魂の法則

魂の法則【エゴ的感情】

魂の法則【虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)】

エゴ的感情

「エゴ的感情」についてお話して下さいますか?

「エゴ的感情」はエゴが具現したものなので、虚栄心や自尊心や自負心について話した時に、その幾つかは扱っただろう。だが、執着心のように複雑で理解が混乱するものを特にもっと深く掘り下げて、今からそれらを見てみよう。
次が最も重要なものだ。

A 強欲・貪欲・好色・憎悪・攻撃性・羨望
B 執着・独占・嫉妬・怒り・恨み・無力感・情欲・罪悪感・怖れ・悲しみ

これらは七つの大罪を思い出させますが、関係はありますか?

確かにこれらに翻弄されれば、尊重されるべき「愛の法則」や「自由意志の法則」に反する数多くの罪を犯すことになるだろうが、これらは罪ではなくエゴの顕現形態なのだ。

どうして二つのグループに分けたのですか?

最初のものは、より原始的なエゴの形態だ。
二つ目もエゴが顕現したものだが、感情というものを言わずもがなに認識しているという要素が付加されている。

より正確なイメージが持てるよう、「エゴ的感情」の一つ一つが何から成り立っているのか定義して下さいますか?

よろしい。強欲と執着から始めよう。執着は強欲から発展した形なので、まとめて分析するとしよう。

強欲ー執着

強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。
欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにもかかわらず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は霊的な強欲へと変化する。
霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人たち、たとえば子どもやパートナーなどと愛情を分かち合うのが難しい。
執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを強要する。
多くの人が、誤って「愛している」のだと思いこみ、相手を強く愛するがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいる。
魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。

愛と執着との違いを説明いただけますか?

人が愛する場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。
執着を患う場合は、愛する人のためになることよりも、エゴを満たすことを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向にあり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたいことを強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係を最大限妨害しようとする。
本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人たちを愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当の愛、真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようになっていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。しかし執着は、そうだと思いこませる。他の人たちに与えられる愛は、自分から奪われると思わせるのだ。
執着がある者は、愛情を要求し、強制し強要する。自分がすることの見返りをいつも求める。要求して受け取ることばかりを考え、与える時には利益と引き換えで、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件だ。執着すると、自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするように自己を強要する。
真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。

違いが明らかになる例があればいいのですが。

いいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。
一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行く。もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まればなでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。
最初の人は、「私はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれば得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしている!でも直ぐに死んでしまう!いつも病気で、薬や獣医に金を使っても早死にしてしまう。それがひどく辛い!どうしたらいいだろう?」と言う。
二人目は、「私が世話する鳥たちは、私のものではない。かごに閉じこめてはいないし、自然の中で生きている。鳥が私と一緒にいてくれるのは、かごの格子から出られないためではなく、そうしたいからなので、私は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるので、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうんだ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになるので、生き続けるよ」と言う。
最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃないか!」と答える。
二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたからで、隷属した生活から離れたいからだよ。私の鳥たちは、好きな時に行ったり来たりできると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に、私が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、私の上に止まるよ」と応じる。
一人目は「それが私の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。
二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。君は、彼らが最も切望することの埋め合わせのために、快適さばかりを与えたのさ。鳥は自由に飛びたいんだ。鳥を本当に愛しているのなら、自由に生かしてあげなさい」と返答する。

愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか?

鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきたい人が愛しているのだよ。

執着によって他の人の自由意志をどのように侵害してしまうのか、例を示していただけますか?

子どもが大きくなって、恋人ができたからとか、家から離れたところで勉強や仕事をしたいからなどの様々な理由で独立したがる際に、自分のそばに引き留めようとする母親には執着心がある。執着のある母親は、子どもといたいという欲求を押し通そうとし、独立して自分の人生を歩みたいという希望を尊重しようとしない。そして、それが叶わないと感情的に傷つけられた気がして、「子どもは私を愛していない」などの発言に至り、子どもをそばに置こうとするあまり、彼らに罪悪感を抱かせるように仕向ける。
「この職業に就きなさい、あの専門を学びなさい」と子どもに要求して、そうしなければ相続権を奪う父親には執着がある。
恋人に着ていい服といけない服や、何時に家から出入りすべきだとか、つき合って良い人と悪い人を指図する人には執着がある。
この偽りの愛が執着であり、それは執着の対象を閉じこめておく監獄や刑務所のようで、執着に負けた者を牢屋番に変えてしまう。鳥をかごに閉じこめていた人のように、執着で苦しむ者は、生きることも生かすこともできない。

執着によって他者の自由意志を踏みにじるというのは論理的ですが、自分自身の自由意志も侵害するかもしれない、ということには驚きました。執着がある時に、どのように自分の自由意志を侵してしまうのか、例を出していただけますか?

いいだろう。たとえば、前例の母親が、家族以外の人を支援することなど、自分の心が求めることに時間を割きたいと思っても、そうすると子どもや夫の面倒が見られなくなると考えて、自制してしまう場合だ。
執着を乗り越えなければ、内面を充足させることをする際には罪悪感を覚えるだろうし、その罪の意識によって、そうすることを自分に禁じてしまうかもしれない。

この例のような執着の顕れ方には驚かされます。家族に尽くす人は、一般的に愛に満ちた人だと思われていることが多いからです。

それは、執着というものが君たちの文化に深く根づいており、頻繁に愛と混同されているからだ。多くの人は、授かった教育のせいで執着が大層深く、それを自分の個性の一部に同化させてしまっている。女性は、自分の時間の100%を夫や子どもや仕事に捧げなければ罪悪感を抱かせられる。家族以外の人に時間を費やすと、味方である筈の家族からでさえも口うるさく批判され、「自分の家族よりもあの人たちの方が大事なの?」とか「一体何でそんなことに関わるんだ? おまえはここに家族と一緒にいるべきだろ」、「人にどう思われるだろうか!」などのコメントで罪を意識させられる。
男性は、慣習的により大きな自由を謳歌してきたが、執着の感情から免がれている訳ではなく、家族でも友達でも同郷(同文化)でもない人に手を貸そうと時間を割くと、特にそれが何の経済的なメリットにもならない場合には、他の人の執着によって非難される。

でも、家族に専念していても、そこには愛があるのではないですか?

もちろんだ。一方を取ると他方をなくす訳でない。
すでに言ったが繰り返しておこう。真実の愛はなくなることがない。愛する対象が段々と増えていっても、それで家族を愛さなくなる訳ではないのだ。
だが愛の能力が大きいと、大勢の人との約束も多くなるので、自由時間も多くの人と分かち合わねばならない。それが、執着に苦しむ者には、前より少ししか愛してもらえていないと受け取られるのだが、実際にはそうではない。

人が変わろうと決意すると、家族はどうなるのですか? 他者を支援することに時間を割くようになると、自分の家族に手がかけられなくなるのではありませんか?

いいかい、自己変容したいと願い、内面の話ができる他の人たちと集まりたいと思う者が出くわす最もきつい障害は、周囲の人たちに理解されることがなく、その人たちに、家族の義務を果たさないという罪悪感をもてあそばれることだ。
よく観察すれば、誰かが週に一度、二時間かけて、おまけにお金も使って、サッカーの観戦やディスコやバーに行っても、その人が家族をないがしろにしているという印象を持つ者はいないとわかるだろう。しかし、同じ人が、自他に役立つように内面に関する話を二時間しに行く場合にはあらゆる難癖をつけられるので、家族を放任してしまったという罪悪感を覚えてしまうのだ。
これは要するに、分かち合うのが困難だという執着のせいだ。執着は愛ではないし、この障害を克服できなければ、君たちは停滞してしまうだろう。

それでは、家族は霊的進歩の障害となり得るのですか?

いや、障害となるのは、自己成長する気がなく他者にも成長させまいとする魂たちの理解のなさだ。彼らは、進化を願う者を、それが家族のように血の繋がりがある者であっても、手中のすべての武器を駆使して押し留めようと努める。
理解のある家族と暮らす者にとっては、家族が霊的な発展を遂げるための支えとなる。しかし、地上の人類はほとんど成長していないために、霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。しかも、同じ家族の中に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、同時に覚醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいが、それができる人が他の者のために道を切り開かないといけない。
かのイエスでさえこれと同じ問題を克服し、執着による家族の理解のなさを乗り越えなければならなかった。イエスの家族は彼を理解できなかったので、霊的事柄に応じるために家の義務を投げ出している、と常にイエスを非難した。気が狂っているとけなし、罪悪感を覚えるように仕向け、ヨセフが亡くなって彼が大家族を養う責任を負う羽目になってからは、特にそれが高じた。だが、それは真実ではない。イエスは、母親と兄弟姉妹が自立できるまで物質的支援をしたのだ。
しかし、彼の使命は、全人類の家族というもっと広範に及ぶものだった。イエスが体験した自分自身の家族の理解の欠如は、福音書の次の一節に反映されている。
「そしてイエスは言った、『預言者はどこででも敬われるが、自分の郷里と家族の間では敬われない』」

でも、無条件に愛するためには、家族を放棄する必要があるのでしょうか?

霊界が家族の放棄を要求するなど、どうして信じられるのかい? 家族は、魂の最初の感情を刺激する手段として、まさに霊界で創られたのだよ。
夫婦間の愛情や親子間の愛情は、魂が最初に出会う感情で、生殖本能や子に対する親の保護本能から発達したものだ。
唯一伝えたいのは、愛において前進するためには、心を開いて分かち合い、家族の概念を広げて、すべての霊的存在がその一部であると考えねばならないということだ。
いいかね、人が愛する時にカテゴリーを設けるとしたら、真の兄弟愛の実現は不可能だろう。自分の家族を一番先にして、同じ故郷や国、同じ人種や文化や宗教の者を優先し、それで残ったものがあれば他者にあげる、となる。
何の見返りも期待しないで与える代わりに、常に何かと引き換えなのは、エゴがカモフラージュされたものだからだ。そのため、与える際にはリストを作成し、最初に自分に沢山くれそうな人を載せ、次にそれ以下の人を記載し、何もくれない人は欄外とするのだろう。
このような利己的な態度は、どんなに会員だけの連帯を正当化しようと頑張る人たちがいようと、「愛の法則」を侵害している。連帯する権利から誰かを外してしまった瞬間に、連帯という言葉は意味を失うのだ。
このような集団的エゴがどこまでエスカレートできるのかという例は、ナチズムに見ることができる。人種による見せかけの結託をうたい、他の人種を虐殺したり信仰の権利と個人の自由意志を排除して、それをでっちあげたのだ。

執着は、虚栄心の段階にも自負心の段階にも見られると言われましたが、これは克服するのがかなり難しい「エゴ的感情」のようですね。

その通りだ。執着は虚栄心の段階に始まり、自負心の段階の最後まで克服されることがない。

それなら、執着に関しては、虚栄心から自尊心を経て自負心へと霊的に進化していっても、何の進歩もないのですか?

もちろんある。しかし、進歩は常に緩やかだ。
虚栄心の強い者の執着は、自尊心の強い者や自負心のある者の執着と同じ強さではないし、同じ要因で増長される訳ではない。虚栄心の強い者は感情があまり発達していないので執着心はずっと強く、他者の自由意志への配慮がなく、甘やかされたり構われたいという思いや進化への意志の弱さなどでそれが増長される。
自尊心の強い者と自負心のある者では、執着心は徐々に愛に変化していっているので(愛と執着の両方が混在している)それほど強くはないが、愛されないという怖れや愛する者を失う怖れによって増長される。

それでは、強欲と執着は、どう克服するのですか?

強欲の反対は寛大なので、強欲に打ち克つためには、物的及び霊的な寛大さを発展させる必要がある。強欲と執着は、物的な面や霊的な面で、自分が持っているものを他者と分け合うことで、乗り越えられる。

貪欲―独占欲

貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので(欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでもよい)、それによって他者が損害を被っても構わない。
貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、いつも持っていないものや他者のものを欲しがり、それを手に入れるまで留まるところを知らない。貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂であり、いつも他者の持ち物を切望しているのでうらやみ深い魂である。
魂が虚栄心の初期段階から発展段階へと移行すると、物的な貪欲さは霊的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。
人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、相手の自由意志を侵害したり強要してしまうことには頓着せずに、できるだけ長く自分に構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。独占欲に支配されている人は、自分のことしか考えないことが多いので、他者を尊重することが非常に難しい。
独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、そのため、頻繁に犠牲者の振りをする。
独占欲は執着心との関係が深く、この二つのエゴの形態は、同時に同じ程度の強さで顕れることが多い。つまり執着心に苦しむ者は、独占欲も強い場合が多いのだ。
嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。貪欲で独占的な人には羨望、つまり自分にはない欲しいものを所有する人たちへの反感、が目覚めがちである。欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、独占欲では霊的所有物となる。

それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、独占的になるリスクがあるので、正しくはないのですか?

その逆だよ。我々は皆愛される必要がある。自分の必要性を認めて頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので良いことだ。

それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることとの違いは何ですか?

強制せず、だまさず、操らず、誠実に頼む場合は、独占的ではない。
独占的なのは、強制し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵害した場合だ。しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちやほやして欲しいだけなのだ。
愛とは自由に与えられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、義務となってしまう。そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面倒をみる義務がある筈だという思いこみだけで、特定の人たちに愛してくれと要求するのは間違っている。

霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか?

執着と似通った方法でだ。
すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階で始まり、自負心の段階の最後まで完全には克服されることがない。
魂は、愛する能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始めて精神的に他者に依存しなくなるので、感情面で寛容になると、独占欲は徐々に力を失ってゆく。自尊心と自負心の段階では、独占欲は次第に減少してゆく。

攻撃欲(憎悪・うらみ・いきどおり・怒り・無力感・罪悪感)

攻撃欲の分野には、憎悪、恨み、憤り、怒り、無力感、罪悪感など、自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連したすべての「エゴ的感情」が含まれる。
攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。攻撃欲とは、劣悪な形をとった生存本能なのだ。
攻撃欲はエゴのどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、各レベル毎で異なる。
虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、攻撃的になる。
自尊心の強い者や自負心のある者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、もっと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもらえなかったり、望み通りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたいことをしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感じた時などに攻撃性が起動する。憤怒ふんぬすると虚栄心の強い者よりも暴力的になり得るのは、ストレスを蓄めこむ傾向があるからで、自己コントロールを失うと突然爆発してしまう。
虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイとに例えられる。
ライオンは肉食で他の動物を餌としているので、本質的に攻撃的で、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い者のものだ。
だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、乱暴に振る舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、ごく特別な場合にのみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ているのだ。
自負心のある者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、単にその度合いが違うだけである。自負心が強いと滅多に感情を損うことがないので、攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちよりもずっと破壊的になり得る。
攻撃欲には、憎悪や恨みや憤り、さらには無力感に至るまでいろいろな異形態が見られ、それぞれに独自の特徴がある。

憎悪ぞうおは、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これは、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な「エゴ的感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。
憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む人を「怨恨えんこん者」と呼ぶとするが、こういう人はいつも、自分の憎しみは正当なものでコントロール可能だと信じているものの、しまいにはより多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。
憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、すべてのものを破壊してしまう。普通の人たちからは避けられてしまうので、孤独を感じないように似た者を探そうとする。
「怨恨者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしまう。結局のところ、それが彼らが望んだことだったのだ。
怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り)か小さい(腹立ち)かの違いである。
憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れを変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。怒りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になりやすく、不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。自分の不快感の原因は外のもので内にはない、と自己を納得させるために外部のせいにして、不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。恨みはこうして生まれる。
罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向けられた場合である。
自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。
たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。
無力感は、消化器系の調子を狂わす。
抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起こる。
攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか?

感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、つまり魂と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。
思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規範や規制、利己的な考えなども含まれる。
人は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じることがある。それは多くの場合、愛に反したエゴでの行動を意味する。たとえば、思考が発端となる利己的な行動をとった時に、魂が良心によって霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を咎め、感情が思考に異を唱える。この場合は、自分の間違いを認識することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。
人は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎めるのであり、思考が感情を検証する。とても強い偏見や制約があって、特定の感情が悪く誤りだと思いこんだ場合だ。そして残念なことにそれが原因で人は善悪を混同し、人生を混乱させる感情は悪いものに違いない、との結論に行き着いてしまう。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発達を阻むので、大変否定的なものだ。

二つ目のケースがよくわかるように例を挙げていただけますか?

よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ちのままに行動するということだ。
だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育のすべてに条件づけられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生まれる。
たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合(年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆したり、拒否される怖れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろう、など)。
思考が感情を負かし、心で感じたことをするのをやめてしまうと、気持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。
感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことではなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

罪悪感はどのように克服できるのですか?

利己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ちこんだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動することだ。たとえば、傷つけてしまった人に謝ることから始めるなど、自分がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとしてみることだ。そうすれば、罪悪感は消えるだろう。
気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合には、初めに、自分が感情に基づいた行動をしていないことを認識すること。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうすることを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。
このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるものの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられている人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、それに従って行動する固い意志が必要となる。
苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのためだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。
心で感じることがわからない人たちによって責められたなら、過去に自分もそうであったように、その人たちがまだ利己的で偏見に満ちた考えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

恨みとは何ですか?

恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するものだ。通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた責任者だと判断した特定の人に向けられる。
攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もある。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思い、その機会を待つ。

恨みはどこで生まれるのですか?

気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかったことを実行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰など)に負けてしまった後悔などから生まれる。
恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力した人たちや、やりたかったことに反対した人たち、自分の困難な状況に責任があると思う人たちに誤って向けられる。

どうやっそれに打ち克つのですか?

外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて無条件に愛する能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを理解するように努めることだ。

前にした質問をもう一度繰り返すことになりますが、憎悪、憤り、怒り、恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜めこんでしまえば自分自身を痛めつけることになります。ですから、こういう感情はどうしたらいいのですか?

根本から断ち切ってしまえばいい。それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在しているエゴが顕れたことに気づくのだ。
自分の取り柄が表価されないためにエゴが目覚めるならば、まだ虚栄心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、自尊心や自負心を超える必要があるのだ。攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなにひどい無礼や非難をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見れば明らかだ。
最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たちだ。二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。
ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからといって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するように。そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなる。

攻撃欲はどう乗り越えるのですか?

まず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとしてみなさい。

何を理解しないといけないのですか?

自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。
自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。
また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、あるがままに自分を表現するように努めることだ。
誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためだと理解すべきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。
我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習とエゴの克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自身で選んだものだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さと不寛容や羨望など、他者の欲求や意見を尊重したり理解しなかったために、我々自身が招いてしまったものなのだ。

攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快さから解放されるにはどうしたらいいでしょうか?

他者を傷つけずに不快さを解放する、いい発散方法がある。
それは、どう感じているかを言い表してみることで、自分に湧き起こった感情を認めて、そうなった理由を述べてみることだ。聞き手は、傷つけないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈しない信頼できる人でなければならない。
不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。
その後でさらに落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねばならず、怒りや激情で爆発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そうなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与えて、大いに傷つけてしまうかもしれないからだ。

悲しみ・絶望・悔恨・自暴自棄・諦め

悲しみは、士気の喪失と低下という情動的な状態だ。
悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと強い人の場合にそうなるのであり、エゴに由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。
実際、無力感や罪悪感、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃性と悲しみの入り混じったものだ。悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したものと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。
悲しみにはいろいろな形態があり、それぞれに特色がある。
悔恨は恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはならないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲しみによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような状況から生まれる。
自暴自棄は、強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、致命的な行為に及ぶことがある。

悲しみがエゴの感情だと思われているのは、予想外でした。

ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態になってしまうと、それは停滞した状態だ。悲しみは、霊的成長の努力を怠る口実となってしまうからだ。

悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか?

悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみのせいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にその状態がうつってしまう。
悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように多数の病気を引き起こす。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使命を途中でやめてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみに蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。

悲しみはどう超えたらいいでしょう?

攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗り越えるための処方箋を、ほぼその一点一点、悲しみを克服することにも適用できる。
それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。
我々が直面する逆境の多くは、愛の学習とエゴの克服という過程の一部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理解すること。そしてその他のものは、他者への不寛容や頑固さ、無理解などで、我々自身が招いたものだ。
時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があることを理解すること。
誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解する。
自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自分をあるがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

あなたの処方箋は、諦めを勧めているようですが。

とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と生きる希望を失い、落ちこむのだ。
もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連するエゴの一形態だ。それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方だ。しかし、この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。理解は、生きる希望と喜びを失わずに、努力し続けて前進する鍵となるのだ。以前はわからなかったことにも、意味を見出すことを可能とするからだ。

諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか?

例を挙げれば、死に対する姿勢だ。
君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と向き合うことを避け、この懸念を直視しようとしない。
この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避けて日々の雑事に没頭しているに過ぎない。理解しようとはせず、ただ避けているだけだ。
そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕することになる。この状況は、悲しみや悔恨、憤怒や無力感をもたらす。そして、このどうしようもない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていないので、不機嫌に暮らし無益に苦しんでいる。
死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるように、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとする。
進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだと皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻るので、喜んであげるのだ。

好色と情欲

セックスへの依存は、見栄の顕れでもプライドの顕れでもある。
だが、人がセックスを常習するようになる原因は、それぞれの場合で異なる。そのため、虚栄心が強い者に特有の好色と、自尊心や自負心の強い者の特徴である情欲という、二つの表現形態に区別してみよう。
好色とは、セックスの喜びへ過度に傾倒することだ。虚栄心の強い者のセックスへの依存は、他者から認められたいという欲求と関係している。つまり、セックスを通して人から認められたり、称賛されたりちやほやされることを期待しているのだ。彼らは、自分自身を満たす手段として性的快楽に溺れるが、他者の欲求を配慮することがほとんどない。しばしばセックスを利用して人を独占し、意のままにしたり優位に立とうとする。
感覚が満たされ飽き飽きしてしまうと、性欲をメンタルに駆り立てる手段として新しい刺激を探す。それは、パートナーを頻繁に変えることであったり、サディズムとマゾヒズムなどの堕落した性様式に訴えたり、他の人たちをその意に反して乱交に巻きこんだりといったものだ。
一方、自尊心が強い人のセックスの常習は、愛せる人がいないことを受容できないとか、特定の人への愛情を抑圧したり認めようとしないなどの、愛の欠如や愛情の欲求に起因している。
つまり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛することなのだが、自分の愛情の欲求を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁のように、セックスへと逃避させてしまう。要は、愛の欠如をセックスで補っていることになる。そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性的なものではなく感情的なものなので、性関係では満たすことができずに満足できない。
そこで、益々セックスを求めるようになる。そうすることで、この心の空洞を癒そうとするのだが、上手く行かずに、前述のような堕落した様式に至る場合もある。

情欲はどう克服するのですか?

情欲に関しては、セックスによって満たそうとしている内面の虚無感は愛の感情の欠如によるもので、愛の感情だけがそれを満たすことができると認めることが、克服の唯一の方法だ。

好色はどう克服しますか?

それが虚栄心の反映したものだと認識して、それでは絶対に幸せになれないことに気づくことだ。好色の大半のケースは、残念ながら若さや肉体美や精力などの衰えが顕れ、性的魅力を失ったり、体が精神的な性欲に応じられなくなった時に、自然に消滅する。肉体の衰えにより、自分の取り巻き連中は消え、それまでの人生の主要な刺激剤も失われる。
こうして人は、便宜上の虚しい関係を築きながら、無意味な人生を送ってしまったという、厳しい現実に直面する。肉体的な魅力だけで寄って来る人たちに囲まれていても、魅力が失われるや、皆、魔法のように消え失せてしまう。その人のエゴにもかかわらず、本当に愛してくれた何人かが残ってくれるかもしれないが、彼らに注意を払ったことなどほとんどなかった筈だ。
虚栄心を満足させるために使用した外見美という武器が失われてしまうと、真相にずっと近い新たな局面と対峙しなければならない。そこでは、人を惹き付けるためには、自分の内面から何か美しいものを引き出さねばならなくなる。こうして、便宜上の関係と気持ちの通う関係との違いを評価できるようになり、後者を尊重することを学ぶだろう。

でしたら、美しく魅力的な人たちだけが好色なのですか?

そうではないが、その多くが好色の深みに陥りやすい。
魅力がないその他の見栄っ張りな人たちは、そうしたいと思っても、欲しいものを手に入れる餌としては、肉体的な魅力を利用できないからだ。そういう場合は、虚栄心が羨望を呼び起こし、自分が持たない美貌を獲得したいという叶え難い欲望にかられ、体重を落としたり、整形手術を何度も受けようとする考えに取りつかれ、自分をより魅力的に見せようとする。
肉体的に魅力的なのに、完全な肉体を持とうとする執念に捉われてしまう人は多く、それは「ナルシシズム」または「肉体信仰」と呼ばれる虚栄心の具現形態の一つである。

ナルシシズムまたは「肉体信仰」がどういうものなのか、もう少し広く説明いただけますか?

それは、今言ったように、虚栄心の表現形態の一つであり、自己の肉体美が望み得る最大の価値を持つものとして際立つものだ。
自分の体で満足できずに「完全な肉体」を求めることは、脅迫観念へと変わる。これは精神的な病気であり、食べることをやめたり、あらゆる種類の痩身サプリ、または強壮剤や興奮剤などを摂ったり、自分の命を危険にさらすことさえかえりみず、様々な人工物をインプラントするといった、常軌を逸脱した行動を取る。
ナルシシズムに感化されてしまった人は、絶対に自分の体で納得しない。時間とエネルギー、意志とお金のすべてを、肉体の改善へと費やしてしまう。肉体自体が自分自身だと思いこんでいるのだが、実際には、物質界で動くために使用する衣服に過ぎない。
いつかは理想的な肉体を手にして幸せになれるだろう、という偽りの幻想を抱いている。そして幻想を利用して儲けている、エステ産業や化粧業界や消費主義によって、その信念が益々強まっていく。だが、その幻想はエゴが仕掛けた罠に過ぎず、それでは幸福にはなれない。幸福は、愛を育むことでしか獲得できないからだ。そのため、不満はどんどん膨張する。
そして、体内時計が老年へと向かって情け容赦なく進んで行くにつれて、あれほど一生懸命に得た成果が老化という自然現象に台なしにされていくように思える。人生はこうして過ぎていき、かつては美しかった肉体を完全に去る時が来て、非情にも自然の腐敗プロセスが宣告される。
魂は霊界に戻ると、今や墓の中で朽ちた、真の自分とはいえなかった肉体を美しくしようと無駄に時間と努力を費やしたことに気づき、魂という永続する本当の自分を改善することにはほとんど努力しなかったことに気づく。
しかし、手遅れなことなどない。魂の命は存続するので、再び生まれ変わって、着ている肉体を自分だと思いこんで無駄にしてしまった人生でやらなかったことを、もう一度やり直せるのだ。

こういう見方をすると、肉体美は魂の進歩にとっては障害だと言ってもいいですね。

私の話から、美しさはそれ自体がネガティブな特性なのだと思わないで欲しい。その反対に、魂が進化していくにつれて内面の美に呼応して、魂が宿る肉体は、より完全により美しくなるのだ。そして実際に、君たちよりも霊的に進化している物質界では、そうなっている。
しかし、進化の乏しい魂たちが支配する後進的な世界では、確かに諸刃の剣となる。虚栄心の段階から抜け出せない進化の乏しい魂にとっては、肉体的な魅力は虚栄心の奔放を許す武器となり、そのために使用される。気紛れ、下品、不躾、横柄に振る舞っても、自分の肉体美が欲しいものを与えてくれると知っているのだ。それは、称賛してくれる者やちやほやしてくれる人たちだ。目も眩む体の美しさで欲しいものが手に入るのなら、なぜ善い人になる努力をする必要があろうか?
こうしていつしか老年になり、自分の唯一の魅力を失い、独り取り残されて、自分のモラルの貧しさに失望する。美しく魅力的な外見を維持することばかりにかまけていて、内面を改善しようと努めたことが一度もなかったからだ。

ナルシシズムはどう克服しますか?

自分は肉体ではないので、肉体にそれほど煩わされるべきではないと認識することだ。人が幸せになるためには、自分自身を、つまり自分の内面を耕さねばならない。
肉体美という罠に陥った多くの魂がそのことを知っている。そのため、自分の体ばかりを眺めて人生をそれ以上浪費したくないので、すぐ後の転生ではありがたみの少ない肉体を選びがちだ。エゴを克服して人間として改善したいので、美しい肉体を持つことが誘惑の原因となるのであれば、現状では持たない方を選ぶのだ。

それでは自尊心の強い者は「肉体信仰」に陥らない、つまり、自分の体に不満を覚えたり、魅力的でなりたい、と熱烈に願いはしないのですか?

もちろん願いはするが、見栄っ張りな者とは違う理由でそうするのだ。
自尊心のある者は、称賛の的となるよりも、愛されることを求めているのだが、もっと美しくなればもっと愛してもらえる、と間違って信じこんでしまうのだ。
自尊心の強い者がハンサムな場合は、周りの人たちは自分を好きでそばにいてくれているのではなく肉体やその他の魅力に惹かれているだけなので、飽きられたりもっと素敵な人が現れれば簡単に捨てられてしまう、と気づいてしまうと失望する。

僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、どうして自分の魂を意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか?

それが君たちの世界が教えていることだからだ。魂は存在せず、人とはその体であると教えている。君たちの快楽主義の世の中では、評価される資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、内的な資質(感受性・慈悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されている。
霊界では、それと全く逆だ。すべての霊的な資質が評価される。中でも謙虚さは最も評価される資質の一つだが、外的な資質は、魂個有のものではないので、何の価値もない。外的な資質は、劇の作品が変われば俳優の衣装替えがされるように、ある人生から他の人生で変化するので、状況的な付随物だと考えられている。人は、今生では外見的に美しくても、次の転生では醜いかもしれないし、今回は金持ちでも、次回は貧しいかもしれないのだ。
魂は、肉体から離れている間は、その違いが明確にわかっていて、霊性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。しかし肉体に宿ると、身体との一体感や過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、霊的に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。そして、魂が顕現するということには、個人的に経験したことも他者の経験も、頭から否定してしまう。

魂の顕現とは何を意味するのですか?

魂の存在とその能力を示すすべてのものだ。それらはたとえば、肉体を持たない存在たちとの交信、幽体離脱、自他の気持ちを直感すること、五感以外での超感知などだ。このような体験をした多くの人が、頭がおかしいと見なされている。だから、自分の霊感に自信のあるかなり進歩した魂でなければ、自分が気が狂っていて精神療法が必要だと信じこむに至るだろう。

怖れ

怖れとは、懸念や動揺や不安の感情であり、自分や自分が愛する者への危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである場合と、想像上のものである場合がある。
怖れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしないかといつも迷う。しかも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度に刺激して、現実の状況を空想上の脅威が現れる架空の状況に創り変えてしまう。しかも、それを本物だと信じてしまい、現実の脅威だけではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。
怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況をあらかじめ想定して、そのすべてから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。
恐怖とパニックは、一過性の強烈な怖れの感覚で、非常にトラウマとなりやすい。
怖れは、自分があるがままに振る舞う妨げとなるので、霊的進化に最も有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れを乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあり得る。

でも、すべての怖れが同じだとは思わないのですが。

もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して気持ちに従って行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえある。そのために、停滞してしまう。

しかし、正確には何を怖れているのですか?

最も一般的な怖れは、自分に対する他者からの否定的な反応だ。これから派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解してもらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。
ところで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、あるがままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに負けてしまうと、他者が望む自分らしくない振る舞いをしてしまう。他者とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・伴侶など)のように、少なくとも愛情を期待できる人のことだが、全般には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、子どもが肉体的または精神的な暴力や虐待の対象となった幼児期に由来することが多い。
前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なるものへの怖れ、死への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。
未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は知らないものについて、多大な脅威や危険を想像してしまうものだ。実際のところ、死の恐怖というものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れであるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。
まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のものはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。
我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがあることや、自分の災いのほとんどがエゴのせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いない、と誤って思いこんでいる。気づきは、エゴの一形態に過ぎない「自己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとしてエゴからの解放を望んでいる魂を痛めることはない。
エゴから解放されるためには、まず自分自身にエゴがあることを認めて、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるのを怖れてはならない。エゴは全員に存在していて、それからの脱却の過程のどの地点にいるかが違うだけだ。だが、自分自身を知ることを怖れて長期にわたってエゴを覆い隠してしまうと、我々は停滞してしまい、ずっと苦しむことになる。
同様に、我々は、愛情、感受性、謙虚さ、優しさ、同情、博愛など、自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれる。
しかしそれにもかかわらず、この怖れに打ち克ち、自分自身になって、愛の深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなるので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。
死に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わりで、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。自分を深く見つめる怖れをなくせば、心の奥底で「死は存在しない!君は不死身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在しなくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は消えるだろう。

怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか?

すでに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分をあるがままに表現するのをやめてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してしまうことだ。人は自分自身でいなければ、自由意志が囚われているので、霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされる。恐れに支配されてしまうのだ。そして、失敗すると思いこむので、霊性進化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。
怖れとは、地球の権力者たちが人類を操り、霊的に停滞した状態に保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、挑戦をやめさせるのだ。
それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性や愛や同胞意識が目覚めて彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権力を奪われるのが怖いのだ。

例を挙げて下さいますか?

たとえば、人類全体の同胞意識に賛同するすべての運動に対する恐れを作り出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して恐怖体制を敷く。全人類のための連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治や経済のシステムを導入すれば、その後で混乱や無秩序、騒動や経済崩壊などが起こるだろうと脅かして、恐れを生み出す。彼らは、自由は奔放となり、自由思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習や堕落や不道徳をもたらすと予告する。
地球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠はどれも隠蔽いんぺいし、他の世界の生物と接触することの危険性を映画を通して助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィルス)をしていて、体内に入りこんだり、人類を滅亡させる悪意を持っているのだと思わせようとする。
人が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上することだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。そのため、死後の生の存在を示すものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃げこむ。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信したりすることの恐ろしさを、映画を介して助長する。その中では、生きている人間の魂を支配して苦しめる幽霊や悪魔、血に飢えた吸血鬼やゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をどれもおぞましく描いているのである。それに一役買っているのが、恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによってすべての人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わるように仕向けている。全映画の90%は、テロリスト、連続殺人犯、レイプ犯、麻薬密売人、宇宙からの侵略者、ゾンビ、様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な存在に姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっともっと沢山の恐れが外部から加わるようにする。

怖れはどう克服したらいいでしょう?

自覚と勇気を持つのだ。まず、自分が怖れているということと、何を怖れているかに気づくことだ。深く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことがわかるだろう。現実の脅威に根ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないようにすれば乗り越えられる。「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思うだろう」と自問してみなさい。答えが、選択されるべき正しい決断なのだ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩するのを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつの日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今ならはっきりわかるぞ」と言えるようになるのだ。

自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがありますか?

自分自身を、美徳や欠点も含めて、あるがままに見るのは何も悪いことではない。自分をあるがままに受け容れなさい。
改善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しないこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初は苦痛を伴い不快かもしれないが、そうする価値はある。それが霊的な成長の道における最初の一歩になり、成長するにはエゴを排除することと同様に、感情を発達させることが不可欠であるからだ。
自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そうする時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山なのだから、その上、良い事を恐れるのはやめとしよう。

同じ質問をしたかもしれないのですが、エゴとその具現形態である「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問をしたいのですが。

いいだろう。質問しなさい。

一般的に、エゴとその形態を克服するにはどうすればいいのですか?

最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。これと同じように、虚栄心、自尊心、自負心に打ち克つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現するエゴを識別することで、自分のエゴを認識することだ。そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、いつ表面化するのかを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだよ。

それは難しく思えます。

それほど難しくはない。エゴ自体が難しく見せているのだ。
他者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認めることはなぜこんなに大変なのだろうか? 隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない。(訳註:聖書のイエスの言葉)。我々がここにいるのは、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後は簡単だ。

エゴ自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識できるのですか?

有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であるかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換えてみる。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? それとも、利己的に動いただろうか?
ある言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見が変わらなければ、ほぼ客観的だ。しかし同じ言動であっても、自分がした時には容認して、他者がした場合に告発するのであれば、それは不公平なのであって、エゴに翻弄されていることになる。それゆえ、自分の欠点に気づくためには、他者を分析する場合と同じ客観性を持つ必要がある。

そしてどうするのですか?

次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識しても、それが出現しなくなる訳ではない。エゴがあることを認識して受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに屈しないことだ。
別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知っているけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするようにするぞ」と言うのだ。
態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者にとっても有害だからだ。

どういう意味で自分に有害なのですか?

愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれる。

態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか?

行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされたら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しいだろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。
こう推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたのだ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が必要とされる。しかし辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちになり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける励みとなる。

「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか?

それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持っており、自分にもそれがあることを認めること。それらが、エゴが顕現したもの、または、エゴと愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めてみる。
次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす方法を見出すこと。

内面の意識的な改革とはどういうことですか?

それは自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的(愛における進歩とエゴの排除)が明確で、欠点がどういうものでどのように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができる。
一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程度愛に基づいて行動し、どれほどエゴによって行動したのか、また、他の人たちはどれほど愛またはエゴによって行動したのか内省してごらん。こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出すことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなる。
他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の利己的な態度に気づけば、流されてしまったとわかるが、自覚することができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しよう、と固く決意するのだ。
こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るだろう。

でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか?

それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公平になりやすく、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、何の配慮もしないものだ。
もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めている。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。
しかし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するためと、他者も改善できるように助けるためである。ここでは、現実を、大げさにも覆い隠しもせずに、あるがままに見ようとしているのだ。実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを排除することが進化のプロセスの一環となっている。それに、初めに認識することなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

エゴに触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を赦さないといけないのだと思っていました!

赦すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つまり、原因となる場面ごとのエゴについても掘り下げる必要がある。
たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動している。
霊性進化のプロセスや克服すべきエゴの段階と、エゴがそれぞれの段階でどのように顕現するのかが理解できなければ、羨望、嘲笑、批判、中傷などや、もっとひどい利己的な態度を赦すことはとても難しいだろう。

それでは、自分自身がエゴのどの段階にいるのかを知ることは可能ですか? つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか?

ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかがわかるだろう。
ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つかの指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解することはかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいる。
もう話したことだが、どの人にも指導霊たちがついていて、助けて欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれる。また、肉体を持った人の中にも、その内なる能力によって君たちに手を差し伸べられる人がいる。
しかしこれもすべて、各人の意志による。エゴに捕らわれていて前進したがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしない。そのため、霊界から与えられる助言にも、もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。
自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取ろうとも耳栓を除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれるのを聞こうともしない。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む主要因たるエゴを放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援を受けるつもりもないのだ。

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魂の法則【人間関係と「愛の法則」】

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