この『魂の法則』の原本は、2008年に初版が出され、地元スペインでは実費配布されています。日本語版もなるべく安価にしたいという希望から、著者、訳者とも印税を放棄しています。
題名:『魂の法則』
スペイン語原題:“LAS LEYES ESPIRITUALES”
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, Spain)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
『魂の法則』 by Vicent Guillem is licensed under a Creative Commons Reconocimiento-No Comercial-Sin Obra Derivada 3.0 Unported License.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能なすべての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。
イザヤから日本の皆さんへ
こんにちは、日本の兄弟の皆さん!
まだ私のことは知らないだろうが、どうかこのように呼ばせて欲しい。
この度『魂の法則』を日本の皆さんに紹介できることは、大変喜ばしく嬉しいことだ。
この本で伝えたいことが、しかるべきところに――つまり一人ひとりの意識と感性に――
届いてくれることを私は願ってやまない。
より大きな気づきを促すきっかけとなり、それが各人の真心を目覚めさせることに繋がってくれればいい。このことが今、大いに必要とされているからだ。
こうしてやっと皆さんに『魂の法則』を届けられるようになるまでには、それはそれは長いこと、骨身を削って協力してくれた多くの兄弟たちがいたのだ。だから私は、それらの存在全員をとてもありがたく思っている。私と私の仲間たちの感謝の気持ちは、永久に変わることがないだろう。
兄弟の皆さん、ありがとう。私の愛が届くことを願って。
二〇一四年一月十三日
私、イザヤより
はじめに
これは、全世界の人びとに贈る愛のメッセージだ。
メッセージがどのようにしてもたらされたのか、また誰から伝えられたのかは、ここでは重要ではない。問われるのはその内容だろう。
これをどう扱うかは、人の自由だ。無視しても、批判や検証をしても、あるいは君自身の人生に適用してもらっても構わない。僕自身は、いろいろな経緯の後に、人生に取り入れることを選んだ。
本書の主人公で、僕の対話相手であるイザヤが架空の人物なのか実在するのか、彼との会話が本物なのか、それがどのような状況下で起きたのか、などということは君の判断に委ねたい。いずれにしても、君の心に届くように真心をこめて書いたことに、偽りはない。
僕の役に立ったように、君にとっても有意義なものとなってくれることを願う。
真の自分を知り、感情を目覚めさせてエゴを解き放つと共に、人生の目的に気づいて、自分に起きたことや今後起きることを理解するために役立てて欲しい。
希望を持ち続け、他の人びとへの共感を深め、いつかは皆を愛せるように。また、自分が生きる世界を理解し、いかなる逆境からも大いなる恩恵を引き出して、愛において成長できるように。
つまり、君が本来の自分になれて、自由で自覚しながら真実の愛、すなわち無条件の愛を体験できて、そしてそれによって、さらに幸せになってくれることを願う。
すべての愛をこめて。
ヴィセント・ギリェム
序文
僕は、長い間、いつも多くの疑問を抱えてきた。
それらは、存在の根源に関するものだった。いつも、自分の人生の目的や、皆の存在理由を知りたがっていた。
「僕は何者か」、「なぜ存在しているのか」、「他者はなぜ存在するのか」、「僕らはここで何をしているのか」、「何か特別なことをするためにやって来たのか」、「人はなぜ生まれ、死ぬのだろうか」、「僕らはどこからやって来て、どこに向かうのか」、「死後にも、何かがあるのだろうか」
そして、それでおしまいではなかった。時には、世界中で目にするおびただしい不正に対する答えを求めた。
「人生は、なぜこれほど不公平なのか」、「誰にも危害を加えたことのない小さな子どもが、生まれた時から誰からも愛されずに飢餓、戦争、貧困、病気、搾取、虐待で残酷なまでに苦しむその一方で、健康に生まれつき、幸せな環境で愛される子どもがいるのはどうしてか」、「なぜ病気になる人とならない人がいるのか」、「長生きする人がいる一方で、生まれた途端に死んでしまう人がいるのはなぜか」、「苦悩や悪意があるのはなぜか」、「善人と悪人、幸福な人と不幸な人がいるのはなぜか」、「僕はどうしてこの家族の下に生まれ、他の家ではなかったのか」、「どうして他の人ではなく、この僕に、こんな災難が降りかかるのか」、「他の人に起こる不幸が、自分に起こらないのはなぜか」、「これらの違いは一体何によるのだろうか」
また、ある時は、感情面でのものだった。
「なぜ僕は幸せでないのか」、「なぜ幸せになりたいのか」、「どうしたら幸せになれるのか」、「僕を幸せにしてくれる愛の対象を見つけられるだろうか」、「愛とは何で、その感情とは何だろう」、「この気持ちは何なのか」、「愛する価値があるのか」、「愛する方が苦しむのか、それとも愛さない方だろうか」
おそらく君も、人生のある時点で、同じような質問をしたことがあるだろうし、今でも時々そのように考えることがあるのではないだろうか。
でも僕たちは、日常生活の一日一日に追われているので、意識してこのような問題を提起する機会も、答えを見つけようと努力する時間もあまりない。僕たちには、いろんな義務や気を逸らされる雑事が多過ぎるのだ。そして、答えは簡単には見つからないし、探求すると自分が不安になるので、疑問は心の片隅に押しこめておくのだ。そうすれば、苦しみが軽減されるとでも思うのかもしれない。
これらの疑問の一つ一つに答えはあるのだろうか? ありきたりな答えを求めているのではなく、本当のことが知りたいんだ。真実は存在するのか? 何が真実なのだろう。どこに真理を求めるべきか。そしてそれが本物だと、どうしてわかるのだろうか。
僕は、常に懐疑的で疑い深い人間だったが、探求心も旺盛だった。いつも自分自身で物事を確かめるのが好きだった。だから、小さい頃から教えられた宗教、哲学、科学の中に答えを見出そうと、ずっと長い間探し求めてきたのだと自信を持って言える。
そしてどの分野にも、世の中の理解が深まる独自の宇宙観があったが、自分の現実をありのままに説明するには、宗教にも科学にも限界があるように思えた。いつも現実からかけ離れた、中途半端で矛盾し合う答えしか得られずに、僕の疑問が解消することはなかった。深く追求しようとどんなに努力を重ねても、最後には破ることのできない壁――質問を続ける気が損なわれてしまう最終回答――に突き当たった。
宗教から得られた最終回答は、「神の御心です。神のみが知るのです。私たちには計り知れません」というものだった。
つまり、人の生まれ出る環境にどうして優劣があるのか、病気になる人とならない人がいること、命の長さの違いなどは、僕たちには理解できないということだ。死後に起きることや、他でもなくこの家族の下に生まれた訳や、なぜこんな世界なのかとか、神がこの世の不正を許容する理由などは、僕たちには到底理解できないということなのだ。
そして科学から得られた最終回答は、大体次のものだった。「すべての事象は物理的な説明が可能だが、哲学的な観点から言えば、ほとんどは『偶然の産物』か『それが存在するかどうかは、科学的には証明できない』ということになる」
つまり、君が存在するに足る理由はないし、生きるに値する特別な目的もないということだ。もし概ね恵まれた環境の下に生まれたのだとしたら、それは偶然だ。生まれつき病気だったり健康なのも、どの家族に生まれるかや寿命の長短なども、偶然だ。科学的には、生まれる以前の生や死後の生の存在などは証明できない。科学的には、神が存在することも証明できない、などなど・・・・・。
大抵の人は、このように教わったことを真に受けているので、誰かと話をしても、宗教を信じている人であれば、概ね、「神の御心です。神のみが知るのです。私たちには計り知れません」と答えるだろう。
一方、科学を信奉する科学者の立場を取る人たちは、宗教を信じる人たちよりも知識があると信じこんでいて、「それは偶然の賜物だ」または「科学的には証明できない」と答えるだろう。
僕にこんなふうに答える第三のタイプの人たちもいた。「さあ、知らないな。君の質問に対する答えが何かはわからない。でも、そういうことを自問するのにも、答えるのにも興味がないんだ」と。
そして、僕が彼らに「悪いけれど、その回答は役に立たないよ。僕の質問にきちんと答えてくれていないのだから」と言うと、神を信じる最初の人たちなら、「それは、信仰心がないからだよ。信仰心さえあれば、知る必要なんかないよ」と言う。
二番目の科学信奉派なら「君には必要な知識が欠けてるからね。科学は答えをくれるさ。それが僕の言うところの『科学では証明できないってことが、科学的に証明されている』ことなんだよ」と返答する。
第三タイプは、「支払わればならないローンがあるし、食べさせないとならない家族がいるし、分割払いの車がある。週末には旅行に行くことになっているし、もう充分忙しいんだから、こんなことでこれ以上僕を煩わせないでくれよ」と言う。
最初の人たちには、僕が自分の疑問に答えを見出そうとするのをやめるなど無理だ、と答えよう。自身の意志に背かない限り、絶対に諦めることなどできないし、僕はそれだけはしないからだ。
第二の人たちには、知識の欠如によるものではない、と答えたい。そのような知識は学んだ。僕は化学博士だし、物事の探求に限界を設ける必要がある、という結論に達したことは一度もない。計測する道具がないからといって、踏みこめない分野があるとは思わない。僕には僕自身がいるし、自分が自分の計器となればいい。僕は、自分が知覚したことは、精密な計器で測定できたも同様に見なしているで、他者もそれぞれが感知器であることを認めよう。だから、僕自身の計器で感知できないことがあったら、他の人たちに、その人たちの感知器では何を捉えたのかを聞いて、役に立つのか見てみようと思う。
第三の人たちには何も言わないでおこう。彼らは僕の話を聞きに来ているのではないから。
こう言ってはいても、答えの探求において、役に立ったり注目するような事柄に出会えなかった訳ではない。だけど、より多くのヒントに出会えたのは、正規の道筋から外れたところでだった。
中でも最も興味を惹かれたのは、他の人たちの体験だった。それは、自分でも試せるものだった。誰かが以前に経験したのだとしたら、僕にも体験できるかもしれないからだ。
特に二つのことに興味を持った。アストラル体(幽体)での旅とナザレのイエスの生涯だ。この名前には聞き覚えがあるだろう? 僕は、教会がイエスについてどう言っているかを取り上げたいんじゃない。公式なもの非公式なもの、宗教上のものも世俗的なものも様々な起源の随分沢山の資料にあたってみたが、ほとんどのものが二つの点で共通していた。それは、この人物が実際に存在したということと、話したり行ったりしたことが人類史上に多大な影響を与えた、ということだ。
一体、何が僕の注意を引いたのだろう。それは「汝の敵を愛せよ、どんな人でも愛せよ」という彼のメッセージだった。すべての宗教の神々が征服や戦争を正当化するために利用され、人びとや民族がありとあらゆる口実で絶えず戦い合っているような世の中(現状と同じく)で、それと全く反対のメッセージを携えた人物が現れたことが、目立たない筈はないだろう。そしてそれだけでなく、自分を手本として実践してみせたのだ。つまり、過大な約束しておきながら、後では言ったことと反対のことをするお馴染みの政治家のように、口先だけではなかったのだ。
けれど、イエスについては、死後に彼以外の人――中には彼と出会いもしなかった人たち ――によって書かれたものがあまりにも多すぎて、一体どうしたら本当に起きたことがわかるのだろう? 彼が実際に言ったこと、または言わなかったことは何だったのか? 僕にはそれが気になった。
イエスのテーマは、後ほど改めて取り扱うので一旦置いておき、今度はアストラル・トリップ(幽体旅行)について話したいと思う。
僕は、様々な著者のいろいろな本の中でその事象を知った。彼らは、身体をリラックスさせるテクニックによって、自分の身体から離れることが可能だとしていた。これが幽体離脱(アストラル・プロジェクション)である。信じられないだろう?
自分自身の身体から離れられるということに、興味を持っただけではなかった。この人たちは、その状態で、物体の中を通過したり、考えただけで一瞬にして好きな場所に移動するというような、驚くべきことをやれると断言していたのだ。しかも、それだけではなかった。その状態では意識が拡大するため、人生の目的やこの世でするべきことがはっきりと理解できるというのだ。
僕は、このことに関心を持った。もしかしたら、疑問に対する答えを得られるかもしれない。失うものは何もない。「最悪でも、何も起こらないだけだ」と考えた。そこで、実際に取り組んでみることにした。
毎晩寝る前には、リラックス体操を行ってみた。一カ月ほどは何も起こらなかった。つまり、身体から離れることには成功しなかった。だけど、リラックスすることで何も感じられない訳ではなかった。これは、なかなか気に入った。通常感じられたのは足の裏の振動で、上昇してきて脚の感触を失うこともあった。
ある日、この振動は脚よりも上に、胴体へ首へ、そして頭へと登っていって、とうとう身体の感覚がなくなった。激しいながらも心地良い振動だけとなり、そして、それは起こった。突然、スポッ!と、超スピードでトンネルの中に発射されるような感じを味わった。それは本当に信じ難い感覚で、言葉でどう表現していいのかわからない。目が回るような速度で一瞬のうちに何億キロメートルも旅したようだったが、不快な目眩も酔いも感じられなかった。そしてスピードが少しずつ減速していって、自分のいる場所を見てみることができた。
それは、おとぎ話から抜き出したような信じられないところだった。表現する言葉もないほど美しい自然に囲まれた湖があった。すべてが、光も色も香りも音も本当に何もかもが、うっとりするようだった。そして、僕自身がその場に溶けこんだかのように、すべてを活き活きと感じた。言い表せないほどの平和が息づいていた。僕は体験していることすべてにあまりにも驚いていたので、何も考えられないでいた。と、その時、一人でいるのではないことに気づいた。
水辺近くの石の上に座っている人がいた。自分でもどうやったのかわからないが、近づきたいと思っただけで、すぐにその人がいるところに行きつくことができた。どうやら、そこでは、したいと心の中で思ったり考えたりするだけで実現できるようだった。彼は僕のことを待っていたようで、僕を見ても全く驚かなかった。歳をとっていて、髪の毛も長いひげも完全に白髪ではあったけれど、老人につきものの疲労や苦悩の跡は見られなかった。白い祭服のようなものを着て、ひもで腰を締めていた。でも、それが一番目を引く点ではなかった。
僕が惹きつけられたのは、彼のまなざしだった。あのような素晴らしい瞳は、この世では絶対に見ることができないだろう。優しく、人を見通すように透き通り、例えようがないほど落ち着いた平和な気分にしてくれた。変に聞こえるかもしれないけれど、その見知らぬ老人の愛に満ちたまなざしに射抜かれてしまったようで、僕は自分が置かれたその居心地のいい状況を、大して奇妙だとも思わなかった。
ここからは、イザヤという名を語ったその素晴らしい老人との対話を、この最初の出会いとその後の巡り会いを思い出して、再現してみたいと思う。彼との対話は、僕の人生をより良いものへ、いや、はるかにいいものへと根本から変えるほどのものだったので、それをできる限り忠実に再現して、皆さんと共有したいと思う。僕の解釈や印象に捉われることなく、彼の言葉を直接聞いて、皆さん自身が自分なりの結論を引き出してくれればと思う。
さあ、寛いで座ってもらいましょう。幕が上がるから。
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魂の法則 Part2【最初の出会い】
魂の法則 Part1【序文】
魂の法則 Part2【最初の出会い】
魂の法則 Part3【神】
魂の法則 Part4【霊的世界】
魂の法則 Part5【進化の構図】
魂の法則 Part6【人間の構成形態】
魂の法則 Part7【人間の転生とそれが霊性進化に果たす役割】
魂の法則 Part8【霊界との交信】
魂の法則 Part9【転生のプロセス】
魂の法則 Part10【他世界での生】
魂の法則 Part11【自由意志の法則】
魂の法則 Part12【霊的裁きの法則】
魂の法則 Part13【愛の法則】
魂の法則 Part14【愛VSエゴ(我欲)】
魂の法則 Part15【虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)】
魂の法則 Part16【エゴ的感情】
魂の法則 Part17【人間関係と「愛の法則」】
魂の法則 Part18【「愛の法則」から見た病気】
魂の法則 Part19【イエスの地上での使命】
魂の法則 Part20【別れ】
魂の法則 Part21【あとがき】