虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)
あなたが、虚栄心(見栄)、自尊心(プライド)、自負心(尊大)と呼んだエゴの三つの顕現形態のそれぞれの特徴について、さらに詳しく説明して下さい。
いいだろう。虚栄心、自尊心、自負心というふうに、最も低俗なものから巧妙なものへと、少なくとも三つの形態にエゴを分類することが可能だ。
我々は、通常の会話の中でこの三つの言葉を頻繁に使用しているが、これから見ていくように、霊的な概念はずっと幅広く奥深く、多くの面で通常使用する意味とは異なっている。これからその一つ一つを定義して、顕現形態を分析してみよう。
では、虚栄心とはどういうもので、どんな顕れ方をするのでしょうか?
虚栄心はエゴの最も原始的な形態だ。これは、若い魂と、知的面では充分進歩したにもかかわらず、感情面ではまだ初心者の魂に特有なものだ。
虚栄心の最大の特徴は、自分本位なことだ。特に自分が必要とすることや基本的欲求を満たすことに熱心で、他者の必要性にはほとんど、あるいは全くというほど関心を示さない。多くの場合に、他者の自由意志を侵害していることには気づかず、自分の意志ばかりを優先しようとする。
見栄っ張りな人は自分が中心であろうとして、他の人たちから注目されることを望む。愛をほとんど知らないので、真の愛とおだてとの違いがよくわからない。愛よりも要求が多い。それゆえ、人間関係では、愛され愛することよりも、知名度や賞賛や賛美を求め、おだてられたり自分の要望が叶うことを好む。
見栄っ張りな人は常に自分と他者とを比較し、いつも人よりも上位に立とうとする。能力や物的面で自分より下だと見なした者を馬鹿にしたり蔑むことが多く、自分にとって有益だと思う人を過剰に賞賛する。
常に自分の利益を優先し、不公平な行動を取ることが多い。そして、利己的な行為をカモフラージュしようと、しょっちゅう事実を曲げる。感情が未発達なので自分自身に不満を覚えることが多く、孤独になるのを極端に嫌う。
頼れる人がいないと困り、必要なことだけでなく趣味や気まぐれまでを満たしてもらおうと相手を思い通りに操ることが多く、周りの人を肉体的にも精神的にも縛り付けてしまう。しかし、期待通りにしてもらえなければ、すぐにその人間関係に飽きてしまう。そのため、家庭では伴侶や子ども、仕事では部下などの弱者を自分から逃れられない所有物のように見なし、好きなようにこき使うことがしばしばである。自分に値すると思っていた注目が得られない場合には、被害妄想や攻撃、脅しや嘘など、思いつく限りの策を弄し、いかなる手段や代償を払ってでも注意を引こうとする。
この欠点が顕著に顕れると、そのネガティブな息詰まる波動で周りの人びとを消耗させてしまう。だから、虚栄心というものを知らず、どうあしらっていいのかわからなければ、それに長い時間耐えられる人など滅多にいない。
これが、彼らには知り合いは多いのに、あまり友人ができない理由だ。誰も何もせず自分だけがどれほど頑張っていることか、としょっちゅう自慢するにもかかわらず、努力が要ることにはすぐに飽きて、他者に責任を負わせようとする。
私心なく人にさりげなく尽くすことは稀で、いつもそれを誇示し、一般的に自分の行為以上の返礼を見返りに求める。見栄っ張りな人は善い人になるつもりはなく、そう見せかけようとしている。
それなら、そんな人があまりいないことを願いますよ。
実のところ、人類の4分の3はまだこの初期の進化段階にあり、君たちの世界の政治家層の一番の欠点が虚栄心なのだ。もっとも、自認できること自体がより進歩していることになるので、今話したことが自分に当てはまると言う人はいないと思うがね。君たちの惑星がこんな状態なのも、そのせいだ。
そんなふうに利己的な人と暮らすのは、耐え難いでしょうね。
このようなものや、もっと目立たないエゴから、君自身が無関係だとでも思っているのかね? 進化していない人と一線を画そうとして、理解しかねると言い切ること自体に、君自身のエゴがチラついている。
虚栄心の段階は、その後の自尊心と自負心という段階と共に、完全性への道程において、すべての魂が一つ残らず通過しなくてはならないものだ。
これらの段階を超えられた者は、ある時点で自分の欠点に気づき、克服の努力をしたのであり、高次の人の見習うべき手本のお陰でそれを成し遂げることができたのだ。進化した魂たちが自分たちだけで前進して、進歩の遅い同胞を見捨てたとしたら、一体どんな愛を育んでいると言えるのだろうか?
このように露骨な説明をしてしまうと、大変手厳しく思えるだろう。しかし私には、誰かを差別したり除外する意図はなく、君たちが虚栄心というエゴの形態を理解し、その知識を自己改善に役立てるよう望んでいるのだ。
この場合は、虚栄心になって顕れるエゴのことですが、魂は、自分のエゴをどのように自覚して、克服していくのですか?
通常は、自分と似たレベルの者の利己的な行為を、身を持って痛感することによる。「霊的裁きの法則」は、他者の行為を通してであろうと、各人を自分の行為と向き合わせ、自己改革のために最大の恩恵が得られるようにする。
魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようになる。その者に対して芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。
魂は、自分の行為が生み出した苦悩を必ず実体験して、それらの行為が他者に有害であった、と学ばねばならないのですか?
いや、自分の行動が他者に与えた害を自覚でき、自分の過ちや他者の経験から学ぶことができれば、理解したことになるのでその必要はない。しかしそのためには、感性や愛が充分に発達していなければならない。なぜなら、愛がある場合にのみ、他者の気持ちを苦悩も含めて、自分のことのように感じられるからだ。
初歩段階の魂の場合は、自分の利己的な行為を自分自身が味わって苦しんだ方が、速く進歩することができる。一方、愛を育むことができれば、自分の過去の体験や他者の体験を理解することで、もっと速く進歩できるのだ。
理解によって、虚栄心を克服するにはどうしたらいいのですか?
最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。
自分の欠点を認識したからと言って、それが表面化しないようにできる訳ではない。自覚し認めるだけではなく、エゴに従った行動を避け、その言いなりにならずに気持ちに従って決断するなら、エゴは次第に力を失い、最終的には克服されるだろう。自覚すれば、虚栄心がどういうものかを深く認識でき、それがどのように自分に顕れ、何によって増長されるのかを知ることができる。
幸せになるためには、周囲の注目の的となるのが重要で、皆から褒めたたえられたりちやほやされて、喜びや贈り物や注目を山ほど貰うのがいい、と信じることで虚栄心は増大する。
虚栄心は、幸せになるためには、物であろうと人であろうと身の周りのすべてのものを所有する必要がある、と自分にも他人にも思いこませるように現実を変えてしまう傾向となって顕れる。
虚栄心は、進路にあるすべてのものを吸いこむ掃除機みたいに自分に溜めこみはするが、持っているものを何一つ評価しない。それは、見たところ世界一素晴らしくそれなしには幸せになれそうにないおもちゃを買ってくれと、地団太踏んで親に要求する子どものようだ。だが、おもちゃを手に入れると何分とも遊ばず、すぐに飽きて壊してしまう。
したがって、感情を呼び覚ます努力をせず、自分の気まぐれを満たすことばかりに夢中でいる限り、彼らは常に不満、空虚、不幸であり、他者から愛されてもそれがわからず評価もできない。
自分自身の努力や意志によって成し遂げることでなければ、それを本当に理解して評価することも楽しむこともできないが、虚栄心の強い者は、何に対してもほとんど努力をせず、他人が自分のためにしてくれるのを望む。
目的を持った場合には、外見的、物質的、表面的なものが多く、魂の内面的目標であることは滅多にない。
見栄っ張りな者は、自分で火を起こすのが面倒なので、いつも隣人の焚き火で暖を取る人に似ている。常に他人に依存し、自分自身では何もしない。自分に独自の火を起こせば、他人に頼って暖まる必要はない。この火は、霊的次元では愛の炎であり、魂を慰め暖め、進歩して本当に幸せになる力を与える。
でも、幸せになろうとして成功を求める人は大勢いますが、彼らに言えることはありますか?
自分自身を偽っていると言いたい。成功は虚栄心を満足させるが、感情にとっては落とし穴となる。幸福を勝ち取る唯一の方法は、自分を愛で満たすことだ。
理解を通して虚栄心を克服するにはどうするべきかを、短くまとめていただけますか?
いいだろう。虚栄心の強い者が欠点を克服する第一歩は、幸福は外部にあるのではなく、内面次第なのだと理解することだ。
我々全員が学ぶべき大切な教訓は、真の幸福とは、他者が自分を愛するかどうかで決まるのではなく、自分が愛せるかどうかによるということだ。だから幸せになりたければ、他者が自分を愛してくれるのをがむしゃらに求めるのをやめ、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなさい。
見栄っ張りな人にはどう助言して、自己進化に役立ててもらいますか?
他者の賞賛や慈しみ、成功や信任を得ることでは、絶対に幸せになれない。
自分の人生に不満足で、孤独感や虚無感があるとしたら、不幸の原因を外部に探さないことだ。原因は外にあるのではなく、自分の中にあるからだ。外因を探してる限り、満ち足りることはあり得ないので、他人の火で暖まろうとしてはいけない。他者が君のためにしてくれたり、してくれないことに左右されていないで、自らの炎を起こしなさい。
利己主義は脇に置いて愛しなさい。内面の虚無感を満たす唯一の方法は、無条件に愛することなのだ。
今言われたことは、前に話されたことと矛盾しているようです。他者から愛されることを放棄したとしたら、どうして自分を愛せるのでしょう?
説明が良くなかったかもしれない。愛されるのを放棄する必要はない。間違ったやり方で幸せを求めている、と言いたいのだ。天秤の片方の皿にだけ重りをかけて、均衡を保つように要求しているのだ。
どういう意味かがはっきりわかりません。理解できるように例を示して下さいますか?
いいだろう。世界にあるすべての愛を分配するために、全人類を巨大な広場に集合させたとしよう。そしてまず、「愛が欲しい人はいますか」と聞くのだ。すると、100%の人が「私だ、私だ。最初に私だ。私が最も必要としている」と訴えながら手を挙げることだろう。
しかし次に「愛を与えようという人はいますか」と聞けば、広場はすぐに空っぽになり、手を挙げようと居残る者は僅かだろう。
分け与えることができるものは何か?少数の者が与える愛だけだ。
これが君たち人類に起こっていることで、大半は愛を受け取るつもりしかないので、世界を支えているのは僅かな者の愛なのだ。しかも大半の者は、愛を受け取っているのではなく、主にエゴを満足させているだけなのだ。
我々は主体性に欠け、愛が外からやって来るのを待っている。外部からの愛が、あたかも魔法のように我々に達して幸せにしてくれて、秘薬のごとく何をする必要もないと思いこんでいるのだ。しかし、必要なものをすべて受け取っても受身であり続けて、エゴを克服しようと努めないのであれば、内面のすべてを与えて君を愛してくれる存在が現れても、「まだ足りない。僕はまだ幸せではない。もっと愛してもらう必要がある」と言うだろう。そして、絶対に内面の虚しさを満たすことができないので、もっともっと、と要求する。
人がくれたものは決して評価せず、貰っていないものばかりにこだわる。人生のどんなに些細な障害であろうと、文句の口実となる。朝起きた時に、曇り空なら寒いとぼやき、天気が良ければ暑いと愚痴るのだ。
これは、幸福の求め方が間違っているからだ。自他に対して能動的に呼び起こす愛のみが、空虚な感覚を満たすことができる。それゆえ、幸せになるためには、愛を受け取るだけではなく、愛を与える必要がある。
虚栄心の問題に戻りますが、虚栄心の段階にいるすべての人に同じ特徴があるとは言えないと思うのですが。
同じ特徴ではなく、虚栄心には様々な段階がある。
虚栄心の初期の段階では、エゴは、強欲(自分の持っているものを他者と分かち合いたくない)、貪欲(他者を犠牲にしてもどんどん欲しがる)、羨望(自分が欲しがる物的なものを持つ人を拒絶する)といった、より原始的で物質的な顕れ方をする。
魂が感情面を認識して進歩した次段階では、物質的な利己心は、霊的なものへと変化する。この段階での魂は、まだエゴにしがみついてはいるが、同時に感情も発展させ始めている。まだ愛を与えようとはしないが、愛の存在を認知し心地良いとわかっているので、愛を受け取ろうとする。
強欲が執着(特定の人からの思いやりや愛を他者と共有したくない)に変わるのはこの時で、貪欲は独占(皆が自分だけに注目して優しくしてくれるのを望む)に変わる。一方、羨望はもっと上手く化けて、自分にはないが欲しいと思う美徳を持つ人たちに対する反感へと変わる。
感受性が強くなって正義の概念はもっと発達するものの、エゴから離れられていないため、損得が絡むと、故意に自分の得になる不公平な行動を取ることが多く、自覚している分だけ余計に罪深いと言える。
根本的にどのように進歩すれば、虚栄心の段階を克服したと言えるのですか?
虚栄心と自尊心とを区別する主な進歩は、魂の愛を目覚めさせることである。
虚栄心の強い者は一方的に愛を受け取るだけだが、自尊心の強い者は、もう愛の送り手となれる魂である。それは、かなりしっかりと主体的に、本当に愛することができる能力を獲得したことを意味する。
虚栄心の強い者は愛することができない、または愛を体験したことがない、ということですか?
もちろんそうではない。すべての魂は愛することができる。実際、自尊心のレベルに達した魂は、すべてがそれ以前に、虚栄心の段階を経ている。
また当然のことながら、一夜にして愛の発信者となったのではなく、愛の炎を灯すか消すかという、感情の発露とエゴとの葛藤が長く続いた期間があったのだ。
虚栄心の強い者の炎は弱く、絶えずついたり消えたりを繰り返す。感情面で努力する確固たる意志に欠け、利己的な気まぐれを満たすことにまだ一生懸命なので、炎を育むことに力を注がないのだ。別の言い方をすると、虚栄心の強い者がまだ自分の炎を灯せず活性できずに、他者の火で暖まろうとする一方で、自尊心の強い者は、すでに自分の内面に炎を起こす方法を発見している。また、その火が力強く燃える時に生じる真の愛の片鱗を認識し経験したことがあるので、より鮮明な体験ができるように、確固たる意志で炎が消えないように努力している。
それでは、魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか?
自分自身の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。
虚栄心の強い魂は、通常、身近に転生した愛の送り手となるもっと進化した魂によって、手ほどきを受ける。それは自分の伴侶であったり、父親や母親、息子や娘、兄弟や姉妹などの家族である。多くの場合、他者が自分に尽くすことに慣れ切っている進化の遅い魂は、その時点では与えられていることを自覚できずに、もっともっとと要求し・・・・・、遂には失う羽目になる。
その時になって失われた愛を懐かしみ、かつての愛を再び味わいたいと願い、愛されていたのに評価できなかったことを自覚し認識し始める。この欲求によって、自分をそれほど愛してくれた人たちに対する最初の感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。つまり、人が愛を与えられるようになるには、最初に愛を受け取れなければならない。
要求ばかりしていた魂は以後の転生では、自分より進化の劣った者と身近に共存する体験を課され、過去に他者に求めたのと同じように要求されるであろう。こうして、他者の利己的な行為の中に自分のエゴを認識し、自分自身と向き合うことになるのだ。
この学習は、愛の受け手または送り手という、主な役割を転生ごとに交代しながら、数え切れないほど継続することもある。送り手として与えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。
愛の道を歩むのか、それともエゴの道を続行するかは、魂の意志次第なのだ。
虚栄心の段階を超えた魂は、他にはどんな進歩ができたことになるのでしょうか?
虚栄心から充分に解放され、完全に自尊心の段階に入った魂が成し遂げたことを大まかに説明しよう。
それは、しっかりとした愛の送り手になり、感情を理解できる魂になったことで達成できたものだ。
- 何よりも正義の概念がもっと進歩している。
- 自尊心に達すると、外見的なものよりも本物で公正なものに気づき、より公平に行動する。
- 不平等になりそうな場合は、自分が得しようとはぜず、他者が被るであろう損害も考慮して決断する。
- もはや、ちやほやされたいとは思わず、真に愛され愛することを求める。
- プライド(気位)の高い者が獲得した見栄っ張りとは反対の資質は、控えめになることで、目立つことはしようとせずに、公正で寛大であることに満足を覚える。
- 自分が愛する者には寛大である。それゆえ、人間関係においても注目の的になろうとはしない。
- 百の表面的なつき合いよりも、一つの本物の友情を望む。
プライドの高い人は、見栄っ張りな人よりも霊的に進化しているので、進化の仕方も速いということでしょうか?
そのようなことはない。進化の速度は、エゴから脱却して愛そうとする、魂の意志と力のかけ方によるのだ。
自尊心の強い者でも進化が止まってしまって、多くの転生で停滞したままになることもあるし、虚栄心に満ちた者でも大いに努力して、素早い進歩を遂げることがある。
だが、感情面の知識や自覚が大きいので、進化した者の方が能力があることも確かだ。彼らは進化しようとする意志がより一層固く、停滞すると苦しみが募るので、その不快感に後押しされて前進する。
多くの転生経験を持つ進化した魂と、まだ若くあまり進化していない魂とを比較することは、7歳の子どもと15歳の若者に同じ知能検査をして、その結果の有効性を信じることのように、馬鹿げている。7歳の子どもがどんなにIQが高くても、普通は15歳の方がいい結果を出すだろうが、それは、その子の方が年上で学習にかけた時間が違い、肉体的にも精神的にももっと発達しているためで、比べることには何の価値もない。
それゆえ、他者と進化度合いの比較はするべきではなく、自分自身が前回からどれだけ進歩できたのかを比べるべきだ。進化のレベル差は、どれだけ速く学んだかだけで決まるものではなく、魂がどれだけの時間をかけて進化してきたのかにもよるからだ。
霊的な年齢は人それぞれだが、一般的には、古い魂の方が若い魂よりも進化している。それは進化にかけた時間がその分長いからだ。
しかしながら、若い魂が大変速く進歩して、自分より年上の魂を追い抜くという特別なケースもあるし、その反対に、大変古い魂が霊的に長時間停滞してしまって、もっと若い世代の魂に追い抜かれるということもある。
進化レベルと進化速度との違いがはっきりする例を出していただけますか?
同地点からスタートする二台の車のうち、一台が、もう一台よりも一時間早く出発するようなものだ。初めは二番目に発車する方が遅れているが、もっとスピードを上げれば、いずれ一台目に追い着けるだろう。
走った距離が魂の進化レベルに相当し、速度がその時々の進化のリズムだ。
自尊心の問題に戻りますが、自尊心とは何で、どういう顕れ方をするのでしょうか?
自尊心の強い者の最大の問題は、他者に感謝されなかったり、利己的に振る舞われたり、愛してもらえないことを、なかなか受け容れられないことだ。特に、愛情の絆を築いてしまった場合は、そうすることが難しい。
プライドの高い者は、自分を愛してくれる者は容易に愛せるのだが、自分を愛してくれない者を愛することがまだ難しい。そのため、自分が好きな者をあるがままに認めようとはせず、その美徳にも抵抗があるが、特に欠点は認めがたい。
また、自分の考えが間違っているかもしれないと認めるのが、本当に難しい。
報われない愛、すなわち、どんなに愛しても利己的な態度を改めてもらえないことが、我慢できない。両親、兄弟、伴侶、子どもなど、非常に身近な家族の場合は、特にだ。彼らを変えようと自分が努力して変化を期待するのだが、何も変えられないと絶望し、気落ちして怒ったりする。
思いやりのあるちょっとした態度を示されると意のままになるのに、操られていたと気づくと激怒し、その人に恨みを抱く。
表面的には自分の行為の代償は求めていないが、感謝されなければ、たとえば、相手を助けようと一生懸命やったのにその代わりに殴られたりすると、気持ちをどう整理していいのかまだわからない。そのため、プライドの高い者が感謝をされなかったり、失恋したりという目に遭うと、自尊心が次々に形をとって顕れる。感情を害されたり傷ついたりすると、自分の殻に閉じこもり、人間関係から孤立する。そして、怒り、憤り、無気力、意固地、恐れ、罪悪感が目覚める。
自分の奥深い感情を傷つけられるのが怖いので、気持ちを表現するのを恐れ、感情や情動を隠そうとする傾向がある。憐れみの対象になりたくないので、否定的な感情は抑圧し、弱みにつけこまれ傷つけられるのが嫌なので、他人に弱さを見せようとしない。一方、見栄っ張りな人たちの嫉妬を買って睨まれたくないので、肯定的な感情も抑制する。肯定的な感情を抑制しがちなことで、彼らは不幸な気持ちになる。
否定的な感情を抑圧したり隠したりして黙って耐えると、突発的に、激怒、憤り、怒りなどが爆発してしまうが、その後で罪悪感を覚える。
人を信用せず、いかなる問題も自分だけで対処できると思いこむ態度が、最も他の人たちから孤立させることとなる。
自尊心が最も有害な形で顕れるとどうなりますか?
自分には、真に愛されたり愛を受ける価値がないと信じこんで、愛することも無意味だと思うようになる。これは、自分自身で孤立してしまう態度で、寡黙で無気力、臆病、陰気、憂鬱で怒りっぽく、生きる気力のない人へと変貌させてしまうこともある。
前に、虚栄心の強い者は愛されてもそれを評価できないと言ったが、自尊心の強い者は、愛されることを拒んでしまう。だから、どちらの理由であろうと、その人たちは欠点のせいで、愛されていても愛されていると感じられないのだ。
虚栄心の強い者は、愛情を受け取るよりも、自分のエゴを満たしてもらうことに夢中だからだ。そして自尊心の強い者は、傷つけられるのを避けようと自分の殻に閉じこもってしまい、どんな愛情ですら受け取ろうとはしないからだ。
それは子どもの時から、僅かな注意を引くために、あらゆることをする必要があったためかもしれない。だから、もっといいことはないし、あるがままに愛されることもない、と自分を納得させてしまったのかもしれない。
そしてどうなると思うかね? 自分が何をするかに関係なく、無条件にあるがままに愛してくれるという人が現れると、驚いて自分の内に隠れてしまうのだ。ただ単に信じられないので、拒絶してしまうのだ。
「私を利用しようとせずに、愛してくれるなど信じられない。これはきっと罠に違いない。受け入れようと心を開けば、きっとグサッと刺されて、もっと苦しむに違いない。だから心を開く甲斐はない」と思うのだ。
こうして幸せになるために必要とされるものがあり、それを評価できるにもかかわらず、プライドが高いとそれを拒んでしまう。そして、苦しみたくないと苦悩し、感情を優先しなかったことで苦しむ。
自尊心を克服するにはどうしたらいいでしょう?
虚栄心の場合と同じで、最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。欠点を認識してそれがどのように具現するかの知識を得ただけでは、その出現を防ぐことはできないが、認識できさえすれば、人生で決断を下す際に、自尊心に従った行動を回避する助けにはなる。我々が心が命じるままに決断するとしたら、自尊心は徐々に弱くなり、最終的には制覇されるだろう。自覚すると、自尊心とは何か、自分にどのように顕れるか、何がそれを増長させるのかを深く知ることに繋がる。
自尊心は、恐れや不信と自己充足から発展し、孤立や感情の抑制という形態で出現する。自尊心は、魂の感受性にとっては鎧のようで、難攻不落の城壁のごとく魂を取り囲み、感情の出入りを妨げる。それゆえ、この鎧を剥ぎ取る努力をせねばならない。
プライドの高い者が自尊心を克服するために最初にするべきことは、自分には愛される資格はないし本当に愛してくれる人に出会うこともない、という思いこみから自由になることだ。真の相思相愛を求める者は、遅かれ早かれそれを見つける。似通った魂はお互いを探し求めるし、出会った時にお互いがわかるからだ。
だが、悪いことから身を守ろうとして扉をピッタリ閉じてしまうと、固く閉じ過ぎたがために、善いことも経験できなくなるので、辛抱強く揺ぎない努力が必要だ。危害が及ばないように慎重になるのは良いが、感情を放棄しては駄目なのだ。
忘恩を忘恩で返したり、憎しみを憎しみで、恨みを恨みで返すのも良くない。我々を苦しませることは、他者をも苦しませるからだ。感性が発達して苦悩をよりよく理解できた者は、自覚がないままに苦痛を与える者よりも、苦しみを生み出す責任が重い。
すでに言ったが、繰り返しておこう。君たちは独りではないのだ。我々は一人残らず全員が、神や守護霊やその他無数の霊的存在や友人、そして肉体の有無を問わず霊的な家族に、深く愛されている。しかもそれだけではない。つまり君たちの一人ひとりには、魂の伴侶である双子の魂が存在し、それを介して、純粋な無条件の愛の目覚めを体験するのだ。ただ、そのことを自覚すればいいだけなのだ。
また、自分を傷つけた恩知らずでも、赦すことを学ばねばならない。プライドの高い者は、まだ気づいていない者を理解する力があるので、かつては自分も同じ状態であったと認識すべきなのだ。
同時に、本当の自分自身になる恐れを手放さなくてはならない。
口では愛していると言いながら、従わせたいだけの人が仕掛けた罠からは自由にならねばならないが、反対の道を選んでもいけない。つまり、苦しみを恐れて、人間関係で孤立するのも良くない。
愛して欲しいと望むのは悪くはないが、皆の愛の能力が同じではない、と知っておかねばならない。報われたいがために、親族だからとか一緒に暮らしているからという理由だけで、相手に自分と同じ強さで、愛したり尊重してくれるように要求してはならない。
愛が与えられない場合に、もっと責任が重いのはどちらだろう? 愛することを知らずに愛さない者(虚栄心が強い者)か、それとも愛せるのに欠点のためにそうしない者(自尊心の強い者)だろうか? 自己の自由意志を放棄してしまうことになるのであれば、他者を喜ばせるために過大な努力をしないことも大切だ。相手のまだ目覚めていない感情を覚醒できると信じて、報われないのに過剰な努力をすると、いずれ失望や悲しみ、幻滅や苦々しさ、怒りや無力といった形のつけを払わされる。
すでに言ったが、真の愛は、何の見返りも期待もせずに無条件に与えるもので、お返しする気のない人や全く与えることのできない人に、愛を強要することはできないのだ。
進化に役立ててもらえるように、プライドの高い人に簡潔に言えることはありますか?
悲しみや虚しさを感じる時には、自分自身に閉じこもらないように。
感じさえしなければ苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧してはならない。そうすればもっと苦しむことになるし、解消できない不毛な苦悩となるからだ。
考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分の気持ちに従うこと。
人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。
人の意のままにならずに、他者を傷つけないようにするにはどうしたらいいのですか?
相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人自身のエゴ、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのかを知る必要がある。
我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、相手のエゴのせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思っていても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。
でも、その人が変わなければ、どうしますか?
その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではない。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分の感情や信念を曲げるべきではないのだ。
たとえば、ある人といざこざがある場合に、相手がその人自身のエゴで苦しんでいるのか、それとも僕の利己的な態度によって苦しんでいるのか、どうやって見分けられるのでしょうか?
相手の立場になって、どう感じるだろうか、その状況でどうして欲しいだろうかと分析してごらん。自分が発信者または執行者となって行おうとしていた行為についての判断が、その行為の受け手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利己心や不公正な部分があったということだ。送り手としても受け手としても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。
でも大抵のケースは様々だ。つまり、両者に利己的な部分があり、双方が自分のエゴを改めねばならないのだが、エゴによらなければ確固とした態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。
最終的には「自分にして欲しくないことは他者にしてはならない」と「苦悩の原因であり意志の侵害だと知っていることを、他者が、自分や自分の庇護下の者にしないように尽くせ」という金言に要約できるだろう。
よく理解できるように、例をいただけますか?
よろしい、例を挙げよう。教育の一環として子どもを叩く母親を想像してごらん。子どもに与える肉体的、精神的苦痛を考慮していない母親によると、それは、子どもを従わせる方法だそうだ。もし本当にその方針が正しいと信じているのなら、自分が夫に殴られることも問題なく容認できるということで、彼女が子どもに使ったのと同じ論拠を夫が持ち出して正当化しても、承服できることだろう。だが誰でもそうだが叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、当然だが非常に苦痛なので夫が殴り続けることには同意しないであろう。
この母親は、夫に殴られて痛いのであれば、彼女がそうする時も子どもは同じように痛いだろうと気づくべきだ。そして現実から学ぶ気があれば、叩くことは苦痛を生み正当化できないので、それ自体が悪いことだという結論に達するであろう。
この女性には、どんな解決策があるだろうか? 子どもに対する暴力の行使を放棄するのだ。そうすることによって、自分自身のエゴを克服し、力づくで弱者の意志を曲げようと懸命になることもなく、同時に、自分の自由意志を踏みにじる、暴力的で利己的な夫の支配から逃れることに力を尽くせるのだ。攻撃する者がいじめる対象を失って苦しむのであれば、それは相手に苦しめられているのではなく、他者の意志を力ずくで曲げたいというエゴを放棄するのが嫌なだけなのだ。
先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われましたが、誰かを愛すると、その人が幸せでいられるようにあらゆることで喜ばせてあげようとすることと、矛盾しませんか?
喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違いで、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。
愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。
喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言うのは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてしまって、喜ばせたのは相手のエゴだけだった、ということもあるからだ。
しかも、自分の自由を失って、相手のエゴに自分の意志を服従させて機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。
それでは、手助けと機嫌取りとを、どう見分けるといいのでしょうか?
自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばすだけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。
真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるように、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。
援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さいますか?
そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラスの二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、その間子どもは楽しく遊んでいる。
もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びをやめなくてはならなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあげることにする。
最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取ってはいるが、宿題は子どもに課された状況であり、その子の学習に必要なものなので、援助をしてはいない。この父親は、息子が怠惰で依存的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を求めるようになることに加担してしまっているのだ。
二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子が怒る可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子どもが学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助していることになる。
それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか?
いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担してしまう場合が良くないのだ。
自尊心についてに戻りますが、自尊心の段階を超えた魂は、どんな進歩を遂げたことになるのですか?
- 魂はもっと自信に満ち、自分の感情を自覚し、幸せに生きるためには心の声に従って生きねばならないことを認識している。
- 自分をありのままに見せることを、以前ほど恐れない。そのため、以前より打ち解け、明るく、自然で自由で、感情の防壁が少ない。
- 自分の内にこもらなくなり、感謝をされなくても気にしなくなる。
- 他人に、より共感できるようになる。
- ご機嫌取りに過大な努力を払わない、つまり、人の思い通りにされることが少なくなり、簡単に言いなりにならないので、恨みや怒りを覚えることも減る。
- 愛しても見返りを期待しなくなる。
- 心を開いて自分に向けられる他者の愛を感じ取り、心を許して自分の愛を他者に与える。
- 否定的な状況にあまり影響されなくなり、以前より受け容れることができる。
- 肯定的なことをもっと楽しめるようになる。
自尊心から次の自負心への移行を決定づけ、両者を別々の段階とするものは何ですか?
自尊心の強い者は、愛を与え受け取る能力があるのに、傷つくのを恐れるがためにその両方を抑制し、自分の周りに無感情という鎧を作ってしまう。この無感情という鎧が、プライドなのだ。
この鎧をほぼ完全に消滅できることが、次の段階への移行となる目印だ。
無条件の愛への道のりの、最終過程に到着しつつあるようですね。
まだそうではないのだ。
魂が自分の抑圧や恐れから充分に解放され、感謝されないなどの否定的な態度を受容できるようになったとしても、その過程を完全に克服できたことにはならない。自尊心を乗り越えた魂はまだ、自尊心が進化したもっと巧妙なエゴの形態である自負心を克服する必要がある。
では、自負心というものが何で、どういう特徴があるのか説明して下さい。
自負心とは自信過剰から尊大になることで、君たちが誤って「自己愛」と呼ぶものが過剰にあることだ。この段階の魂に残された二つの克服すべき主要課題は、謙虚でないことと、執着、つまり愛する者の愛を分かち合うのが困難なことだ。
自信過剰で尊大になると、他者を必要とせず、すべてにおいて自己充足的である。
他者を助ける気はあるが、助けを求めるのは弱さの証拠だと思う欠点があるので、本当に助けが必要な時でも自分から援助を求めることは稀である。そして、人に知られまいとする。
自分の必要性や弱さや欠点、気落ちしていることなどを隠しがちで、「どうしたの?何かできることはない?」と聞かれることがないように、誰にも気づかれないようにする。そして気づかれると神経質になり、自分が自己充足できていないことを認められずに腹を立てる。つまり、不信感、怒り、不遜が表面化するのだ。
自負心のある者は自尊心の強い者よりも感化されにくく、忘恩で報われても傷つくことも少ないのだが、中傷されたり裏切られたと感じると、自分の計画通りにいかなかった時のように、怒りと不遜が頭をもたげてくる。
たとえば、理解して助けてあげようとしている者から軽蔑されたりバカにされたりすると、怒りと不遜が目覚め、「俺が誰なのかわかってるのか」とか「よくそんな真似ができるな」、「そんな口を叩くなんて、一体何様のつもりだ?」などと返答をする場合がある。
謙虚になれず、感謝されないことや侮辱を受容できない場合には、他者を種別して偏見を持ったり、接し方を変えたりする。自分のエゴを自覚し克服できなければ、助けて欲しいと近づいてくる人がいても、不信感に支配されてしまう。自分の偏見で特定の人が苦手になり、それぞれの必要性に応じて公正に平等に援助するのではなく、各人への不信感や恐れや不得手の程度などで判断することとなる。自負心のある者は独りでも平気だと思っているが、認め難くても実際には皆と同様に、幸せになるためには、愛し愛されていると感じる必要がある。
そのため、感情面で自信がなくなると、独りで大丈夫だという外面が崩れてしまう。確信していた愛を失う恐れは、不信感を募らせ、悲しませ、絶望的で無気力にする。こうなるのは、まだ執着心に苦しんでいるからで、愛する者の愛を共有するのが困難なためだ。
僕には、ごく普通の反応に思えますよ。愛する者の愛を失うのが怖いのは、皆に共通することではないですか?
無条件の愛の経験に至っていたなら、本物の愛は絶対に失われないと知っているので執着で苦しむこともないし、何も怖いものがないだろう。
ではどうやって、自負心の段階を超えるのですか?
繰り返しになるが、愛して理解し、欠点のままに行動するのを避けるのだ。
魂が謙虚さを増し執着をなくすにつれて、尊大でなくなるだろう。そして、謙虚になり執着しないという資質は、見返りを期待せずに他者を心から助けるという、隣人愛の実践を通して発展する。
自負心が強すぎる者が、失望や屈辱を味わうことを怖れて、自分が与えることのできる援助を惜しめば、欠点を増長させることになり、停滞してしまうだろう。だが、自分の怖れや偏見を克服し、気持ちに従って行動すれば、進歩できるだろう。
進化の視点からは何がエゴの起源ですか? つまり、魂の進化のどの時点で、エゴが生まれるのですか?
利己主義は動物的な生存本能の延長であり、魂が自分自身で決断し、自由意志で経験し始める時点で出現する。
進化が人間の段階に達した魂は、自由意志の力を発揮し始めたばかりだ。知能は基本的に発達しているものの、感情面がほとんど発達していないため、本能に影響されて決断することが多く、その中でも生存本能に支配されている。その状態から、感情の学習を通して、自分の意志で決めながら独自の道を模索するという、本能から完全に独立した進化を遂げていくのだ。
少し詳しく答えていただけますか? まだ理解できないのです。
もちろんだ。魂が獲得したばかりの自由意志を行使し始める時は、本能に基づいて行うが、本能は、動物界での進化段階で「魂の原型」が培った知識を集めた生物的プログラムの一種であり、人間の独立意志が発展する元となるものである。
本能は欠陥を補う仕組みであり、まだ自分自身で決定することのできない諸問題に関して、自動的に決断を下してくれるプログラムである。それは自動操縦装置のように、操縦できなくても進路を修正してくれるのであり、まだ機体の舵取りを学んでいる段階でも、衝突せずに運転することを可能にしてくれる。
本能の中には、どんなに過酷な状況下であろうと、肉体の死を避ける手段を探すように転生した魂を駆り立てるプログラム、とも言える生存本能と、種の存続には欠かせない生殖本能とがある。
しかし魂は、同時に、初めての感情的な欲求を満たさねばという未知なる衝動も感じるので、満足はできない。だが、感情について無知であるため、これまで通りに本能を過大に満足させていればいいと思いこみ、他の存在に与える害悪は考えずに知能をそのために使用する。
お話によると、エゴは、進化の発展上に元々備わっていたように思えます。
完全性へと向かう過程において、魂がある程度の期間にわたり利己的な段階を経ることと、それが多くの転生で継続し得るのは避けられない現実だが、それは有益であるとも言えるのだ。なぜなら、自分の個別性や意志を再認識して、愛がない時にどう感じるかを味わえるし、愛を感じられるようになるにつれて、愛がある時の気分をありがたく思えるようになるからだ。
そのため、初期的虚栄心と名づけられるエゴの最初の顕現形態は、若い魂に特有なものなのだが、基本的に物質主義で、最も原始的な本能を充足させることに向けられる。
物質主義と消費主義や快楽主義といった姿勢につきものの貪欲と強欲や情欲が目覚める。そして集団的には、帝国主義や植民地主義、つまり権力や物質的な富を切望して他者を搾取する態度となって現れる。
人類の大部分はまだ霊的な思春期に浸りきっているので、君たちの惑星では未だにこの段階が優勢だ。魂が感情についての知識を得るに従って、このような物質的なエゴは霊的なエゴへと変容していく。それがより発展した虚栄心の段階だ。
その段階でも魂はエゴにしがみついているが、同時に、感情も発達させ始めている。与えることにはまだ抵抗があるが、愛が存在するのを認識できてその恩恵もわかるので、愛を受け取ろうとする。強欲は執着に変わり、貪欲は独占に変わる。だが、それは一夜のうちに変化するのではなく、段階的にそうなるのであり、中間的な虚栄心という過渡期が存在する。
中間期には、エゴのあらゆる顕現形態(貪欲・強欲・執着・独占)が様々なレベルで混在しており、これが現在の地球の支配的な状況なのだ。
これらのエゴのうちの一つから脱却するのにも、計り知れない歳月がかかることがある。しかし魂がエゴを自覚し、それに流されれば他者を傷つけると認識した時から、自己の行為にもっと責任を持ち、自分がもたらす苦悩に関しても敏感になる。するとある時点で、魂は感情に目覚め、愛する必要性を感じ、幸福になるためには愛さねばならないと気づく。
それからどうなるのですか?
愛を追い求め始めるのだ。そして自尊心の段階が始まる。
この時期に魂は、愛を受けるだけでなく与えることも模索し始めるが、多数の障害に遭遇する。感じたり自覚をし始めるが、理解されないことや感謝されないことを身を持って体験し始める。それは、人類の4分の3という大多数が、まだ虚栄心のどれかの段階に陥ったままだからだ。未だに自尊心の前段階の因果を体験し、何が起こっているのか理解できないのだ。
だから世の中全体を敵に回したように感じ、改善して愛し愛されたいという自分の想いが拒絶される気がする。感情的に失望してそれに負けてしまうと、エゴが頭の中で再び勢いを得て、発見したての感情を傷つけられまいと、自分の心を覆ってしまう。そして孤立することが苦悩を回避する手段だと思って、再び不信や内向、孤独に陥る。
苦悩を避けるために諦めるという手段を選ぶ場合もある。利己主義者からの攻撃をかわそうと、その期待通りに自分を変えようとするのだ。霊的な病の中では最悪なものが芽を出し始めるのだが、それは、多くの肉体的な重い病の原因ともなる。つまり、自分の意欲と自由意志を放棄することであり、極端な場合には、魂はありのままに行動することも生きることもできずに、完全に周囲に隷属し、強制されたことを自分が望んでいることだと信じこむに至る。
しかし、これでは苦しみたくないがゆえに苦しむことになり、それは何の霊的な成長ももたらさない不毛な苦悩である。
人類の4分の1ほどが、この自尊心の段階にいる。虚栄心から自尊心のへの段階の移行も突然起こるものではなく、その過程は緩やかであり、かなり長期にわたって両者の欠点が共存して顕れる。
それで、この話はどう続くのですか?どのようにこの段階を超えるのですか?
愛すること、それだけだ。愛のみが自尊心の殻を破れるのだ。
説明した通り、プライドの高い者の方が、見栄っ張りな者よりも理解力があり、自分を傷つける者の仕打ちを受け止められるのだ。つまり、愛のない利己的な者は単に進化途上のまだ若い魂に過ぎず、感情の学びとエゴの放棄には時間かかるので多数の転生が必要かもしれないが次第に学んでいくだろう、と理解できるのだ。
一つの人生で目立った変化が見られなかったとしても、進化していないことにはならない。今生での善人は、前世の知恵を鞄に詰めてやって来た生まれついての善人なのだ。一つの転生でも大きく進歩できるとはいえ、一夜のうちに海賊から聖人に変わるように求めるのは無理だろう。
子どもが一日で話せるようにならなくても、言葉は何年もかけて習得していくものだとわかっていて絶望しないでいられるのなら、幼い魂が愛せるようになるのに霊的に何年かかったとしても何回も転生することだが焦ってはいけないのだ。
それゆえ、感情についてもっと理解できている魂は、たった一度の人生で自分と同レベルに達するように、自分以下の者に要求してはならない。自分も多くの転生と努力を要したからだ。だから、その人の能力と意志力の許容範囲で学べることで良しとすべきだ。かつては自分もそれと同じ程度で、傍らでは、もっと進んだ者たちが、利己的な態度を我慢してくれていたのだと思い出すべきなのだ。
そして、それを全部乗り越えるとどうなりますか?
最大の難関に立ち向かう。それでもまだ謙虚になることと執着を手放す必要があるのだ。つまり、愛情を共有する際に寛容になるという、自負心の段階で乗り越えるべき目標が残っているのだ。
自負心のある魂は、平均的な魂と比較すると大変進化したもので、君たちの若い惑星では僅かだ。大半はより進化した他の惑星を故郷とする魂で、進化にかけてきた時間が長い。地球の平均的な魂よりも、霊的な年齢では何千年も年上かもしれない。
彼らの惑星はもっと発展しているので、事実上不正も存在しないし感謝されないということもないので、自己の欠点を呼び覚ます厳しい状況に遭遇することがない。地球に来るのは、自分の短所を表面化させるにはちょうどいい環境だからだ。地球は不正や忘恩に満ち溢れた惑星なので、これらの魂は自分の欠点と意志力を試そうとするのだ。こうしてより厳しい試練を通じて、より速い進化を成し遂げるのだ。
彼らは能力が高いので、あまり進化していない惑星への転生に際しては、他者を霊的に援助する使命を果たすように要請されることが多い。謙虚さに欠けて愛情の共有が困難である、という自己の欠点を克服するためには、他者を援助して鍛錬することが役に立つのだ。
これまでの説明を伺って、もっとずっと沢山の疑問が湧いてしまったので、それらを明らかにしていただければと思うのですが。特に、情動と感情、エゴの様々な具現形態(虚栄心・自尊心・自負心)に関するものです。それらをもう少し知りたいのです。
遠慮なく質問してごらん。
以前、感情と思考とは起源が異なり、エゴは頭脳から生じると言われましたが、考えるのはそれ自体が悪いという意味でしょうか?
とんでもない。言いたかったことは、感じることと考えることとの区別ができるようになる必要があるということだ。君たちを混同させるような利己的な考えは、頭を介して魂に入ってくるからだ。感情を抑圧しない限り、思考自体は悪いものではない。自分の想いとの調和がとれれば、思考は、その感情を愛の行動へと変容させるための貴重な道具となる。
君たちの世界の問題は、感じないまま考えることを教えたことだ。感情に基づかない思考は、エゴを増長させる。愛における進化とは、エゴではなく感情の力で、思考を修正することを学ぶことにもなるのだ。
お話がまだ理解できないので、例を挙げて下さいますか?
もちろんだ。とっても好きな人に会ったと想像してごらん。君は男性で、彼女は女性で、長いこと会っていなかったとしよう。
その人に対する愛情から君は喜び、ハグしてどれだけ好きだか表現したい衝動に駆られる。しかし、君が性的偏見を持った人たちと一緒にいて、彼らには異性間の深い友情関係が理解できないことも、後で批判され中傷されることになるだろうことも知っていたとする。この不都合のせいで、君は気を変えて感情を抑えこむので、愛する人に出会っても人にどう言われるかを恐れて、そっけない素振りで礼儀正しく握手をするだけなのだ。
この場合、脳で状況分析された思考は、感情を変えてしまったのだ。つまり、最初の感情は喜びであったのに、頭で自制した後に冷淡に振る舞ってしまい、感情を押し殺してしまったのだ。
でも、その人を好きなのなら、不必要に感情を表せば迷惑をかけてしまうかもしれないので、引き合いに出された状況では、慎重にならざるを得ないと思います。批判的な目のない場所で、より適切な瞬間を待って、気持ちを表せばいいと思います。
確かに、慎重は美徳だ。多くの場合、人の意見は理解も尊重もされないので、他者の自由意志を尊重する場合には、慎重でなければならない。だが、怖れに慎重という衣を着せないように注意しないといけない。
慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもしれないが、感情を押し殺すことはない。だが、怖れはそうする。人は怖れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、怖れが頭の中でそれを現実化してしまい、感情の表現を抑えこんでしまう。他者の反応を恐れるあまり、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、感情の抑圧が始まるのだ。
頭はどうして感情を抑圧するような規制をすることになったのですか?
一部はエゴ自体から生じ、残りは幼児期からの教育のせいだ。君たちの惑星での教育は、感情を強く抑制するものなのだ。
長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、頭脳そのものを利用して感情の育成を抑えてきた。子どもたちは、感じたり感情を表現する大きな能力を携えて、あるがままの姿を表現しようと、心を思い切り開いて生まれてくる。しかし、感情や喜びや自発性を抑制され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、小さい頃から愛の代わりに執着を体験させられてきたのだ。
何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何か? 良い子というのは言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、社会の規則や便宜の奴隷であるということだ。
子どもがどうしてそうしなければならないのかわからず、その理由を尋ねた時に「父親の私がそう言うからだ」と返答したことがどれほどあろうか? そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しなくてはならない。命令と厳格さばかりで、自由が少ない。
親や大人に聞かずにしたことは、すべて悪いことになる。笑うことも、泣くことも、話すこともいけないことで、親の許可を得ずに黙っても悪いとされる。「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、言う通りにしなさい。お前のためだ」と言うのだ。
非常に宗教的な社会では、すべてが罪悪だ。いかなる喜びの表現や、ハグやキスといった愛情表現も罪となる。それらすべてに、罪深く、卑猥で、暗く、悪魔的なものを見出し、幸せに感じると罪悪感を覚えなくてはならない。犠牲者を刑吏に、無実な者を罪人に変えてしまう。
そのために子どもは、苦しまずに済む唯一の方法は、感情を殺すことだという結論に達してしまう。本来の自分とは似ても似つかない、他者が求める自己像を世間に示すことを覚える。そして、社会の規制はあまりにも厳しく、演技をし続けないといけないので、大人になると、見せかけてきた自分を本物だと思いこんでしまうのだ。
大半の子どもが大人になった時には、あるがままに愛してもらうことなどなく、ほんの少し愛してもらうためにも必ず何かいいことをする必要がある、という結論に無意識に達してしまっている。
つまり、支配的、条件的、強制的、利己的で偽りの愛である執着を信じ、無条件で自由で自発的な愛を放棄するように、子どもたちを教育してしまったのだ。その結果、愛を信じ、愛に生き、そこから湧き出る幸福をほんの少しでも体験できる人は僅かなのだ。そして、愛がないために、エゴとその忌むべき表現形態が我がもの顔でのさばるのだ。
君たちの世界の悪者の中で、子どもだった時に可愛がられた者は少ない。「父母を敬え」という訓戒があるのに、なぜ「子を敬え」という教えがないのだろう?
君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない子どもたちを愛せば、解決されることだろう。愛せば、愛を許容するだろう。子どもたちを一世代にわたって愛せば、世の中は一世紀も経たないうちに天国へと変わるだろう。
感情を熟知していても、つまり愛の能力があっても、それを抑制してしまって、感情のない冷淡な人として社会に出る人もいる、と言いたいのですか?
そういうことだ。多くの人は、苦しむのが怖く、愛情不足だという弱点を見抜かれたくないために気難しい。そしてそのため、鎧兜の中世の騎士のように、マントや鎧で自分を隠す。
こうして、苦しまないようにすることで、苦しむことになる。苦しむのは、感情を避けて通ろうとするからだ。愛し愛され、幸せになるためには、それは欠かせないのだ。
孤独を恐れる人が大勢いるのは、なぜだと思うかね? それは、本当のところは自分自身と向き合うのが怖く、「自分は空っぽだ」という大きな真実を発見するのが怖いからだ。
そのため自分から逃避して、多くの頭痛の種をもたらす物質的あるいは精神的な対象へと逃げこんだ頭を過度に刺激する娯楽を求めて、真の回答には絶対にたどり着けない言い訳とするのだ。そうして、感情の声を黙らせるほど、頭の声を大きくするのだ。
しかし、良心の囁きを永久に黙らせることは不可能なので、頭脳が油断をしたり、ハプニングやトラウマとなる事件が原因で考えられなくなると、内なる声は再びこう叫び出すのだ。「私は空っぽだ。感じられないから虚しいのだ。見せかけの自分とは違うから虚しいのだ。外見とうわべだけになってしまった。自分自身であることを放棄し、愛し愛されたい存在であることを諦めてしまったので、不幸なのだ」と。
現実を直視するのは、痛みを伴うほど、衝撃的なこともある。この時に多くの者は、事実を覆い隠してしまえば苦しみが軽減し、何もかも元の通りになるだろうと間違った思いこみをして、愛情の欲求を放棄してしまったことをなんとか正当化しようとするのだ。
「人生は私にこんなに辛く当たった!」、「なんて悪い人たちと一緒になったんだろう!」、「両親すら私を愛してくれなかった!」、「なんで私がもっといい人にならないといけないんだ?」などと言うことになる。
そして、憤りや恨み、不信や悲しみ、孤独が彼らを内部から蝕む。
子どもができると、子は弱くなすがままになるので、「人生とはどういうものか教えてやろう」となどと理由をつけながら、自分のフラストレーションの復讐をするのだ。この時に、再び愛のない方向へとネジを締め付けてしまう。
でも、人生でひどく苦しんだ人が、何の努力の甲斐もない、という結論に達してしまうのは、よく理解できることだと思います。
確かに人生とはとても厳しいものなので、心の想いを優先しようとする者は、他者から理解されないがために多くの障害に遭い苦しむだろう。しかしそれは状況による外部からの苦痛で、結果的にその人が感じたり愛せるようになるとするなら、その価値があるものだ。
だが感情を避けて通ろうとして苦しむのは、自分自身が生み出す内部の苦悩で、感情や愛を進歩させることには役立たない。全くその反対なのだ。
人は苦痛に浸りきってしまうと、他者にも痛みを味わわせていいように感じてしまうし、自分が与える損害を考えてみようともしないので、多くの苦悩と苦痛を生み出してしまうことがある。
でも、人は苦しみに慣れてしまうと、苦痛が全く普通のことに思えるのです。多くの人が「苦しみを乗り越えられるだろうか、愛することができるだろうか」と自問するではないですか?
しかし私は、「私が経験した苦しみはすべて、もう沢山だ。自分にも他者にも、もう結構。少しは人生がわかったよ。自分がされて苦しんだことは、他の人にはしないようにする。父母に求めても貰えなかった愛のすべてを、私は、自分の子どもや近親者や人生に現れるすべての人に与えるぞ」と言う人はいないものかと思うのだ。
変わろうという意志と感情の力によってのみ、人生というものは逆転し、憎しみの連鎖を断ち切れる。こうして、固く締められていたネジは緩み始め、愛のない方向へ回されたネジは一つまた一つと反転して行き、最後には完全に引き抜かれる。
苦痛を感じ愛のない状態にいる人のすべてが、このような決断をしたとしたら、世界は一世代で変わるだろう。両親から愛された子どもは、保身の鎧を被らない世代であり、愛されて育てられたので、愛することを恐れない世代となる。
前に言った通り、愛する能力とは、魂が生まれ持った資質である。そのため、誰もにその能力がある。それを発見し、発達させることだけが必要だ。そうだと信じれば、そうなる。そしてすでに言ったように、これは、他者を愛することだけではない。つまり、自分自身を愛することから手がけねばならない。
でも、自分を愛するとはどういうことですか?
もう説明したよ。自分自身を愛するというのは、自分の愛情の欲求と感情とを認め、人生の牽引力となるように、それらを発展させることだ。
それなら、自分自身を愛するのはいいことなのですね。
もちろんだとも。自己を尊重することは、幸せになるために欠かせないことだ。
もう一度繰り返そう。人が放棄しなくてはならないのはエゴであって、愛ではない。自分自身を好きでなければ、どこから他者を愛するために必要となる力と意志とを引き出すのかね?
愛さずに生きるというのは、死んでいるも同然だ。そのため、愛さずに生きている多くの人たちが、死んだら苦悩が終わるのではないかという幻想を抱いていて、死にたいと思うのだ。そうして自分たち自身で、君たちが病気と呼ぶ、肉体の自己破壊の過程を開始する。多くの病気は、その人が自分自身を愛せないことから生じる。
自己尊重レベルのとても低い人たちが、白血病やリンパ種などの免疫系の病気や自己免疫疾患になりやすい。自己免疫疾患というものは、根深い罪悪感にも関係している。その人たちは非常に気落ちしているため、他者に捧げるのは難しい。まず初めに、自分を尊重できるようにならねばならない。
では、自分自身を愛するには、どのような手順を踏んだらいいですか?
最初に、自分に愛情の欲求と感情があることを認め、それらが発露するがままに委ねて、自覚を高めていくことだ。つまり、それらを抑制するのをやめ、代わりに発展させることで、人生の原動力へと変えるのだ。
次に、行動する際には、自分の想いに従って、思考によらないこと。教えられたことでも、それが自分の心に反するならば、正しくはないのだ。あまたの理由に左右されてしまう思考に、君たちの感情が抹殺されるのを甘んじてはならない。
多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。
価値があることは請け合おう。感情に従って行動していくにつれて、愛だけが与えてくれる内面の真の幸福を少しずつ体験し始めるからだ。
また、こうして霊的にも進歩できる。感情は絶対に放棄してはならない。それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。
最初は、ネジが固く締められているので一番難しい。ネジが緩み始めるまで、非常に努力せねばならない。しかし、その後で道は楽になり、経験していく感情が君たちの心を(もちろん、愛で!)満たし、それまで味わったことがなかった気分にしてくれるので、継続する力を与えられるだろう。
では、他者を愛するにはどうしたらよいのでしょう?
他者を自分と同様に見なすのだ。彼らも、同じ内面的な必要性を持った同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。我々は皆、同じ資質を持ち、幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。炎天下を水も飲めずに長く歩いて来て、自分がのどが渇いているとしたら、これと同じ状況にいる人は誰でもやはり水を欲している、と思いつかないだろうか?
水と同じことが愛についても言えるのだ。愛を奪われると、我々は全員苦しむ。愛が与えられると皆、元気づけられる。それゆえ、心が乾いている人を見かけたら、その人に愛の水を飲ませてあげなさい。我々が愛に飢えていた時に、その水を飲ませてくれた人たちがいたように。
でも、他者にいいことをしようと思っても、感謝されなかったり、軽蔑や嘲笑されたとしたらどうしますか?
誰かに害を加えられたら、その人が愛において進化不足なのだと理解して、その状況を自分自身を改善させる機会として利用したほうがよい。
我々の中で何か否定的なものが目覚めたとしたら、それは我々自身にまだその要素があるということで、排除しようと努力しなければならない。
前に言ったが、愛を無条件で与えられるようにならない限り、課題を終了したと見なすべきでない。感謝されないことを容認できない人は、まだ与えるものの見返りを何か期待していることになるので、ゴールに行き着いてはいないのだ。
それなら人は、「なんてこった。自分が変わろうとしても他の人たちが変わらないなら、どんな目に遭わされるだろう。そんな甲斐があるだろうか」と思うのではないですか?
人に叩かれるのはかわすことができるのだから、自分自身に叩かれるよりいいのではないか? 愛がない生き方をする者は、自分自身を叩いているのであり、愛そうとしてくれる人を近寄らせないのだ。
お話はもっともですが、まだ疑問が湧いてきています。
自由に話してごらん。
先ほど、感情を押し殺さずに表現することの重要性を強調されましたね。でもその一方で、他者の愛情の欲求や感情を配慮することも大切だとお話しされています。そこで質問なのですが、憎しみや憤り、怒りや恨みなどの否定的な感情は、それらを表現すると他者を傷つけることになりませんか? 他者を傷つけずに感情を表現するにはどうしたらいいですか。両方を尊重するのは、難しいのではないですか?
君の焦点の当て方では、確かに矛盾してしまう。
全く反対のことなのに、言葉不足のせいで、感情という同一の単語を使用してしまったからだ。混乱を招かないように、もう一度その概念を明確にする必要があろう。
前に、感情に委ねなければならないと話した時は、愛から生まれる感情に言及していたのだ。これらはもちろん、常に肯定的だ。区別できるように、「愛的感情」と呼ぶとしよう。
エゴから生まれるもの、または愛とエゴの葛藤から生じるものは、否定的な感情で「エゴ的感情」と呼べる別物であり、違う方法で扱う必要がある(それは後で話そう)。「エゴ的感情」の意のままに行動するのは、他者に多大な弊害を与えるので、確かに避けるべきだ。
どちらの場合にせよ、感情を抑圧してもろくな事がない。自分の内部を傷つけるだけだ。
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魂の法則 Part16【エゴ的感情】
魂の法則 Part1【序文】
魂の法則 Part2【最初の出会い】
魂の法則 Part3【神】
魂の法則 Part4【霊的世界】
魂の法則 Part5【進化の構図】
魂の法則 Part6【人間の構成形態】
魂の法則 Part7【人間の転生とそれが霊性進化に果たす役割】
魂の法則 Part8【霊界との交信】
魂の法則 Part9【転生のプロセス】
魂の法則 Part10【他世界での生】
魂の法則 Part11【自由意志の法則】
魂の法則 Part12【霊的裁きの法則】
魂の法則 Part13【愛の法則】
魂の法則 Part14【愛VSエゴ(我欲)】
魂の法則 Part15【虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)】
魂の法則 Part16【エゴ的感情】
魂の法則 Part17【人間関係と「愛の法則」】
魂の法則 Part18【「愛の法則」から見た病気】
魂の法則 Part19【イエスの地上での使命】
魂の法則 Part20【別れ】
魂の法則 Part21【あとがき】