立ち向かうのかを決めるのは、魂自身である。しかし霊的に進歩したいのであれば、遅かれ早かれそれに立ち向かい、犯した過ちを償わなければならない。罪の償いがされない限り、新たな試練には立ち向かえないのだ。
人生が終了すると、「愛の法則」に反した行為の重みで、似通った性質の魂が住むアストラル界の下層レベルに留まることとなる。「愛の法則」と調和できずにお互いに傷つけ合うレベルなので、かなり不幸で苦悩に満ちた生活となるが、ここで更生の決断が待たれる。
魂は、他者に与えた害を、どのように自覚できるようになるのでしょうか?
魂は、肉体の死後のどこかの時点で、最後の転生中に起こった最も道徳的な部分に関わる事件を徹底的に振り返らされる。魂は、この人生回顧の間に、それらの経験一つ一つにおいて、その時の自分の気持ちのみならず、自分の行為に影響を受けた他の人たちの感情や情動も感じ取り、その人たちの喜びや不快を自分のことのように感じるのだ。
具体的にどういう目的で、回顧するのですか?
魂が、「魂の法則」や他者への行為に関して生存中に決断したことの重要性に気づいて、進化に役立てるのが目的だ。つまり、愛を持って行動したのか、エゴ(我欲)によって行動したのかを、顧みるのだ。
また、その転生で取り組んだどの科目に合格し、不合格なのはどれなのかを知るのが目的だ。今後の転生での試練は、これまでの転生での行動によるところが大きいからだ。
最後の審判みたいではないですか?
それに似てはいるが、魂を蔑んだり罰する意図は全くなく、「魂の法則」や万物の生命に対する行為を自覚できるようになるためなのだよ。
自分の行為が正しかったか正しくなかったかを、判定するのは誰ですか?
高次の霊の手助けを得て、自分自身で判定する。
生存中に気づけなかったのに、自分の行動が不当だったかどうかを、どうして自覚できるのですか?
高次の魂が助けてくれるので、自分の進化レベルではまだ持ち得ていない、霊的な洞察力が授けられるのだ。
自分自身を裁くのでしたら、完全に公平にはなり得ないのではありませんか? 魂が自分をひいきしないように、どう阻止するのですか?
今言ったように、魂は高次の存在に誘導されて、霊的に明晰な状態にいるので、自分をえこひいきするような行動はとらない。その状態にいると、現実をありのままに、完全に公平に見ることができる。
そして、どうするのですか?
魂は、自分の悪い言動を修正してその後の転生で克服できるように準備をして、能力に応じた償いのための試練を選ぶことになる。
それは、魂が選びたい方法による。ゆっくりだが時間がかかる修復もある一方で、試練はきついがもっと速く進化するために役立つものもある。
そうだとしても、直後には何が起こるのですか? つまり、魂はすぐ次の生で、早速、前世の行為の修復に取り組むのですか?
矯正する意図を全く見せない魂が沢山いるので、必ずともそうとは限らない。彼らはそのために、下層アストラル域に停滞してしまい、更生の前段階を踏まないで、再び転生して来てしまう。
また、魂が更生のプロセスを開始したとしても、初めは善と親和する意志力が弱いので、厳しい試練には耐えられない。よって、負債の償いに直面しないで済む過渡的な転生をし、更生のための意志力と忍耐力を養う準備期間とする選択肢もある。
きつい試練に立ち向かう本当の贖罪のための転生は、魂に充分用意が整って、確固とした改善の意志を持った時にやって来る。
「負債を持つ」魂には、どんな種類の試練が待っているのでしょうか?
一般に、前世で自分が生み出したのと類似した状況を、自分が身を持って体験する。そして、「魂の法則」と何が調和し、何がしていないのかを自覚して、罪の償いに尽くす。
理解できるように、例を挙げていただきたいのですが。
よかろう。大農場と農奴奴隷を所有する、16世紀の白人の家庭へ、ある魂が転生したとしよう。
おそらくこの魂は、両親の教育によって、農奴も自分同様に感じ苦しむ人間なのだと気づかない。また、物的なものかを問わず個人の利益のために、他の生き物の意志を蹂躙してはならないことや、それが自分と同じ人間の場合にはさらに悪質であることに気づけない。そのため、奴隷制は「愛の法則」と「自由意志の法則」に反する行為だ、と思い至らないでいる。
大人になってそこの若旦那となったこの魂に、奴隷を所有するのがいいことかと尋ねたならば、「汚い無知な奴隷と立派な領主とをなぜ比較するのだ」と、彼の自尊心を怒らせるに違いない。「汚い・無知・奴隷」というのは、彼が積極的に維持してきた状況だ。もしこの状態が妥当だと思えるのなら、それは、逆の立場からもこの状況を経験することに、同意していることになる。
つまり、以後の転生で自分の家族に隷属する農奴の息子または娘として生まれ、奴隷であることから生じる苦悩を身を持って体験する。そして今度は奴隷となった魂に、奴隷制は良いことかと尋ねてみれば、それは非人道的だと語り、「神よ、私が一体何をしたというのですか」と、自分の不運を苦々しく嘆くことだろう。
結局のところ、自分が蒔いた種を刈り取ったに過ぎないのだ。もし彼がこの経験から有益な教訓を引き出せたとしたら、たとえば再び大農場の領主に戻るなど、社会の諸相を変えられる立場になった時に、自分が前世で内面的に学習したことを思い出し、奴隷制度の廃止に尽くすかもしれない。
この例から、奴隷は前世では、奴隷制を利用していた領主だったかもしれないと推測すべきなのですね。
そう、そして領主が、奴隷なのだ。
自己の自由が尊重されるための最善策とは、どんな状況でも他者の自由を敬うことなのだ、と気づくに至るまで、同じグループの魂が、多くの人生で両方の立場を交代で経験することだろう。すべてがこうなっている。
でも、自分がしたのと同じ目に遭わせるのは、目には目を、歯には歯を、に等しいのではないですか?
これは懲罰ではなく、学習形態なのだと言っておこう。
正しい行いをしたと胸を張っていられるのなら、自分がしたのと同じことをされるのも、全く怖くはないだろう。そればかりか、その善行に見合う報酬を受け取ることを、待ち望むであろう。
しかしそうではなく、エゴによって他者を足蹴にしたのだったら、自分が蒔いた悪い種を収穫する気にはあまりならないだろう。
復讐の一種のように違反者を罰することが目的だとしたら、「目には目を」だと理解できる。しかし、この法則の趣旨は罰することではなく、他人に行った行為を自ら体験して、魂の進化を促進させることなのだ。
別の言い方をすると、「霊的裁きの法則」は、我々が学び取れるような方法で、各人をそれぞれの行為と向き合わせてくれる。そして、自分が招いたものと文字通り同じ状態を経験する必要はないものの、それが最も速い習得法なので、惨めな霊的な劣等感から脱却したいと願う多くの魂がそうしている。
それほど過激にならない別のやり方で、負債から解放される方法はないのですか?
試練の厳しさは、本人がどれだけ早く霊的な借金を返済したいのかと、試練を乗り越える力があるかどうかによる。試練は、魂にそれを乗り越える準備が整った時にだけ訪れる。
利子の付かない銀行貸し付けに似ており、カルマの借金がある進化を望む魂には、負債を支払って更生するための選択肢が複数提示されるのだが、どれを選ぶかは本人が決定する。時間はかからないが高額な分割金で返済することも、時間はかかるが低額な分割金で払い戻すことも可能だ。
清算し終えるには、より多数の転生が必要となるが、ガイド役の霊たちは、二番目の選択肢、つまり借金をより楽に支払う方を勧める場合が多い。しかしながら大抵の場合、魂は、犯した罪の呵責で苦しむ状態から抜け出したいと急いでいて、カルマを素早く消し去ることができるように、より厳しい試練を選ぶ傾向がある。
いずれにせよ、魂は試練に向き合うことを承諾しなければならず、上手く乗り越えられるように準備を整えるのだ。
「カルマ」とは何を意味するのですか?
東洋起源の言葉で「霊的負債」と同じだ。
でもある種の試練はとてつもなく辛そうで、そこからは、「人生は涙の谷である」という教訓以外は、引き出せそうにないですよ。
原因を知らずに判断しているからだ。犯罪がお咎めなしだった物語の冒頭部分しか見なかった多くの者にとっては、その人が裁きを受けなかったのが不公平に見えたろう。
だが観客が、その後の転生で勘定が清算される第二話だけを見ても、災いがどこに起因するのか理解できないので、そのような辛酸を味わわねばならない人がいることが、理不尽に思えるのだ。
しかし、もしその魂の犯罪に満ちた過去を知っていたとしたら、多くの者が、二つ目のチャンスをあげようとさえしなかったろう。霊的世界では、いつも次のチャンスがある、いや、更生の機会は無数にあると言った方がいい。
霊的世界に改悛の機会が無数にあるのだとしたら、たとえばキリスト教義で見られるような悪者に対する永遠の刑罰や懲戒の信念は、どこから生まれたのでしょうか?
永遠の懲罰の概念は、神聖な源から発したものでない。根拠に欠け、霊的な真相に一致していない。不合理な怖れで人びとを支配しようとした、聖職階層が導入した誤った教えの一つに過ぎない。他者の霊性の道の案内役を買って出た者が、そうするどころか、人びとをさらに混乱させ、マインドコントロールで愚かにし、弱点を利用して自らの地位を上げたのだ。彼らは嘆かわしくも、すでに充分に苦境に満ちた道のりを、邪魔することに一役買ってしまった。
では多くの人が、人生の悲惨な出来事は、事前の打診もなく強制されたものだ、という感じを受けるのはなぜでしょうか?
それは生まれ変わる前に決めたことで、魂は肉体に宿ると過去を忘れてしまうので、自分ではその決断に関与していないと思ってしまうからだ。
「魂の法則」を知らない者は理解できないだろうが、進化の一歩を踏み出す決意をした多くの魂は、非常に困難な状況に立ち向うのだ。
多くの人は、何もしていない善人が、運命のいたずらのように、悲惨で不幸な数々に見舞われなければならないことが理解できない。そして、善人がこれほどひどく苦しまねばならないのだから真の裁きが存在する訳がない、と結論づける。しかし、もしその魂の過去を垣間見ることができるとしたら、その訳がわかるだろう。それはつまり、その魂は、「魂の法則」と馴染む前に、犯した罪の埋め合わせをしているということなのだ。
したがって、困難に立ち向かう人たちがいることを喜びなさい。第一にその人たちは、更生しようと深く肯定的に改心した魂であり、第二にそれほどの試練に直面すること自体がかなり進んだレベルに達したということで、負債を集中的に清算することにも成功する可能性があるからだ。
それでは、魂が出会う否定的な状況のすべてが、過去の行為の結果であると理解すべきですか?
いや、そうではなく、その多くは今生の行為の直接的な結果だ。
また、自分が生まれ変わった惑星の進化レベルに特有のものもある。
それは、負債がない魂でも、贖罪とは関係のない逆境を経験する可能性がある、ということですか?
そうだ。それは頻繁に起きていることだ。しかし、そうするかどうかは、魂が自由に選択する。
そうすることに、どのような意味があるのですか? 自虐的に思えます!
魂は、苦しむのが楽しいからこの道を選ぶ訳ではないのだ。また、苦悩自体が全く不毛なもので霊的に何も成長できないのだとしたら、それもやはり意味をなさない。
しかし、それによって、愛の学びにおける霊的な進歩ができる。そうして真の幸福へと近づけるので、自己記録を更新してゴールした長距離選手がレースを頑張って良かったと思えるように、悲痛な状況を上手く乗り越えられると、努力の甲斐があったと思うものなのだ。
このような選択は進化した魂特有のもので、後進の同胞を助けるために転生して導こうとする、愛ある行為だ。そして同時に、自分自身もさらに速い進歩を遂げようとする。なぜなら、後進の者の恩知らずな行為と不正の多くに耐えなければならないので、無条件の愛の能力が試されるいい機会となるからだ。
逆境は進化の役に立ち、その多くが過去の行為の結果であると言われ前世のこととは切り離して、あまりにも不平等で非人道的な耐え難い――たとえば飢餓や貧困や戦争など――許せない物事があります。
それなのに、大変善良で能力が高いとされる存在たちは、人類のこの嘆かわしい未来を変えるために何もしてくれません。これにはどう返答されますか?
確かに、非人道的で許しがたいことは数多くあるが、それらは地球に転生した魂たちが生み出したもので、それらを自覚して地表から撲滅する努力をするのは、その責任があり、そうすることができる人間自身でなくてはならない。
すでに述べた通り、霊的な進歩は、何の強制も強要もされずに本人の自由意志と努力で決断されて、それが内面に取り入れられた時にだけに起こる。これは、「自由意志の法則」という、霊的に進化した存在すべてに尊重されている「魂の法則」だ。これが、神や他の高次の存在たちが、この世の不正を改善する姿が見られない理由である。
ある問題を解決しようと全能の存在がこの世に現れたとしても、その決断がすべての者の意向に沿う訳ではないので、それまで救世主を要請していた地上の者は、今度は自由が失われたと文句を言うであろう。
君たちの世界には、エゴを放棄する覚悟のある人も、自分のものだと思っている物を、それを持たない人びとと分かち合うことのできる人もほとんどいないので、どんな決定であったとしても、損をしたと思う不平分子は常にいることだろう。
だから人間には、物質界で思う存分に自由意志を使う経験をさせて、自分が招いた状況に対処させるのだ。苦しみはエゴのせいであり、エゴが人類の心に君臨し続ける限り、戦争も飢餓も貧困も不正もなくならない、という結論に独りで達しなくてはならない。
すべての災いを根絶する唯一の方法は、一人ひとりの心からエゴを一掃することだが、エゴの毒を解毒できるのは、愛だけなのだ。
腕組みをしながら救済者がやって来るのを、待っていてはいけない。行動するのだ。そうすれば助けが得られる。「愛の法則」を信奉する高次の魂は、いつでも君たちを陰から応援するために、そばにいるのだ。
しかし、君たちの意に反することはできないので、君たち自身の意志で、率先して行わなければならない。川に落ちてしまった者が助けを求めているにもかかわらず、本人が腕を動かしてなんとか泳ごうともせず、浮ぶ努力さえしていないのと同じことになるからだ。
自分の運命の流れを変えるのは君たち自身だ。決断すれば、その力が出る。そうではなく、間違いを犯す度に、父親が助けに来てくれるとしたら、一体どんな方法で進歩できると言うのだ? 学びのためには、自分の決断が及ぼした効果を味わう必要があり、自由に行動して、一方の道を採るか、別の道を選ぶのかを決めなくてはならない。
霊性がさらに進化している世界は、高次の霊性というものを示すために、どうして人を送って来てくれないのですか?
そうしたいと思ってはいるだろうが、何度と繰り返しているように、君たちの自由意志に干渉できないのだ。
進化した物質界の人は、進歩の劣る世界との合意と同意がなければ、その世界の発展に、集団として干渉できない。そこで、軍隊を上陸させたりしない目立たない方法で、高次の人が地球に転生して手本を示すことで援助するのだ。そうすれば、その高度なテクノロジーの魔法に眩惑されることなく、感じ方や考え方の共似性によって、彼らの教えを取り入れてもらえるからだ。
テクノロジーで圧倒するケースなら「自由意志の法則」を尊重しない文明なので、国民はその高度な文明に依存してしまい、破壊的な結果がもたらされるだろう。自主努力の成果でないものは簡単に忘れられてしまうので、達成できたと思われた革新も、彼らが立ち去ればたちまち元の木阿弥となってしまう。
しかし君たちは、現在は肉体を持たないガイド役や霊界の親しい者たちから、精妙な方法で、常に支援を受けている。援助を受けるために、どのように霊界とコンタクトしたらよいかは、もう充分話したろう。助けられるためには、助けが欲しいと願う必要があるのだ。なぜなら、孤独で世間からの孤立を願う者や、進化を望まない者には、その願いが尊重されるからだ。
愛における進化を、誰にも強制することはできない。自分の意志で進化しようと決意しなければ無駄であるし、おまけに、「自由意志の法則」に違反することになる。
もっと大きな災いを避けたり、平和や民主主義を守るためには仕方がない、と戦争を正当化する人たちがいますが、これに関してはどう思われますか?
もし本当に平和や自由を愛するならば、自分が主張することと反対のことをしてはならないだろう。目的に対して手段が矛盾するのであれば、その人は嘘つきか偽善者なのだ。
手段は求める目的と合致しているべきで、目的によってその手段が正当化されることなどあり得ない。戦争によって平和は実現できないし、強制によって自由を得たり、不正によって正義を得ることも不可能だ。
でも、大部分の人びとは平和に暮らすことを望んでいるのに、一部の権力者たちが戦争を決めてしまうではありませんか?
それなら、なぜ君たちが望むことと反対のことをする者に権力を渡すのかね?
君たちの世界の腹黒い支配者たちが、国民を戦争に招集したとしても、銃を取る者も他者に強要する者も誰一人おらず、武器を製造する者もいないとしたら、彼らがいかに邪悪であろうと、何もできない筈だ。
しかし、もしそれが可能だとするなら、それは君たちのエゴがそそのかされてしまうからだ。自分は他の者たちの殉教者だと納得させられてしまうから、羊は屠殺所に連れて行かれてしまうのだ。だからこれは、自分が同類の命を奪う権利があると信じて、他者も自分の命を奪ってもいいのだ、と納得させられてしまう者の問題なのだ。
もし誰かが襲われて、自己防衛で加害者を殺してしまったとしたらどうですか? また、これは例ですが、子どもたちに危害を加える者がいて、加害者を殺さなければ子どもが守れない、としたらどうでしょう?
いいかね、霊的世界では、出来事自体はそれほど重要ではなく、その時の意図が重要なのだ。
殺されるのを回避しようとしただけで、相手を殺すつもりのなかった者を、最初から殺意を抱いていた者と、同じように裁くことはできない。その人は、大きな損害を与えることなく被害を避けようと、できる限り努めるだろうから。
しかし、戦争に行く人たちはこのケースではない。人が戦争に赴く時には、いつかは他の人間を殺したり、自分が死ぬ羽目になると、完全に自覚している。
神を信じる「愛の法則」の信奉者ならば、敵軍に転生した自分の兄弟を殺害に行くために、絶対に自ら進んで入隊などしない。殺人を正当化し得るほど高尚な理念や信仰は、何一つ存在しないからだ。
でも、多くの人びとが意に反して徴兵されて、前線に出向くように強要されていることも確かではありませんか。これについては、どうでしょうか?
当事者の魂にとっては、崖っぷちの選択になるので、かなり大きな試練であろう。しかし、このような状況は偶然ではない、と知るべきである。このような試され方をされる者は、おそらく前世では、他者を同じ状況に誘導したのであろう。
これは、愛に賛同する自分の信念が試される、大変厳しい試練である。
殺して殺人者になり果てるか、敵軍に拷問されたり傷つけられるか、造反者や裏切り者のレッテルを貼られ「友達」だった自分の一味からは投獄されたり拷問され、さらには死刑にされるか、を選択しなければならない。これらの選択には情状酌量の余地があるが、死ぬか殺すかの戦争に行くように他者を強要した者の責任はもっと重く、重責だとされる。
君たちの世界では、命を危険にさらして敵軍の兵隊を殺した兵士は、勇者である。一方、一人の敵兵も殺さないで済むよう自分の命をさらした者は、臆病者とされる。
しかしながら、霊的世界では、それが正反対となる。勇敢なのは、殺人に反対する平和主義者であり、造反者であり、裏切り者であり、兵役忌避者である。見知らぬ、おそらく別の信仰やイデオロギーを持つ者の命を守るために、死ぬまで自軍に迫害されることになるだろうと知りつつ自らの命を冒すので、勇者なのだ。他方、どちらかの軍に自分が一番初めに殺されることを怖れて、他者の命を奪おうと危険に身をさらす者は勇者からはほど遠いのだ。
いずれの場合にせよ、どちらを選ぶかを決めるのは魂だ。兄弟の殺害を拒んだために、利己主義者に報復されて地上で一時的に苦しむが、霊界で報酬を授かるのか。それとも、戦争の英雄として地上で報われるが、兄弟を傷つけたために、後で霊界で苦しむのか。
それなら、ある国を侵略しようとする国や勢力があったとしたら、攻撃や侵略を防ぐために、他の国々は何をするべきなのでしょうか? そこが破壊されている間、腕組みをしてじっとしているのですか? ナチスドイツのケースが思い浮かびましたが、ヨーロッパやアメリカは、ナチスがその軍事力で世界を征服するがままにさせておくべきだったのですか?
君たちが知り得る人類の歴史の知識は、過大に操作されたものだ。
多くの者が未だに、戦争には善い陣営がいると信じ、神が応援するのは常に自分が所属する方で、もう一方の陣営は悪魔に支援されているとする。しかし、敵対する側でも全く同じ意見で、自分たちこそが善人で神は彼らを支援しており、もう片方には悪魔に支援された悪人がいると思っている。
君が言及したような戦争は、一朝一夕にはでき上がらないのだ。実際には戦争というものは、武力抗争が始まるずっと以前から練り上げられるもので、嘆かわしいことに、将来的に敵対することになる二つの勢力はお互いが武装するためにあらかじめ協力し合い、それから破壊し合うために敵対する。過激で暴力的なイデオロギーは、国民が道徳的にも経済的にも退廃してしまうと台頭する。大規模な戦争は、国民が極度の困窮に陥るような、深刻な経済危機の後に起こってきた。
これらの経済危機は偶然に派生したのではなく、他者の不幸と苦悩の犠牲の上に私腹を肥やして、さらに大きな力を得ようとする経済的かつ政治的な大権を持つごく少数の一グループによって意図的に誘発されたものだ。
彼らは、悪の根源は、人種、宗教、信仰、文化などの違いがある人たちなのだと吹聴するために、自分たちの広報メディアに極端な理念を流布させているのだ。しかし、もしそれができるのなら、君たちのエゴをそそのかすことに成功し、君たちがエゴによって、他者の中に兄弟を見出せなくなってしまうからだ。
真に愛を信じる者は、自分の兄弟――人類は誰でも兄弟なのだから――を殺すために、絶対に戦争に行ったりしないだろう。
君たちには子どもがいないのか? 子どもたちに、戦争に耐え、傷ついたり殺されたり、飢えたり苦しんだりして欲しいのか? 君たちの家や村や町が、破壊されたいのかい? もしそうでないのなら、それは相手側にとっても同じことで、戦争をすれば、望まない苦しみ、死、痛み、破壊を与えてしまう、と考えてみるのだ。敵側にも苦しむ子どもがいて、その子たちは貧困、飢餓、痛み、苦悩、破壊と死を患うのだ。
君たち自身の子どもに望まないことはすべて、他人の子どもにしてはならない、とはっきりと言っておこう。他者の子どもにすることは、実際には「霊的裁きの法則」によって、将来の君たちの子どもに対してすることになるのだから。
お話によると、戦争の主な扇動者は少数で、残りは自分のエゴによって彼らに引きずられるままになるようですね。
そうだ。
それなら、戦争の主犯者たちは、苦悩と破壊を大勢の人びとにもたらすので、霊的に莫大な借金を負いますね。
全くだ。反省して態度を改め始めてくれるかもしれないので、物質界の「権力者たち」が自身の借金をさらに増やしてしまう前に、言っておきたいことがある。
彼らは、侵略や戦争を企てて、躊躇せずに不和や憎しみを国民の間にばらまき、おまけに厚顔にもそれを、神や民主主義や自由やその他の高尚な名目の下に行って、それらの理念を汚がしているのだ。
彼らは、血の凍るような種を蒔いているのであり、来世では、地雷をまく指示をした国に不具の子どもとして、あるいは飢え死にさせた国に腹ペコな子どもとして生まれ変わり、否応なくふんだんに苦い果実を取り入れなければならない、と知るべきだ。
物質界で権力があっても、霊界での地位は、お金や権力や影響力によるものではなく、どれだけ愛の能力を開発できたかだけで決まるので、現状は一時的なものに過ぎず、霊界でそれを維持することはできない。
この世の主だと思いこんでいた者たちが霊界に移動し、現実をありのままに見て、自分のせいで死んだり苦しんだりした者たちが、霊的には自分よりも上のレベルにいるのを見れば、なんという失望を味わうことだろう!国家元首は凱旋で礼遇されなどしない。その反対に、悪行の報復をしたがっている、大勢の劣った者たちが待ち構えているのだ。自分が招いた苦しみの分だけ、苦しみを受けるのだ!
結果として、不具や貧困や飢餓、その他の困窮と辛苦を味わう羽目になった、武力抗争の犠牲者には何と言ってあげられますか?
物質的なものを喪失することや、肉体の命ですら失うことに執着してはならない。それらはすべて、仮初めなものだ。
君たちは不死で、誰にも君たちを殺すことができない、と思い出すのだ。君たちが本当の生である霊界に戻った時には、そんなことはどれもどうでもよくなる。そこでは、すべての苦しみが癒されて、すべての傷も治されるのだ。そして、愛のみが重要となる。
経験した災いのすべてが、同胞の苦悩に敏感になることに役立ち、同じ経験を二度と誰も繰り返さないないようにと願えるようになれたのであれば、それは結果として、愛せるようになったということで、たとえ僅かであっても無駄ではなかったのだ。
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魂の法則 Part13【愛の法則】
魂の法則 Part1【序文】
魂の法則 Part2【最初の出会い】
魂の法則 Part3【神】
魂の法則 Part4【霊的世界】
魂の法則 Part5【進化の構図】
魂の法則 Part6【人間の構成形態】
魂の法則 Part7【人間の転生とそれが霊性進化に果たす役割】
魂の法則 Part8【霊界との交信】
魂の法則 Part9【転生のプロセス】
魂の法則 Part10【他世界での生】
魂の法則 Part11【自由意志の法則】
魂の法則 Part12【霊的裁きの法則】
魂の法則 Part13【愛の法則】
魂の法則 Part14【愛VSエゴ(我欲)】
魂の法則 Part15【虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)】
魂の法則 Part16【エゴ的感情】
魂の法則 Part17【人間関係と「愛の法則」】
魂の法則 Part18【「愛の法則」から見た病気】
魂の法則 Part19【イエスの地上での使命】
魂の法則 Part20【別れ】
魂の法則 Part21【あとがき】