魂の法則

魂の法則【イエスの地上での使命】

魂の法則【「愛の法則」から見た病気】

イエスの地上での使命

イエスが言ったとされる言葉と関連させて物事を説明されることがあることに気づきましたが、どうしてそうするのですか?

その場を借りて、ついでに君のもう一つの質問にも答えようとしているのだ。君は、ナザレのイエスの真相について知りたいと思っていたのではなかったかね?

そんなことも知っているのですか?

もちろんだ。

この話が出たので、ナザレのイエスについて聞きたいことがあります。彼が本当のところ誰だったのか、地上での使命があったのだとしたらそれが何だったのかを知りたいのです。

よかろう。生まれてから二千年も経つのに、彼のメッセージはまだ正しく理解されてはいない。

どういう意味ですか?

彼の死後、あたかも彼のものでもあるかのように、無数の付け足しが盛りこまれていって、携えられ教えの本来の意味が徐々に歪めてられてしまったのだ。
イエスの使命を理解するには、彼が言ったように、「麦粒」と「麦殻」、つまり真実と偽りとを区別する必要があるのだ。

それで、彼の任務は何だったのですか?何をしに来たのですか?

霊的進化の道を示しに来た。「魂の法則」を教えに来たのだ。
中でも「愛の法則」の伝道に力を注ぎ、「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい、汝の敵を愛しなさい」という無条件の愛のメッセージをもたらした。

ナザレのイエスは、神自身の生まれ変わりだったのですか?それとも神の子だったのですか?

ナザレのイエスは、非常に進化した魂が転生したものだった。

では、神の生まれ変わりではなかったのですね。

そう、神の生まれ変わりではなかった。だが彼は、自分が神であると言ったことなど一度もなかった。
そう断定したのは、イエスの後にやって来た、別の者たちだ。

少なくとも、神の子ではあったのですね。

そう、君たちと同じように真の神の子だ。違いと言えば、彼はそれを自覚していたが、その他の人たちには自覚がない、ということだけだ。

それなら、イエスはそれほど超自然的でも神聖な存なく、僕たちのようにただの人間だったのですか?

君たちのように正真正銘の人間だったが、もっと高度に進化していた。進化することで段々と神に近づけると理解するなら、イエスは君たちよりも神に近かったと言えよう。

でしたら、僕たちも進化すれば、イエスが転生した時の進化レベルに到達できるのでしょうか?

そうだ。しかも、同じレベルに限らず、もっとずっと高いレベルに達することも可能だ。霊的進化のプロセスは、止まるところがないのだ。
だが、それがただ一度の肉体生では無理なのは明らかだ。イエスと同じ域に至るには、君たちも多数の転生をして、無数の体験をする必要があろう。それに、君たちがそこに達する頃には、イエスも他のすべての魂と同じように進化を続けているので、さらに高いレベルに進んでいるであろう。

イエスも進化するために、輪廻のサイクルを経験しなければならなかった、とほのめかしているのですか? それは、かつては僕たちのように全くの未熟者だった、という意味ですか?

そう示唆しているのではなく、断定しているのだ。イエスも君たちと同じように、物的世界での経験を通して改善せねばならなかった。そして、その意志の力と個人的な努力によって、地上で果たした任務を遂行する上で求められた進化のレベルに至ったのだ。
君たちはイエスが行ったことに強い衝撃を受けたが、それをほとんど理解することができなかった。

イエスは、進化を続けるために、肉体に宿って十字架上で死ぬ必要があったのでしょうか?

いや、すでに何のカルマも負債も背負っていなかったので、その必要はなかった。あれほど酷な最期を迎えなくとも、自己の進化を継続できたであろう。だが、それがどんな影響をもたらすかを知っていたので、敢えてそうしたのだ。
イエスが偉大なのは、カトリック教会が熱心に言い広めてきたように、十字架にかかって死んだことではない。もしもそれがイエスの功績なのだとしたら、その時代にはそれが罪人の処刑法だったので、同じ形で死んだ何十万人の人びとにも、功績を認めなければならないだろう。
イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さと勇気にあるのだ。そうすることで、多大な苦悩や死さえも被ることを知っていたにもかかわらず、誰の脅しにも屈せずに自分の考えを変えることがなかった。

では、何のためにそうしたのですか?

後進の同胞への愛のためだ。イエスのように無条件の愛を知り得た魂は、償いの必要性のためではなく、遂行せねばならぬ任務のために行動するのだ。通常それは、どのように愛をもって生きるかの手本を示すことと関係している。
魂は、ある段階からは、愛だけを動機として行動する。多くの魂が、発展の遅れた世界への転生を希望し、後輩を支援して愛に生きることで、もっと速く幸福に到達しようとする。
この場合に遭遇するネガティブな状況は、贖罪しょくざいのためではなく、霊的に劣った世界自体に元来備わっているものだ。だが彼らは、苦痛も死も怖れていないので、そのような苦悩を味わうことや殺されることすらいとわない。高次に進化しているので、死が存在しないことを知っており、肉体の命は魂の命のほんの一瞬に過ぎないとわかっているのだ。

では、劣った世界に転生する高次の魂が、学ぶためにではなく、教えるためにだけやって来るのだとしたら、その人生ではあまり進化できないのでしょうね。

いや、そうではなく、人生のいかなる試練からも学び取ることができるので、教えるためだけではなく学ぶためにもやって来るのだ。そして、自己の愛と理解の度量を常に試されることになるので、自分と同等レベルの世界にいるよりも、速く進化できるようになる。
さらに、愛に満ちた環境では露呈せず、極限状況でなければ表面化しないような、奥深く隠れた自分の欠点を浮き立たせてくれる。こうして、欠点を改善する機会が得られるので、エゴ(我欲)を除去する上で前進できるのだ。

イエスの話に戻りますが、彼はどこからも援助を受けずに、独りで仕事をしたのですか?

人が愛に突き動かされて尽くす時には、さらに進化した霊的存在からの影響を受けるにふさわしくなる。イエスの場合は、その中でもロゴス・キリストに影響された。

ロゴス・キリストとは誰ですか?

君たちの惑星の進化の最高責任者となる霊的な存在だ。

でしたら、聖なる三位一体の三人とは、神とロゴス・キリスト(以下、キリスト)とイエスなのですか?

それはわからない。そう言い出した人たちでさえ、それが何を意味しているのか知りはしないと思うからだ。
断言できるのは、神が唯一であることと、キリストとイエスが、神とは異なる別々の存在であることだ。それゆえ、彼らは神でも神の顕現でもないが、御心みこころと調和しているので、神の代理人とか神の使者、などと捉えることは可能だろう。つまり、彼らは「愛の法則」を遵守する者で、進化の計画に自主的に参加しているのだ。

キリストはイエスを通してどのように行動したのですか?

イエスは人生のある時点から最後の数年間は、キリストにインスピレーションを与えられ、励まされて、行動した。実際、イエスが任務を完了できるためには、その必要があったのだ。

でしたら、話していたのはイエスですか、それともキリストですか?

二人で行動していたと言っておこう。キリストから閃きを与えられて、イエスが話していたのだ。だが、イエスは決して自分の意識や個別性を失わなかったし、自由意志を失いもしなかった。

イエスは、地上に再び生まれ変わるでしょうか?

キリストは必要とあらば、人間の進化段階にいる魂を転生させて、いつでもそれに顕現するだろう。イエスの前にもそうしたことはあるし、地球の霊的進化が求めるなら、今後も再び、そうするであろう。転生するのがイエスであるか、別の似たような進化程度の者であるかは重要ではない。
あらかじめ言っておけるのは、新たな救世主や預言者、アヴァター(神の化身)などとして生まれ変わる際には、キリスト教徒が待ち望むように、茨の冠に十字架を背負ったナザレ人としてではないし、釘で血にまみれた手もしてはいないということだ。外見的には、普通の人であろうが、通常の域を超える、愛と霊的叡智の能力を備えていることだろう。だがそれは、隣人愛のメッセージと霊性進化と同調できる者にしか感知されないのだ。
またイエスが現代に転生した場合に、最初に彼を攻撃して布教させまいとあらゆる手段を講じるのは、イエスを旗印にしている教会そのもののお偉いさん方だろう。なぜなら、彼の教えが地球の人類の心に浸透してしまえば、彼らが宗教的貴族でいられる日々も数えるほどとなり、凡人に帰してしまうからだ。

イエスについて最初に話された時に、本来のメッセージには多くの付け加えがされて、彼が伝えたかったことを歪めてしまった、と言われましたね。当初の教えと、後世の追加事項とを、どう見分けるのですか?

ごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれもイエスの教えではない、ということになる。イエスはこれらの法則を熟知しており、聞く耳を持つ者に伝達しようとしたのだ。

イエスの真の教えの中で、最も大切なものを幾つか挙げていただけますか?

もちろんだ。

1.すべての人間は、人種を問わず、性別や宗教を問わず、同じ本質である。すなわち、皆、進化途上の魂であり、それゆえ、兄弟である。

この根本的な教えは、以下の金言に収められている。
「神の御言葉みことばを聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」(ルカによる福音書8章2節)
「誰でも天におられるわたしの父の御心を行う者が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイによる福音書12章50節)
このことから、魂の進化の道程から除外される者など一人もいないことがわかる。どんなにひどい罪業を犯したにせよ、決して見捨てられはせず、永遠に有罪とされることもない。改悛かいしゅんして、真の幸福に到達する機会はいつでもあるのだ。そしてこれは、福音書でも次のように表明されている。
「もしある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷った羊を捜しに行かないだろうか。そしてもし見つけられたなら、その人は、迷わずにいた九十九匹のことよりも、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイによる福音書16章12-14節)

2.魂の生命は永遠であり、死は存在しない。

「体を殺しても、魂を殺し得ぬ者たちを、恐れるな」(マタイによる福音書1章2節)
「天に昇った者はいないが、天から降りてきた者はいる」(ヨハネによる福音書3章13節)
二番目の節の意味については、前にすでに話している。これは、出産を経て物理的に生まれ変わるすべての人は、霊界(天)からやって来て、肉体の死後はそこに戻るという意味だ。
3.地上の人間の務めは、無条件に愛することを学び、エゴから解放されることだ。魂がどれだけ成長したかは、愛の力量だけで量られる。愛が我々を進化させる、つまり、神へと近づけるのである。
「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからだ。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章43-48節)
「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書15章12節)

4.霊的進化は、自分自身の努力にかかっている。人間の死後の運命は、生存中の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によってのみ、決定される。

「しかし、真理を行う者は、光の方に来る」(ヨハネによる福音書3章21節)
「まことに言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、みな天においてもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイによる福音書18章18節)

5.各人は、それぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存して霊界と交信すべきではない。
「そこで、あなたがたに言うが、祈って求めるものは何でも、すでに叶えられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。また祈るとき、誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦して下さるだろう」(マルコによる福音書1章24-25節)
「そしてこれが、神に対する私たちの確信だ。すなわち、何事でも神の御心にかなう願いをするのなら、神はそれを聞きいれて下さるということだ」(ヨハネによる第一の手紙5章14節)
「そこで、あなたがたに言う。求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は得、捜す者は見出し、門を叩く者には開かれるであろう。(〜中略)このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い物を与えることを知っているのだ。とすれば、あなたがたの天の父はなおのこと、どうして求める者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカによる福音書1章9-13節)

6.魂の成長はただ一度の肉体生では終わらず、高度な霊性を獲得するには多数の転生が必要となる。

イエスは彼に答えて言った、「まことにあなたに言っておく。人は誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「歳をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」。イエスは答えられた、「まことにあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。(~中略)天に昇った者はいないが、天から降りた者はいる」(ヨハネによる福音書3章3-13節)

7.「霊的裁きの法則」または原因―結果の法則。自分が蒔いたものを収穫する。

「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁く通りに、あなたがたも裁かれ、あなたがたが量る通りに、あなたがたも量られるからである」(マタイによる福音書7章1-2節)
「だから、何事でも人びとからして欲しいと望むことは、人びとにもその通りにせよ」(マタイによる福音書7章12節)

8.この他にも人が住んでいる世界はあり、ここと同じ目的がある。すなわち、霊性進化の学校として役立つことだ。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、そうあなたがたに言っておいたであろう」(ヨハネによる福音書4章2節)

イエスの発言に言及する時に、どうして福音書を引用するのですか?

福音書に収集されたものに限定されずにイエスの教えを説明する方が、私にとっては簡単だ。だがそうしても、君たちがイエスが語ったものだと認めないであろうから、文献に記載されている彼の言葉を使用することに留めるのだ。そうすれば、私が勝手に創作しているのではないことが、君たちにもわかるだろう。

霊的な観点からは真実ではなく、イエスの死後に付け加えられたキリスト教の信念を、幾つか挙げていただけますか?

沢山あるが、霊的進歩に一番悪い影響を及ぼす、最も重要なものを挙げてみよう。

1.宗教儀式の執り行いに道義的もしくは精神的な何らかの価値があり、死後に天国での特権的地位の確保に役立つという信心。

2.聖書や他の聖典が神の御言葉であるという信念。

3.教会や聖職者が、地上における神の仲介者だと信じること。

4.悪業を清算するには、告白が必要であり、司祭から免罪されれば解消されると信じること。

5.最期に後悔すれば罪があがなわれる、という信念。

7.原罪への信念。

6.イエスは十字架上で死ぬことで、人類の罪をあがなったと信じること。

8.性が何か罪深いものだと信じること。

9.ただ一度の人生で、魂の行く末が永遠に決められる(救われる者には永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受ける)と信じること。

10.キリスト教徒と信者だけが救われるという信念。

11.肉体の蘇りを信じること。

元々のイエスの教えにはこれらの信念がなかった理由を、一点一点、説明して下さいますか?

よし、そうしてみるとしよう。これらの信念に、どうして「魂の法則」と矛盾する点があるのか、一つずつ順番に説明してみよう。

最初のものから始めましょう。霊的視点からは、儀式や聖礼には何の有効性もないと言われましたね。

その通りだ。

それは、どうしてですか?

霊性の道には、近道などないのだ。我々を霊的に進化させる、すなわち「救済する」唯一のものは、自己改善であり、エゴを手放し愛の能力を成長させることだ。それ以外にはない。

でも多くの人が、それを最も重要な事柄の一つだと信じていますよ。

自分自身を騙しているか、そのように騙されたいのだ。

では、救済には儀式が不可欠である、という信念は、何に由来するのですか?

様々な教会の指導者たちが、人びとの霊性を監督し、私益に利用しようとしてきたからだ。「我々の言うことを聞けば、善人にならずとも、天国で優遇してやる」、と要請するようなものだ。

でも教会は、善い人にならなくてもいい、などとは言ってませんよ。その上で、戒律も守るように要求しているだけではないですか?

言葉ではそう言っていないのだろうが、既成事実がそう言っているのだ。
儀式や聖礼や式典――派手であれば派手であるほど良い――に従うようにあれほど強調するにもかかわらず、隣人の支援に力を入れていないのなら、そう言っているのと同然だろう。

それなら、宗教に儀式があるのは、良くないことでしょうか?

人びとの霊性進化を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するのは、良くないことだ。必要ないのに、どうして儀式を行い続けねばならないのだ?

霊的なメッセージを喚起させる手段として、設けられたのではないでしょうか?

だが歴史を見ても、儀式や象徴は、メッセージを喚起するために役に立つ代わりに、代弁していた筈のメッセージ自体に置き換わってしまうことが多い。そして、それらの儀式や象徴を楯に取り、従うべき信仰にはことごとく反するという、さらに大きな過ちを犯してしまう。
その一例が、十字軍と宗教裁判だ。胸元に目立つ大きな十字の印を付けた服を着た人たちによる、大量虐殺や殺人だ。彼らは毎日、聖体を受けていたのだが、手には聖書を握ったまま、死の宣告を行ったのだ。隣人に対する愛の教えは、一体どこに見出せるのだろうか?

でも、聖餐式せいさんしき(訳註:最後の晩餐に由来するとされ、パンをイエスの体、赤ワインをイエスの血として与えるもの)は、イエス自身によって伝えられたのではありませんか?

いいや、そうではない。イエスが、自分が処刑されるまでに時間が残されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当だ。だが彼は、聖体を与える儀式だけでなく、その他のいかなる儀式や式典、聖礼も確立しようなどと考えてはいなかった。
さらに言えば、たとえ象徴的であろうと、キリストの肉体や血を口にするのは、カニバリズムを連想させ、イエスはそれと何の関係もない。

では、聖体を与えようとする儀式は何に由来するのですか?

それ以前からの宗教儀式が、キリスト教に組みこまれたのだ。実際のところ、そういう式典はすべて、イエスの使徒を指すキリスト教徒の名称や彼らを象徴する十字の印と共に、後世に導入されたものなのだ。

でしたら、十字の印もイエスに由来しないのですか?

十字架というものは、イエスの時代には、今の電気椅子と同じように、人を処刑するために用いられていたのだよ。正常な判断力があれば、自分の信仰の象徴に十字を使おう、と思いつく者など誰一人としていなかったろう。イエスが現代に生まれ電気椅子で処刑されていたとしたら、電気椅子をペンダントにして下げようとする者がいないのと同じことだ。

このようなお話はかなりショッキングで、キリスト教徒やカトリック信者には、なかなか受け容れられないのではないかと思います。

そうかもしれないが、それが真実だ。またこの場では、霊的な真相に目を開くように努めている。イエスの地上での任務が、霊性進化の道を示すことであったと思い出してごらん。あの時代の宗教組織は、多くの迷信と偽りで人びとを怖れさせ、自らの富と権力への願望を満たすために神の名を利用して、長きにわたって、人びとの霊的な成長を阻止してきた。複雑な儀式制度で気を逸らし、自分たちの思いのままにお金を巻き上げることに利用し、人びとを犠牲にして、派手な暮らしをしていた。そして、イエスがその事実を明白にしたので、彼を殺したのだ。
当時のユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して教えを操り、人類の霊的な成長を阻んで生き永らえてきた今日の教会の姿と、非常によく似ていたのだ。もういい加減に、きちんと正されるべきだろう。

儀式に反対なさるあなたの論拠はどれも大変結構なのですが、キリスト教徒からすると、聖書に記載されていないことは・・・・・。

それなら、マルコの福音書の第12章29-34節を調べてごらん。そこには、ほぼ同じ教えが収められている。
“彼らが論じ合っているのを聞き、一人の律法学者がやって来て、イエスが巧みに答えられたのを認めて、彼に質問した、「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一の戒めはこれである、『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。この二つより大事な戒めは、他にない」。そこで、律法学者はイエスに言った、「先生、仰せの通りです、『神はひとりであって、その他に神はない』。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。(訳註:幡祭:古代ユダヤ教の動物を神に捧げる儀式)”

第二点目では、聖書や他の聖典が神の御言葉である、と信じることは間違いだと言われましたね。

そうだ。

では、聖書が神の言葉でないのであれば、何だとお思いになっているのですか?

旧約聖書は何冊かの本がまとまったもので、イスラエルの歴史の一部が収められているが、指導者たちの征服欲を正当化し、それが「神の意志」であったと見せかけるために都合がいい修正がされている。また、霊的に平均よりも進化した存在、つまり預言者たちのかなり正しい教えも記載されているが、それはすでに、宗教的な信仰が狂信的に操作されていることを警告しており、真の霊性とはいかなるものかを垣間見ることができる。
一方、新約聖書は、イエスの生涯で最も特出した事実、特に最後の数年間の公での説教に関する口頭伝承を収録しようと試みたものだ。イエスが伝えようとした教えを部分的に収めた「福音書」と、以後の使徒たちの生活「言行録」と、人類の未来に関する著者の一連のヴィジョンを集めた「黙示録」とから成る。

「文書」に関してあまり良い心象がないようですが、論拠を裏付けするために、折に触れて新約聖書の文言を引用されていますね。

すべてが偽りだとは言っていない。各々の事柄はそれぞれ正しく評価されるべきだ。山上での説教のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私は引用しているのだ。
イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうすることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことから救ったのだ。人には比喩の意味がよく理解できなかったので、教会の検閲に引っかからずに済んだのだ。

例を挙げて下さいますか?

たとえば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収められている。初めのヨハネの3章は、もう見た通り、イエスとニコデモの会話の中でだ。
“イエスは彼に答えて言った、「まことにあなたに言っておく。人は誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「歳をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」。イエスは答えられた、「まことにあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。(〜中略)天に昇った者はいないが、天から降りた者はいる」”(ヨハネによる福音書3章3-13節)

二つ目は、マタイによる福音書の17章10-13節だ。
“そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った、「いったい律法学者たちが、エリヤが先に来るはずだと言っているのは、どうしてですか」。イエスは答えて言われた、「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どおり直すのだ。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ。ところが人びとは彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。”

それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに対しては、どんな姿勢でいるべきですか?

よいかね、すべての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる聖典があるのだ。そうしなければ、自分たちの神聖を正当化できないからだ。
だが、霊的に進化している者によるものや高次の霊に感化されて書かれた可能性があるものが存在していることは確かだが、現実的には、君たちと同じような人間によって書かれたものなのだ。
いずれせよ、著者の名前に惑わされずに常に内容を吟味してみることが、騙されないための一番良い方法だ。メッセージの質を見れば、作者の霊的レベルがわかるであろう。
また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手によることもある。千余年にもわたって偽造や改変されてきて、聖なる仲介者だと勝手に名のり挙げる者の利益となってきてしまった。それゆえ、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のものは詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書かれている可能性もある。そして真実は、徹底的に中味を分析しながら「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ、知り得ることができるのだ。

地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳しい戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、それをどう思われますか?

魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押しつけて成り立つ学説や宗教はすべて本物とは言えないし、神や高次の霊性からの恩寵だと見なすこともできない。したがって、これらの宗教の権威者たちを、真の霊性の道の導き手だとは見なせない。なぜなら、霊性の指導者は絶対に力を行使したり操ろうとすることがなく、特定の掟を強要することもないからだ。

地上の宗教は、神の意志を代弁してはいないので、本物ではないと言われるのですか?

すべての宗教には、高次の存在から閃きを得た真実の一部と、多くの虚偽とがあるのだが、後者は、地上の利益に左右された者たちが付け加えたものだ。

例を示して下さいますか?

よろしい。たとえば、旧約聖書の中の十戒はかなり的を得た規律であり、霊的に進化した存在の教えに忠実だ。
十戒の一つに「汝殺すなかれ」がある。それなのに同じ旧約聖書の中には、神と称する者が、仮定上の「約束の地」を征服するために、イスラエルの民を他民族の攻撃に派遣するくだりがある。
当然だが、このような戦闘では、人びとはお互いに戦って人を殺す羽目になる。つまり、そのくだりが本当であるなら、神が民に「殺せ」と命じたのだと推測できるのだが、その場合、この(殺せという)メッセージは、最初の「殺すなかれ」と矛盾する。
この明らかな逆説をどう解釈すべきだろうか? 神が矛盾したことを言ったのだろうか・・・・・、でも、けた外れに進化した存在に、それは認めがたいであろう。それなら、二つの指示はそれぞれ異なる動機を持った別々の者に由来するのだと認める必要があるであろう。
それでは、「殺すな」というメッセージと、「殺せ」というメッセージとでは、どちらが常識的に見て、霊的に進化したものだと言えるだろうか?

僕にとっては、「殺すな」の方ですが。

こちらが高次の霊性からの教えだと認めるのであれば、その反対のものは、同じ源から生じてはいないことになる。

では、どこから生まれたのでしょう?

侵略に興味があった者たちによる。

でも、それは過去のケースですから。

現在でも同じことが繰り返されてしまっている。

表向きは熱心な神の信奉者とされ、いつも「神のご加護がありますよう」という言葉で演説を終わらせているのに、自国民を他国の侵略に派遣するのが平気なリーダーが、現在の地球には沢山いはしないだろうか? 何百万もの死者を出し、何百万もの家庭を何世代にもわたって破壊しているのに、聖書の詩篇や「神を信じる」だの「神は我々と共に!」などの言葉を、自分たちの行為を正当化するために利用してはいないだろうか?
はっきり言っておこう。神や高次の霊性を持つ存在は、紛争の一方の側を味方することはないし、いかなる侵略も征服も支持することはない。もしそうするのであれば、神自身が、宇宙に設けた諸法則の一つの「愛の法則」を侵すことになるからだ。

前述のような人たちは、ユダヤ教徒やキリスト教徒が守るべきだとされる「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒律を侵している訳だ。それなのに、あたかも神が、神の子を踏みにじることに同意したかのごとく、その名を利用して、自分たちの非道を正当化しようとしている。これが、神の名をみだりに唱えるということで、一部の者が思っているように、俗っぽい話の中で「神」という言葉を多用することではない。

それでは、神によって選ばれた民ということについてはどうですか?

神に優先される民族や人間など存在しない。神や高次の霊性は、他の者をないがしろにして特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、すべての人に進化の計画を推し進めるように呼びかけるのであり、それに協力したいかどうかを決めるのは各魂である。もちろん、神の法則に従うようにと、誰にも強いられることはない。
望みとあれば、各人の意志と能力に応じて、個人または集団での人類の進化計画の中で、具体的な役割を果たす約束をすることが可能だ。これが、魂の選択なのである。
ゆえに「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎず、それによって、自分を成長させるだけでなく、まだこの呼びかけに心を許していない者の手本となるのである。

そのように、霊的な世界からの呼びかけに心を開く人たちは、神秘主義者や預言者などと関係があるのでしょうか?

霊界との直接的な交信は、ごく一部の人たちだけの特権ではないのだよ。すでに言ったことだが、すべての人が、個々に神や高次の霊性や自分の指導霊との直接的な繋がりを持っていて、それぞれが独自の方法でそれを体験していく。
大切なのは、誠実に謙虚にコンタクトを求めるということと、探求の動機に魂を成長させるという目的があるということだ。もしそうであれば、各人に、それぞれが必要としているものが与えられるであろう。体験の華々しさが重要なのではなく、その経験を、欠点を正当化するためにではなく、愛における進歩のために役立てることが大切なのだ。
不幸なことに、「アセンデッド・マスター」やその手の重要な人物だと思われたいという欲望から、自己暗示による経験を本物だと思いこみ、他の人を騙してしまうような人が沢山いる。また、本当の霊的な交信を経験した後で、それを自己進化や他者の援助に活かす代わりに、威張って自分は優れていると思いこみ、他者に神のごとく扱われることを要求する人もいる。
自分をどう改善するかを追求するよりも他者の称賛を求めてしまうのは、虚栄心からの欠点だ。残念だが、これは君たちの世界ではごく頻繁に見られる現象だ。

預言者とは何ですか?

預言者とは、霊界の真実を教え、「愛の法則」に反する行為がもたらす結果を、各時代の人びとに忠告するために、高次の霊性から送られて来る者である。一般的に、転生する惑星の平均よりも進歩した魂だが、そうでなければ、託された使命を遂行することができないからだ。
彼らは一般的に、生まれ出た社会から拒否や拒絶をされ、しいたげられたり罵倒されたり馬鹿にされたりする。そのため、他者を助けるということは、自己の愛の力量を試すこととなり、同時に自分自身をも進化させることができる。つまり、彼らは、通常考えられているように、特別で神聖な特権を持つ存在などではない。
その霊的な能力は、輪廻のサイクルの中で――他世界での転生であったかもしれないが――自分自身の功績によって獲得されたものだ。あらかた年下の生徒を手助けする年上の生徒といったところだが、それと異なるのは、他の人と同じ条件で転生して来るので、肉体的にも年齢からも彼らを識別できない点だ。
いつか、君たちの惑星の住人が充分に進化を遂げる日が来たら、その中から、進化の遅い人類が住む世界で預言者の役目を果たす者が出ることだろう。

でも、偉大なマスターだと思われていた人が、後から、実は詐欺師で、人びとの純粋さにつけこんで大金を貯えこんでいた、と発覚することがよくありませんか?

その通りだ。多くの者が猫をかぶっている。
だがその一方で、初めは良く、いい線を行っていたので、必要な霊的援助が与えられた、という者も沢山いる。問題は、その者たちが、人びとに与える効果に目がくらんでしまうことだ。
本当に答えを探し求めている人は、内面を覚醒してくれる人に出会うとその人にとても感謝して、それを大げさに表現しようとするものだ。そのため、本当は霊的知識の光を届けているだけの筈なのに、当人も自分自身がまぶしく輝いているのだと勘違いしてしまう。人びとも間違って、その人を神のようにたてまつり始める。
エゴとその顕現形態をまだよく知らず、自分でも克服の努力をしないのであれば、エゴは増大し、自分がすべての者に勝ると思いこむに至るだろう。そして、他者に奉仕する代わりに、その反対となってしまう。自分に恩義のある家来か奴隷のように仕えることを人に要求し、どんな決断や願望であっても決して問い正さずに、盲目的に追従してくれることを求める。
こうして光は段々と消えて行き、最初の思いは失われ、インスピレーションもなくなる。霊的な閃きが消えるとエゴが頭脳を支配し始め、その時から受け取るメッセージは混乱し、矛盾したものとなる。そして、本物になり得たであろうことは、守りきれずに失われてしまったものの混沌とした記憶として残り、エゴの高揚を正当化する多くの嘘で固められるのだ。

真の預言者と詐欺師とを、どのように見分けるのですか? つまり、真の預言者、霊性の指導役や使者に必要とされる条件とは何ですか?

肉体を持たないガイド役の霊たちは、何の分け隔てもせずにすべての魂を支援する。真の霊性というものには、国境も経済格差も、人種や宗教やその他のいかなる違いも存在しない。それゆえ、富める者と貧しき者、白人と黒人、信者と非信者とを差別しない。これらの違いは、一時的な条件や状況に過ぎず、転生から転生で変化するものだからだ。
霊的な教えを普及するにふさわしいと自認する者は、それと同じやり方で行動しなければならない。
肉体を持つ真の霊的指導者は、「魂の法則」に従って目立たず謙虚に生きようとし、何の見返りも求めず他者を援助し啓発しようとしている。
それゆえ、霊的な真実らしきものを公開することで、金銭的な、またはその他の代償を貰おうとする者たちは、すべて、真の霊的な指導者だとは見なせない。「会員だけ」の真実というものは存在しないからだ。
真のマスターは、自由意志を尊重する。つまり、絶対に自己の見解を押しつけず、自分が手本となって宣教し、提供するものを受け取るか取らないかは、他者の自由に任せるのだ。したがって、権威主義に訴えて正当化することはなく、絶対に「俺の言う通りにしろ。俺はマスターで、悟りを得た神の使者だぞ」などと言ったりしない。
心を開いた者を説得するには、メッセージの質が高いだけで充分だ。それに関心を持たないため説得できない人たちがいても、彼らにはそうして独自の道を歩む自由意志があるのだ。好きでもないものを信じたり同意したりを、義務づけられることも強要されることもない。

偽マスターや見せかけの霊性に引っかからないための助言がありますか?

どんなに高次に思える宗教や政治や哲学的な思想であろうと、その信仰のために、決して君たちの意志を放棄してはならない。意志を放棄して信じることが求められるのであれば、そうするには値しないものだ、と確信してよい。
伝達者を偶像化せずに、メッセージを分析しなさい。メッセージに納得できなければ、疑問を表明し説明を求め、それでもその教えと同調できなければ、それを拒めばよい。理解できなくても信じるように強要する信仰のドグマによってでは、一切、何も受け容れるべきではない。
自分自身の経験、感情、理解、分析によってではなく、神聖だとされる人がそう言ったから、という不可解な外からの押しつけによって同意してしまうことは、権威主義に従うだけで、進化のためにも幸せになるためにも役に立たない。魂は自由でいる時だけが幸せなのだ。
したがって、妄信的な信仰も、霊性を管理し操る社会層も必要ない。答えは自分の内に探しなさい。君たちの内面は、指導霊や高次の霊性と直接繋がっているので、思っているよりもずっと賢いのだ。

でも多くの宗教では、霊との交信は悪魔のすることだと思われていて、それを試してみるのは有害で邪悪なことだと考えられています。聖書がこのような交信を禁じているとのことですが、聖書が神の言葉であるのでしたら、神自身がこれを禁止したことになるのでしょうか? これについてどう思われますか?

各人が高次の霊性――それを神や指導霊と呼ぶが――と独自の繋がりを持つことを認識してしまえば、教会の権威者たちは主役の地位と権力を失うこととなり、そうなれば信者を気の赴くままに操ることができなくなってしまう。
彼ら自身が矛盾しているのだ。なぜなら、彼らの聖典を神から閃きを得た人によって書かれた御言葉なのだと見なすのなら、それは、霊界と霊的な交信があったことになる。しかし、信者にはそれと同様な交信は許さず、彼らがあがめる本を書いた過去の著者だけの特権としているのだ。
イエスや他の進化した預言者は、高次の霊性との接触を求め、そこからインスピレーションを得て任務を支援してもらった訳だが、それは、肉体に宿った者が肉体を脱いだ魂から助言と支援をしてもらうという、完全なる霊界との交信なのだ。
霊媒力を非難するのなら、イエス自身をも批判することになってしまう。イエスは、大変強力な霊媒として、当時の同胞に霊界の教えを伝える活動をしたのだから。

その通りですね。でも彼らは、「イエスは神の子だったから、閃きを与えたのは神自身で単なる霊ではなかった」、と言うことでしょう。

すべてを盲信させて教えを分析することも認めていないのに、二千年以上も前の預言者にインスピレーションを与えたのが、神か、聖霊か、それともサタンそのものであったのかが、どうしてわかるのだね?
実際、教会の権威者たちが御言葉だと崇め奉る旧約聖書を書いた、本物の預言者の一人が今生まれ変わって、前世の業績を解析したり豊かにする新たなお告げを書いたとしても、昔のようにそれを公言すれば、権威者たち自身がその人をあざけり、メッセージを吟味することさえ許さず、その人が狂っていて悪魔の類と交信しているのだと思わせようとするだろう。
だから、常識的に判断しよう。相手の能力を知る唯一の手がかりは、メッセージの質なのだ。
現在、暴力や戦争や他者を憎むことを奨励している人を、神の使者だと信じられる者などいないであろう。同世代の人をそう見なせないのであれば、どうして、いかに古かろうと、過去の著者を神の使者だと認めなければならないのだろうか? 過去の作家が特別な存在であるのは、とても古いためだからだろうか? それなら、神々の代わりに恐竜や鮫や蟻を選ぶとしよう。それらは、古代の作家の誰よりも前に、この世に出現していたのだから。
イエスのメッセージが人類にこれほど大きな影響を及ぼしたのは、イエスがそう言ったからではなく、無条件の愛を示すという教え自体が偉大であったからだ。しかしこの世の権力者たちは、布教に歯止めをかけることができなかったために、自分たちの特権や搾取が終焉を迎えることを恐れ、イエスの人物像と教えを手中にし、その内容を著しく侵してしまったのだ。そして特権と権力を維持するために、元のお告げそのものと矛盾し、イエスが一度も口にしなかった言葉を彼が言ったことにして、教えと反対のことを我々に信じこませることにほぼ成功したのだ。

キリスト教徒にとっては、イエスは神同然か神の子なのですから、イエスがすることなら何でもいいのではありませんか? 一般人が直接霊と交信することを、認めるつもりがないのでしょう。

初期のキリスト教徒の間では、ごく頻繁に慈心ある霊との交信が行われていた、と知ったら驚くであろう。襲いかかるひどい迫害に耐えることができるように、彼らはこうして霊界から勇気づけられていたのだ。
初期のキリスト教徒は、愛をもって祈れば、高次の聖霊から応援されて近くに来てもらえることを知っていた。まさに新約聖書の使徒言行録の中にその例があるが、イエス自身が肉体を離脱した後に霊となって、使徒たちの前に意のままに現れたり消えたりしたことが伺える。
それ以後、教会自体がこの種の顕現を敵視した。なぜなら、そこからまた愛の種が生まれ、再び人びとの心の中で発芽し、当時の人類が宗教組織によっておかれていた霊的な闇から解放されてしまうことを怖れたのだ。
イエスは戻って来なかったが、霊界と直接交信ができる非常に高度な魂たちがやって来て、恵まれない者を癒したり面倒を見たり、多くの善をなしたのだ。だが、その多くの者は、魔術使いや異端の罪状で、宗教裁判で火刑とされた。

でも、悪霊を呼び出すために集まって、他者を支配したり富や権力を獲得する能力を授けて
力を得ようとした人たちも実在するようですが。

そのような交信は行われていたし、エゴに満ち溢れ富と権力を渇望する魂がこの世に存在する限り、今後も行われることだろう。だが、そういう意図で行動すると、同レベルの低級霊の都合のいい餌食にされて、あらゆる手段で彼らの支配下に置かれてしまい、隷属させられて、もっとひどいことをさせられてしまう。だから、このような接触は非常に危険で、全く奨励できない。
しかし、他者に危害を加えようとして霊媒力を使って下級霊と通信する者がいるからといって、霊媒を介した霊界との交信のすべてが有害だ、と結論づけることはできない。それとも、悪意のある目的にインターネットを利用する人がいるので、ネット上のすべての通信を政府が禁止することが理にかなっているとでも言うのだろうか? 理論的に考えれば、使用を制限すべきなのは、社会の健全性が狙われる時だけで、全体を禁じてしまう必要はない。

でしたら、なぜ世間では、霊との交信がこれほど反対されるのでしょうか?

それは、この世の宗教権威者やその他の権力者たちの多くが、個人が自力で神や守護霊と交信することを阻むことによって、支配力を維持しているからだ。
霊界との接触を怖れさせようと、明確に意図して作成された映画は無数にある。それらは、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、『ポルターガイスト』、『エクソシスト』などの恐怖映画で、すべての交信が恐ろしい、と思いこませるのだ。
こうして、誰もが怖れによって自分自身を異端視し、直感や夢などであろうと、霊界からのメッセージかもしれないと思う度にそれを無視したり、誤って解釈してしまうのだ。

教会や司祭が地上での神の仲介者である、という信仰は正しくない、とも言われましたね。

そうだ。

何を根拠にそう言われるのですか?

イエスと当時の司祭層との関係を正しく読み取るのなら、イエスには、司祭という身分を創る意図も、カトリック教会が創ったような階層制度を設ける意志も、全くなかったという結論に至る。カトリックのこの階層制度は、その時代のユダヤ教会をかなり忠実に模倣したものだ。
イエスは、一人ひとりが神と繋がっていると教え、司祭を介してのみ神と交信できるという誤った考えを覆しに来たのだ。
実際、イエスは、公の説教のかなりの部分で、ユダヤ聖職者たちに応酬している。イエスのやることのすべてが彼らの神経を逆なですることだったので、彼らはイエスを手強い競争相手だと見なしたのだが、それは見当違いではなかった。イエスは、次のメッセージを形を変えて何度となく繰り返したからだ。
「聞きなさい。彼らは神の仲介者などではない。なぜなら、適切な霊的援助を差し伸べることよりも、君たちを犠牲にして経済力を失わないことの方に一生懸命だ。馬鹿げた法律で君たちを混乱させてしまったが、そんなものは必要ない。天の国に入るために唯一必要とされることは、愛することだ」このメッセージが聖職者階層の目に留まり、人びとが覚醒してしまえば自分たちの仕事がなくなってしまうと考えて、イエスを殺してしまったのだ。

カトリック教会は、なぜそれほどユダヤ教に似てしまったのでしょう?

最初はそうではなかった。なぜならキリスト教徒は、初めはユダヤ人、後にはローマ人から絶えず迫害され、常に危険に身がさらされていたので、イエスの愛の教えの信奉者となるには、大変な覚悟が必要だったからだ。
しかし権力者たちは、私益に有害な思想の支持者らを抹殺しようとしたにもかかわらず、信徒が増え続けるのを見て、「敵をやっつけられないのなら、取りこんでしまえ」という戦略に切り替えたのだ。全ローマ帝国をキリスト教に改宗すると布告したコンスタンティヌス皇帝以後は、多くの者が信仰によってではなく、キリスト教徒にさせられた。そして、大半が強いられたものであったために、すべてを台なしにした。隣人愛は、そこでおしまいになったのだ。
それ以前の宗教の高位神官と信者たちは鞍替えをし、何の霊的改変もないままキリスト教に移り、重要な職に就き始めるようになった。宗教の元最高神官が、キリスト教の一信者で我慢するなどとは、君たちでも思わないだろう。彼らは、権力の持ち分を維持したかったのだ。そこで、神官の帽子を教会の司教の帽子に変えたのだ。いや、実は帽子でさえも変えはしなかった。法王と司教のかぶるミトラさえ、別の宗教に由来しているのだ。これがミトラと呼ばれるのは、ローマ人が崇めていた神々の一つ、ミトラへの古代信仰の神官たちがかぶっていた物だからだ。
キリスト教にはそれ以前の宗教儀式が沢山取り入れられ、元来の隣人愛のメッセージは、それに反する概念で侵されてしまった。カトリック教会とは、このようにして生まれたのだ。神と金とに兼ね仕えることはできない、とイエスは言っただろうが、カトリック教会は、二千余年も前のユダヤ教会のように、ほぼ最初からお金の方に加勢したのだ。

でしたら、法王の絶対的権威と地上における神の代表という・・・・・。

もちろんすべて嘘だ。法王も普通の人間と同じように間違えることがある。法王と霊界との繋がりは、他の人のものと比べて何も特別なものではない。
高次の霊性との繋がりは、無条件の愛に向けて努力することによって段々と強くなるもので、どれほど立派な肩書きを授けられようと、それで繋がりが深まる訳ではない。

では、どこからそんな考えになったのですか?

先に言った通り、教会の首長自身がそう言っている。通常それは、権力や富への野望にそそのかされた行為を、誰にも見破られないように正当化するための方策なのだ。
救済には彼らが不可欠だ、と人びとに確信させることができれば、教区民を犠牲にして、誰にも咎められずに暮らせる筈だからだ。「神の任命した者たち」に従わなければ「永遠の罰」だぞ、と言って、いつでも脅すことができた。それは「神の代理人」の命令に従わないのであれば、という意味で、つまり、彼ら自身のことを指していたのだ。

悪業を清算するには告白が欠かせず、司祭から免罪されれば取り消せるいう点についてはどうですか?

霊的な改善の第一歩が罪悪の自覚であるのは明らかだが、後悔するだけでは不充分だ。霊界では、「愛の法則」に反する行為は、犯した罪業を償うことによってのみ、解消可能だからだ。
そしてこれは、我々自身でするしかない。乗り切るための支援を受けるのは構わないが、どれほど高次の者であろうと、誰にもこの仕事を代わってもらうことができない。
司祭に免罪権を与えているのは、救ってもらうには教会の代理人が不可欠だから経済的に支えてあげなければならない、と人に思わせる戦略の一部なのだ。
初めに言った通り、霊的な進化は、個人の努力によってのみ達成できるものであり、高次の存在との「コネ」によるものではないのだ。

それでは、十字架上で死ぬことで、イエスが人類の罪をあがなったという信念と、彼が後に復活したことについてはどうですか?

これも正しくはない。イエスが霊性進化の道を教えにやって来て、その隣人愛の手本を見習った者が決定的な変化を成し遂げて、宗教では「罪」とされた過ちを犯さずにそこを真っ直ぐに進んで行けた、というのは本当だ。だがそれで、前世での犯罪行為の償いに対処しなくて済むようになる訳ではない。イエスは誰の罪をも拭い去った訳ではなく、各人にそれぞれの罪をどうやってあがなうかを教えたのだ。大学入試の途中で、何人かの生徒の先生がやって来て、「私の生徒は答案用紙を提出しなくてよろしい。全員合格だ。試験官を知っていて合格にしてもらえるから大丈夫だ」と言ったとしたら、とても不公平だろう。頑張って勉強して自力で合格できる生徒を退けて、準備不足の生徒が値しないのに受かってしまえば、それは、各生徒の努力が公平に評価されていないのだ。良い先生がすべきこととは、生徒がきちんと試験準備ができるように尽くすことであろう。
イエスが試みたことはまさにそれで、各転生での霊的な試験に合格できるように、我々にきちんと準備をさせたかったのだ。霊界には「コネクション」は存在しないからだ。
我々には、犯した過ちを改める無数の機会が与えられる。だが、我々自身でそれをすべきであり、イエスや聖母やその他の聖人にすがるべきではない。

では、これをキリスト教徒に納得させられますか? これは、カトリの教えの主要な教義の一つですよ。

次の新約聖書のマルコによる福音書10章35-40節でも同じことを言っているよ。
“さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとに来て言った、「先生、わたしたちの頼み事を、かなえて下さるようお願いします」。イエスは彼らに「何をして欲しいと願うのか」と言われた。彼らは答えた、「先生が栄光の王座に就くとき、一人をあなたの右に、一人を左に座らせて下さい」。イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」。彼らは「できますとも」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるであろう。しかし、わたしの右、左に座らせることは、わたしが決めることではなく、準備のできている者だけに許されるのである」。”

でも、「あなたの罪は赦された」と言っていたのは、イエス自身ではなかったですか?

イエスが言いたかったことは、過去に「愛の法則」に反する行為をしても永遠に有罪になる訳ではなく、何をしたかを問わず誰でも改悛すればいつでも好きな時に新しくやり始めるチャンスがあるということだ。

でも、どうして病人を治した直後にそう言ったのですか?

イエスが病人の治療をする時は、肉体の毒素のみならず、肉体での病気の原因となるアストラル体の毒素も綺麗にしていたからだ。これらは、感情や思考に由来する精神的な毒や、当時は「罪」と呼ばれた今生や前世での「愛の法則」への違反行為による毒気が蓄積したことが原因だ。
イエスが手をかざして行った癒しを、日頃の手入れを怠って汚れてしまった絨毯じゅうたん(身体に相当)を綺麗にする掃除機だと考えてみてごらん。徹底して掃除をしたとしても、人が「汚い」習慣を全く変えようとしなければ、少し時間が経てば、絨毯はまた元のように汚くなってしまう。
実際、イエスに治してもらった後でも内面を改革するようにとの助言も聞かずに霊的な悪癖を続けたために、再びメンタル体で精神的な毒素が生じて、それがアストラル体と肉体に転移して、またもや病気になってしまった人もいる。

それでは、病人を治して感謝された時に、なぜ「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのでしょうか?

それはイエスが、レイキやプラーナ、その他どう呼ぼうと構わないが、癒しのエネルギーが効果を発揮するには、送り手が上手なだけではなく、良い受け手も必要なこと、つまり、チャクラを開いてエネルギーを受ける心づもりが要ることを知っていたからだ。
癒しが起こるためには、エネルギーを受ける人が送り手を信頼(信仰)していなければならない。信頼していないとチャクラは閉じたままで、送り手にどんなに能力があろうと、エネルギーは流入しないし、治療効果も出ないのだ。

でも、病人が意識不明や重病で、治そうと努力してくれているのがわからない場合などには、本人に対してではなく、その家族にそう言っていたようですが、これはどういうことでしょう?

イエスが、その愛と慈悲の力によって高度な治癒力を持つ高振動のエネルギーを伝達できたように、それを信じ必要な人を助けたいと願う者には、元の波動を「反響させる者」となってエネルギーを高める力があるからだ。その場合は、彼ら自身も、癒しのエネルギーを流すパイプとなる。
それと同じように、否定的な思いや懐疑心があるために、治癒エネルギーが周囲に上手く伝わることの邪魔をしてしまう人たちもいる。イエスや彼の教えを信じなかった人の事例は沢山ある。そのような場合には、イエスがいつものように病人に手をかざしても、癒しはほとんど見られなかった。このような状況は、福音書にも記載されている。

“そしてイエスは郷里に行き、会堂で人びとを教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、こんな知恵と不思議な力を、どこで習ってきたのか」。他の者は言った、「この人は大工のヨセフの子ではないか。母はマリアといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではないか。ならば、なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」。こうして人びとは、イエスの教えを認めようとしなかった。しかし、イエスは言われた、「預言者はどこででも尊敬されるが、自分の郷里と家族の間では敬われない」。そしてイエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。”(マタイによる福音書13章54-38節)

ついでですので、復活についても話して下さい。

いいだろう。これについては非常に混乱をきたしているので、なるべくわかりやすく説明しようと思う。イエスの復活について言われている多くは、完全に間違っている。
復活という言葉を、肉体の死後にも魂が存続することだと理解するのなら、それは正しい。だが、死後も生き続けるという事態は、何も特別なことではない。魂が生き残ったのは、何もイエスが最初ではないし、もう充分話した筈だが、これは宇宙の法則であるので、いつもずっと起きていたことだった。
しかし、魂が存続するには必ず身体が必要であり、しかも生存中と同じ身体でなければならない、というような信仰はすべて、正しくはないのだ。

キリスト教会の分派の中には、生命は肉体がなければ成り立たないと信じ、肉体の死後の魂の生を認めないものもありますが、それについてはどう思われますか?

肉体の死後、魂が、置き残した身体に戻るまでずっと眠った状態にあり続ける、ということは正しくない。これが、蘇りに関する信仰の誤りの一つだ。肉体の死が生じた時点から体が腐敗し始め、しまいには消滅するということは、明白ではないのだろうか? 物質界に戻る日がやって来た時に、何世紀も前になくなった肉体に戻れるのだと、どうしてそう信じることができるのだろうか?
亡くなった魂は転生によって肉体生に戻るのだ、と説明する方が、簡単ではなかろうか? つまり、昨日まで地上に生きた魂は、明日には新しく生まれ出る子どもとなって帰って来る、ということだ。したがって、自然な物質の分解過程で失われた肉体を魔法で再構成して、死者が肉体での生に戻る、というのは誤った信仰なのだ。
亡くなった者は絶えず物質界に戻っているのだが、自然の法則を侵すことなく、新しい子どもとして誕生することで、そうしているのだ。
魂や霊が生き続けるために肉体が必要だ、というのも正しくはない。魂は、再び物質界に転生するまでずっと眠った状態でいるのではなく、すでに話した通りに、物質から解放されて霊界で各自の暮らしと進化のプロセスを続ける。
イエスが死後に復活した、という場合には、彼の肉体が再び生を得たのではなく、彼の魂が生き続けたことを意味しているのだ。

でも信者であれば、「福音書には、イエスはラサロを蘇らせ、ラサロはその体でしばらく生き永らえた、と書いてある」と言うことでしょう。これは、「肉体の蘇生」を証明するものではありませんか?

イエスはラサロを蘇らせたのではなく、ラサロが実際にはまだ死んでいなかったのだ。本当のところは、イエスは彼の意識を蘇らせたのであり、これは君たちにとっては何の不思議でもない。
今日では心肺蘇生の技術で、臨床的に死んだと見なされる人を、医師が「蘇らせる」ことが可能だ。遺体安置所に何時間も放置された後で、死んだと思われていた人が突然目を覚まして生き返った、という特異なケースを耳にしたことがないのかい?
それというのも、心肺停止が起こっても、一瞬で肉体から離れる訳ではないのだ。そうでなければ、心臓蘇生など不可能だろう。
魂の離脱のプロセスは、物質への執着心や肉体自体の生命力によって、ある程度の時間を要するものだが、銀の臍の緒シルバーコードが完全に切れるまでには、最低2、3日はかかるものだ。イエスがエネルギーの力でラサロを蘇生させたとしたら、それは単に、ラサロが肉体との分離プロセスをまだ完了していなかったからで、現在の医師と同様に彼を生き返らすことができたのである。

でも、イエスの死後3日目に親族たちが墓に行くと、彼の体がなくなっていたではありませんか?

君たちの場合はそうはならないが、イエスのケースは特別で、魂が肉体との最後の絆を断ち切ると、非常に振動の強いアストラル体が分離したために、肉体が瞬時のうちに分解し、それで遺体が墓の中で見つからなかったのだ。この解体の過程で、遺体を覆っていた布に、体の跡が残ることとなった。だから、遺体が墓の中になかったからといって、イエスが生存中と同じ肉体で生き続けたということにはならない。

でしたら、イエスの遺体を包んだとされる聖骸布せいがいふとそこに写っていたお姿は本物なのですか?

そういうことだ。

ではなぜ、年代測定に用いられる炭素14法の結果が、その時代と一致しないのですか?

その件に関して言えるのは、年代測定の手順において不確かなことを確実視してしまっていて、それで年代が一致しない、ということだけだ。でもこれでは、話が脱線してしまう。聖骸布が本当に、死後にイエスの肉体を覆った布であったか否かというのは、彼の肉体が皆のように時間をかけてゆっくり分解または腐敗したかどうかということのように、私たちが話していることとは関係がないのだ。これらは、イエスを受胎した時に聖母マリアが処女であったかどうかということのように、霊的な教えとは関係ない。
君たちは奇異に思える出来事はよく覚えているが、それらは霊的な観点からは実のないもので、イエスが布教した真に重要なことに意識を向けるのを忘れてしまっている。

では、イエスはどのようにして使徒の前に現れたのですか? 死後、本当に彼らの前に出現したのだとしたらですが。

死後、一緒に暮らした使徒や他の人たちの前に現れた時には、生存中に使用した肉体を伴ったのではなく、アストラル体で顕れたのだ。多くの死者が、亡くなった場所やお棺の中に動かない肉体を置いたまま、愛する人の枕元にお別れをしに顕れるのと同じだ。
というのも、アストラル体は特別な状況下では「凝縮する」のであり、肉体とほとんど同じ形に固まることも可能なのだ。しかも、イエスのような能力を持つ魂であればなおさらなのだが、これは、君たちが「超常現象」と呼び、多くの研究家に知られる現象だ。

「最後の時には死者が復活する」という類の予言は、何か意味があるのですか?

すでに亡くなった人の魂は、転生によって絶えず物質界に戻って来ているのだ。つまり、復活するために「最後の時」と呼ばれるような時代を待ちはしないのだ。人類が物的な惑星に存在する以上、魂の輪廻転生というプロセスは絶えず作動し続けるだろう。
ただ、本当に言えることは、現在は人口爆発により、歴史上の他の時代よりも大量の魂が同時に生まれ変わっているということだ。こうしてサイクルの終了時に合わせて、こうした魂も進化の最も重要な時期に転生する機会を得るのだ。これが「最後の時には死者が復活する」という一文を解釈し得る唯一のものだ。

それでは、原罪に対する信仰はどうですか?つまり、人類の先祖だとされるアダムとエバが罪を犯したので、子孫がその行為の結果を償わねばならないということですが。

それについては、例を示して答えるとしよう。
ある男が銀行を襲い、逃亡時に車にはねられ死亡したとしよう。彼を裁くことが不可能なので、裁判官が強盗犯の息子に父親の罪を償わせる決断をし、親の代わりに監獄に入れようとしたとする。君たちは、このような決断を下した裁判官を公平だと見なすのだろうか?

もちろん公平だとは思いませんよ。それに、文明化した国ならどこの裁判所だって、そんな決断はしないと思いますよ。

人間の正義観から見て、父親の罪を息子に着せるのが変なのなら、どうして神の裁きが人間のもの以下になり得るのだろうか?
霊界では、各自が自分の行為に責任を取らねばならず、他者のしたことには問われない。したがって、原罪や先祖から「継承した」罪などの信念は不公正なもので、何の根拠も存在しない。

それでは、先祖から受け継いだ罪という信念は、何に基づいているのですか?

確かなことは、各人が自身の行為に責任を取らねばならないことで、それは過去生のものであるかもしれないので、先祖の中に過去に転生していた自分自身がいた可能性はある。
これが、そのような信念を正しく解釈し得る唯一のもので、転生の存在を認めることで、初めて理解することができる。

性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも清純で高潔だと信じるのは間違っている、とも言われましたよね。

その通りだ。司祭であろうと僧侶や修道士であろうと、宗教家たちに貞潔を誓わせたそのような概念をどこから出して来たのか知りたいものだ。

イエスが示した手本によるのだと思いますが。

君たちはイエスに性関係がなかったと断言できるほど、イエスの私生活を知らないではないか!性関係を自制すれば神に近づいたり、より純潔になれるなどと、イエスが公言したことは一度もない。たとえ本当であっても、全人類が生涯にわたって性関係を控える決意をしたとしたら、百二十年以内にこの地球から人間の命は絶えてしまうであろう!「生めよふやせよ」ということと矛盾してしまう、と思わんかね? もし君たちが、性関係以外の増殖法を知っているとしたら、お教え願いたいものだ。過去の時代には、試験管で受精させるなど不可能だったのだよ!

あなたのお話から、性関係はいつも生殖のためでなければならないと理解するべきでしょうか?

もちろん違う。もうそれについては充分話しただろうに。進歩した魂にとっては、性関係は親密な愛の表現方法だ。
それと全く異なるのは、性欲を満たすために、あらゆる手段を用いて自由意志を侵害する場合だ。特に女性や子どもといった最も弱い者が性商売――売春や小児性犯罪のことだ――に従事させられたり、君たちの世界ではよくあることだが、実際には愛してもいないのに愛していると言ったりして、セックスのためにあらゆる方法で人を操り、嘘をつく場合だ。
イエスはこのようなことをすべて、告発したのだ。その時代の女性は、性も含めたすべての面において、奴隷に毛が生えた程度に見なされ、実質的には何の権利も持っていなかったのだ。男たちは、誰にも文句を言われずに好き放題で、女性は、男性の権力の乱用を、宗教の加護にすがって耐えねばならなかった。たとえば、離縁されると、他に生き延びる手段がないために売春を強いられた。
イエスは女性の権利を守るために、大いに闘った。女性を性奴隷と見なすことをやめさせ、彼女たちを咎める者を叱責し、その惨めな状況は男性のせいなのだとわからせようとした。しかし、教会がそれらすべてを、性を卑しむ抗弁にすり変えてしまったのだ。

教会は、イエスの母親の聖母マリアを例に挙げて、純潔と貞潔を掲げてきたのではないですか?

イエスの受胎については一旦置いておくが、マリアは大半の女性がそうであるように、伴侶であるヨセフと性関係を持ち始めるまでが処女であった。ヨセフとの間に複数の息子と娘を得たのだが、彼らはイエスの兄弟姉妹に当たる。
特筆すべきなのは、これがキリスト教徒の福音書に記載されており、著者たちがイエスに兄弟がいた
ことを多くの者のように問題視せず、現在の教会のようにそれを隠そうともしなかった点だ。マリアに他にも子どもがいて、彼らに名と姓があったことは、福音書の様々な節(マルコ6章3節、マタイ13章55節、マタイ12章46-47節、ルカ8章19-20節)に反映されている。幾つか例を示してみよう。

“イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。”
“「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、シモンとユダの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」。”
“他の者は言った、「この人は大工のヨセフの子ではないか。母はマリアといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではないか。ならば、なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」。”

福音書の著者が、イエスに兄弟姉妹がいたことを何も問題とせず、恥ずかしがらずにそれを書いているのに、なぜその後継者たちが問題視するのだろうか?

それでは、今生での行いで未来が永久的に決定されて、悪者や異教徒には永遠の処罰と地獄が待ち受け、キリスト教徒と信者のみが救われて永遠の栄光を手にする、という信心についてはどのようなご意見ですか?

それに関しては、魂の「進化の法則」と霊界でどのように物事が作用するかについて説明した時に、時間をかけて広く話した筈だ。
だが、まだ充分明らかでないのなら、もう一度繰り返そう。実にすべての魂は不死であり、魂の目標は、霊性進化のより高次の段階に達することだ。したがって、宗教的または政治的信心、人種やその他の資質を問わず、どんな人間でも進化の計画から締め出される者は一人もいない。すなわち、神やイエスや教会などを信じようが信じまいが、または人間的には大失敗であろうと、不死だという性質や、霊的に改善できる可能性を失うことなど絶対にない。よって、誰にとっても死は存在しないし、永遠に罰せられることもない。
それに、皆の魂の過去を一人ひとりじっくり回顧したならば、過去生のどれかで、誰もが殺人者や人食い人種、またはその両方であったとわかるだろう。もし今、それを異常だと思うのであれば、それは霊的に成長できたからであり、自分の能力を試すために繰り返し転生したことで、犯した誤ちを修正する無数の機会を得たからである。もし、改悛の機会がなく、ただ一度の人生の行いで将来が未来永劫にわたって決められるのなら、「地獄」はもう満杯で入れる者などいないだろうし、「天国」はサハラ砂漠よりも閑散としていることだろう。

それでは、司祭の前での最期の告解が罪を軽くすると考えられていることに関しては・・・・・・。

肉体を離脱した後の魂の行方は、生存中の行為でのみ決まるのだが、進化し改善する機会はいつでもあるので、そう決意した瞬間から「救われる」チャンスがある。だが、それは一朝一夕にはなされず、魂の心底からの変化を伴うものなので、反省し自覚して、否定的な態度を修正する時間が必要となる。
また、霊的な負債や「愛の法則」に反する行為を清算するためには、自分の罪業を償わなければならず、これには強い意志と時間とが必要とされる。
このことから、司祭によって最期の瞬間に免罪されても、肉体の死後の魂の行方を変えることにはならないだろうと推察できるだろう。

しつこくて申し訳ないですが、キリスト教徒と信者のみが救われるという信心に関しては、イエス自身が「わたしを信じる者には永遠の命が与えられる」と言って、救済されるのは信奉者だという信仰のきっかけを作ったのではないですか?

イエスはそういう意味で言ったのではない。
彼は、各人に霊的な変革を起こさせる秘訣を教え、命は永遠であり、それぞれが自らの運命の創作家であることを自覚させたのだ。現在の言葉に置き換えるのなら、「わたしの言うことと教えを信じる者は、命が永遠であることと、『救済』(進化)は本人次第で、その人自身が自らの運命の担い手であることを自覚できるだろう」となる。

では、キリストの信徒だけが永遠の命を手にするという信心は、何に由来するのでしょう?

イエスが言ったことが誤って解釈されてしまったためと、教会がさらにそれに、「教会の外に救いはない」と付け加えて改変してしまったためだ。
この場合ではキリスト教徒のことだが、一般的に、特定の宗派の信者のみが救われるという信仰は、その宗派の首長自身の考えに過ぎず、信徒の忠誠を確保するために利用される謳い文句の一つに過ぎない。
もっと証拠が欲しいのかね?「教会の外に救いはない」というのはラテン語では「extra Ecclesiamnulla salus』と言うのだが、これは、イエスが地上に現れてから千余年も経ってから一二一五~一二一六年に開催された第4回ラテラン公会議で、聖キプリアヌスが最初に発言したことを教義に取り入れたものなのだ。

でも、カトリックの信者の多くが、そう確信している筈ですよ。つまり、キリスト教徒だけが永遠の命を手にできるのであって、善い信者であり救済されるには教会の規則に従わなくてはならない、ということですが。

いいかね、カトリック教会や他の多くの宗教が、善人とは従順であることに等しい、と君たちに信じこませたのだ。特に、教会の規則に従順になることだと思いこませ、意のままに信者を扱えるようにしたのだ。
しかし、慈悲深いのと従順なのとは全く異なることだ。規則に従順で、社会的には表面上で親切になれても、個人的にはエゴに完全支配された真の「悪魔」であるかもしれないのだ。規則や儀式をひどく愛好したのに隣人を全く愛そうとしなかったパリサイ人を、イエス自身も「白く塗った墓」と評し、そういう偽善を批判した。
反対に、正直者で偽善を嫌う善人なのに、決められた規則に従わないがために、人から良く思われない者も沢山いる。そういう正直で誠実な人がいると、そうでない者との違いが際立つため、危険視されてさげすまれることすらある。
ここにイエスの手本がある。イエスはユダヤ教会の権威者の命令には従順ではなかったが、勇敢で、自己の霊的な信念に首尾一貫していた。自分の考えを公に布教すれば山ほど問題を引き起こすと知っていたが、暴力を用いず真実と愛の力で、彼を黙らせようとした輩に立ち向かったのだ。多くの人もこれに追随した。
歴史上には、支配者に「従順」でなかったために、ローマでは競技場でライオンに貪られたり、異端や黒魔術の宣告を受けて焚き火で焼かれるなど、死に至る拷問を受けた正直者や善人の事例は山ほどある。しかしそれでも、彼らは、自由で愛することができたのだから、幸せ者だと見なされるべきだ。進化の劣った同胞からは苦しめられたので、きっとそれに見合う代償を受け取ったであろう。
奴隷のような規則に従いながら心と感受性を抑圧し、苦々しい無意味な人生を送る自分を嫌悪している上に、宗教にも洗脳されて、不毛な苦悩自体が善人に変えてくれる、という幻覚を信じる者の状況の方が、ずっと悲惨だ。内面では、自由で本当に幸せな者を羨んでいるのだ。中には嫉妬により、他者の罪悪感をもてあそんで、嫌な思いをさせようとする者もいる。罪悪感を利用することは、意志の放棄をさせるために教会がよく使った手口なので、彼らも充分心得ているのだ。

罪悪感を弄ぶ、とはどういう意味でしょう?

自分の不快感を他人のせいにする、ということだ。

罪悪感に弄ばれる人を助けるためにはどうしたらいいでしょうか?

その人は最初に、その問題、つまり信条とする観念によって、自分の意志と感情が実質的に失われてしまったことを自覚する必要がある。
これは、それ自体がもう凄い進歩だ。それというのも、普通はこのような人は、自分が他者より上だと思っていて、自分の宗派で信用のない人の言うことなどを聞こうとしないからだ。それは、教会が、規則に従わない者は「罪人」で信じてはならない悪い仲間だと、思いこませたせいでもある。
次に、内面を見つめる努力をし始める必要がある。本当にしたいと思ってすることは何か、したいのに規則で禁じられてしないことは何か、したくないのに規則に強いられてすることは何か、などを自覚することから始める。
その次のステップは、自由意志という自己の意志力を行使し始めることだ。つまり、定められた規則に逆らう必要があろうと、自分の気持ちに従って行動し始めるのだ。

これまでの長い説明からは、すべての宗教は茶番であり、神の御心など全く反映されていない、と結論づけるべきでしょうか?

そこまで極端なのは良くない。
宗教の問題は、霊的に高次な教えの幾つかを取り入れてはいても、すべてを「神の御言葉」だとして、一連の信念や規則をパッケージのように、論拠のないまま教義として受容することを信者に要請することだ。
そこには思考の自由も、本当に心に響くことを選ぶ自由も、自分にとって嘘や的外れなことを除外する自由も、何を信じ何を信じないかを選択する自由もない。
宗教の指導者たちは、随分長い間、隣人愛などの高次の教えを呼び水として、人を惹き付けてきた。魂の成長を阻む、その他の馬鹿げた付け足しの規則には、関心がない人がいたからだ。信徒になり、教会の権力者の叱責を怖れて、「神の御言葉」だとされるものを問いただす勇気のないまま、自称「神の代理人」に導かれてゆくと、少しずつ自分の意志を放棄するようになり、いつしか古書の規則に従って生きるようになるのだ。
だが、それらの規則は、自己体験に充分な意味づけと満足のゆく答えを与えてくれるには時代遅れなので、コルセットをきつく締められた信者は、自由な自己表現を阻まれてしまう。意志を放棄をすると、神の御言葉の代弁者として勝手に立候補した者の意のままになるので、狂信に向かって進むのだ。
現存するほとんどすべての宗教、哲学、イデオロギーには、嘘に混じって真実がある。自分の心が真実だと見なし進化に役立ちそうなものを、こっちから少し、あっちからも少し、と選び取って、自分自身の真実を見つけていくことは、各人の仕事なのだ。

悩んでいる時に、生身の人間を信頼して助言がもらえないのですから、それにはリスクがありそうです。

確かに君たちの中には、霊性において他者を導いて助言できる人たちもいる。そのような人たちは、何度も転生して内面を改善する努力をしたので、霊的な真相についての幅広い知識ともっと発達した愛の能力を備えている。
でも、それらの人は仰々しいやり方を取らない。司教や聖人だなどと自分で名のったりはしないし、特別な衣装をまとうこともない。
彼らは表面的には普通の生活を送っているが、内面を改善したいという強い意志と、他者を助けたいという強い思いがある。自己顕示も目立ちもせずに、無私で行動し、手本となって教える。そして彼らとの比較によって、道徳性がそれほど高くないことが明らかになってしまった者たちからの、多大な侮辱と中傷とに耐えなくてはならないのだ。
霊的世界からの影響は、無神論者であろうと不可知論者であろうと別の宗派の信者であろうと、君たち全員の一人ひとりに感じ取られるものだ。だが、自分自身で選択できるようにと、それはとても精妙になされるのだ。まず一人ひとりが、それぞれの最良のガイドである良心の声を聴き、それから進みたい道を選び取るのだ。

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魂の法則【別れ】

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