「魂の法則」はPDFファイルで無料で配布されており、紙書籍はナチュラルスピリットから販売されていますが、Web版の全文は存在しないので作成しました。
下に「魂の法則」全文のリンクを貼り付けています。
※「魂の法則」各ページの最初と最後にも前後のページへのリンクを貼っているので、このページに戻らずに全文が読めるようにしています。
時間が無い人用に「魂の法則」の重要メッセージ抜粋を当ページの最後に載せています。
魂の法則を読んだ感想
「アミ 小さな宇宙人」に共感した人におすすめします。
地球では「アミ 小さな宇宙人」に感化される人が少ない理由がよくわかりました。
つまり、地球がオフィル星のような文明社会になれない理由が判ります。
牛や豚を食べることがなぜいけないのか、人類の精神性の差などの具体的な説明がされているので、よりいっそう、理解が深まります。
とくに、死後の世界についての情報が世間に公になっていない理由が腑に落ちると思います。
人に役立つ仕事は低賃金なのに、搾取して人を苦しめる人ほどお金を得やすい仕組みになっている理由も判ります。
今の金融システムは弱者の犠牲で成り立っているので、搾取が巧みにできる人や組織ほど、容易にお金持ちになります。
一方、エゴを弱め、精神性を高めても、お金を得ることに直結しません。
例えば、トイレ掃除等の人々の役に立つ仕事や、農家などの生活に必須の職業ほど低賃金ですが、政治家、官僚など、居なくても人々の生活には困らない職業ほど高収入です。
これらのあべこべを逆転させて、本当の意味で人の役に立っている職業や、精神性が高く搾取できない人でもお金を得やすい社会システム、もしくはお金がいらない世界にする必要があると思います。
金銭と時間に余裕がないと、エゴや精神性に気づきをもたらす情報に触れる機会が減るので、既存のシステム全体を壊さないと、人類の精神性は停滞するのではないでしょうか。
すべてにおいて余裕がないと「死んだらどうなる」や「人生の意味」などの、お金に関係ない事柄に関心を持てなくなるからです。
それでもなんとか、関心が持てたとしても、搾取が上手な人々が手掛けるスピリチュアル商法や信仰宗教などで時間とお金を失い、何もかも信用できなくなる事態に陥る可能性もありますが、本書を読むことで真実や真理、幸せを得るのに”お金”は不要だという気づきがあると思います。
魂の法則 全文リンク
全文を1ページ詰め込むと長くなるので、見出しごとに記事(ページ)に別けています。
※イザヤと、それ以外のセリフの区別がつきにくいので、イザヤのセリフを太文字にしています。
魂の法則 Part1【序文】
魂の法則 Part2【最初の出会い】
魂の法則 Part3【神】
魂の法則 Part4【霊的世界】
魂の法則 Part5【進化の構図】
魂の法則 Part6【人間の構成形態】
魂の法則 Part7【人間の転生とそれが霊性進化に果たす役割】
魂の法則 Part8【霊界との交信】
魂の法則 Part9【転生のプロセス】
魂の法則 Part10【他世界での生】
魂の法則 Part11【自由意志の法則】
魂の法則 Part12【霊的裁きの法則】
魂の法則 Part13【愛の法則】
魂の法則 Part14【愛VSエゴ(我欲)】
魂の法則 Part15【虚栄心(見栄)・自尊心(プライド)・自負心(尊大)】
魂の法則 Part16【エゴ的感情】
魂の法則 Part17【人間関係と「愛の法則」】
魂の法則 Part18【「愛の法則」から見た病気】
魂の法則 Part19【イエスの地上での使命】
魂の法則 Part20【別れ】
魂の法則 Part21【あとがき】
上から順番に読むことをお勧めします。
魂の法則 抜粋
魂の法則での重要なメッセージを抜き出しました。
エゴ(我欲)を愛に変化させていく過程を、私は進化と呼ぶ。進化とは、愛することを学ぶことだ。
もし、神という存在がそんなにも完璧であるのなら、どうして、この世界に悪が存在することを許すのですか?
神は、生き物が自由に体験し、間違いから学べるのを容認している。この世の悪は、神から生じたものではなく、霊的法則を知らないために他の被創造物を傷つける、進化の途上の人間が生んだものなのだ。
魂の法則 Part3【神】より引用
霊媒能力はこの世ではあまり評判はよくありません。
そうだね。君たちの進化レベルの世界ではよくあることだ。
どうしてですか?
いろいろな理由がある。
一つには、隠れた私欲を満たすために低級霊を引き付けて霊界との交信を利用しようとした者や、金儲けのためにいかさまをした者などが悪い手本となったからだ。
また、地上の権力者にとっては霊媒能力が発達してしまうと不都合だったので、あらゆる手段で弾圧し、蔑んだのだ。霊界から直接与えられる知識によって人類が覚醒してしまい、霊的な真相や人生の真の目的を自覚して進化を阻む鎖から解放されようとしたら、権力者は、私益のために人類を騙し、操り、搾取し続けてきたすべての影響力を失う羽目になるからだ。
実は、君たちの惑星は、レベル変化をする可能性に近づいているのだ。第三レベルの惑星から第四レベルに移行するかもしれない。
もしも充分な数の者が魂の目的を知り、魂が不死であることや皆が兄弟であることを自覚して、愛を学びながら諸悪の根源のエゴを捨てて霊的に進化するために転生することに気づくなら、この飛躍を実現させられるかもしれない。
そのような存在は、物事を行う上での新しい方法を地球にもたらし、愛に基づいたやり方で、社会、経済、政治などのすべての面で世の中を変えようと力を尽くすことだろう。しかし同時に、世界を操る権力者のようにエゴを捨てたがらない者が大勢いるので、進化した魂による改革の試みを全力を挙げて阻止しようとするだろう。彼らは、同胞を搾取して得た権力や物的財産を放棄するのが嫌なので、何の変化も望んでいないのだ。
各々の魂は、愛のために戦うのか、それともエゴのために戦うのかを決断すべきで、選んだもののために精力的に活動すべきだ。
これは、愛の党派を選んだ魂の成長にとっては、特別なチャンス、素晴らしい環境となる。なぜなら、まだエゴに執着していてあらゆる手段を講じて目標を達成させまいとする者の無理解や中傷、暴力など、無数の障害と対峙しなくてはならないからだ。そして、これらのあらゆる種類の攻撃や屈辱や非難にもかかわらず、愛を信じ続けられるならば、無条件に愛せるようになるという、魂の最大の目標に一歩近づけるのだ。ええ、そのことなら知っています。映画では善人が勝つこともあるのでしょうが、現実では平和主義の善人は虐殺されてしまって、最後にはいつも悪人が勝つのです。歴史を見ればそんな話でいっぱいです。初期のキリスト教徒とか、カタリ派とか・・・・・。
確かにこの戦いが永遠に延長されれば、利己的な集団は変革のすべての試みを永久的にボイコットするかもしれないので、愛に満ちた集団に霊的な停滞と、無益で不毛な苦悩をもたらすであろう。
しかし、このように熾烈な戦いは無期限には続かない。最終的には二つのグループの分離が必要となろう。
分離するということは、二つのうちのどちらかのグループが、自己の進化レベルの条件に見合った別の惑星に生まれ変わるために、立ち去らなくてはならないということを意味する。君たち人類は今、このような過程を経験していて、最終的には話しているような魂の選別が行われるだろう。聖書の黙示録の最後の審判を思い出しますが、何か関係があるのですか?
聖書に記されている最後の審判とは、起こり得る地球の未来のヴィジョンとしてこのプロセスを垣間見た作者が、自分の能力の範囲で書き表したもので、個人的な解釈の一つと言える。
一周期の終わりは、もちろん世界の終末ではなく、一つの段階の終わりに過ぎない。
また、今のところはエゴを放棄しないと決断していても、それが最終決定となる訳でもない。人はいつでも好きな時に意見を変更できるし、今その機会を活用しなくても、後でそうすることもできる。よって、「善人を右に、悪人を左に分ける」選択するのは神ではなく、自分自身の決断だ。霊界は、皆に同じだけの機会を与えているので、何をしたいのか、どんな世界に生きたいのかを決めるのは、自由意志を持った自分自身だ。
意志の力と努力がどちらに向いているかで、得られるものが決まる。愛の中で暮らしたい者は、愛に基づく世界に生きる。エゴの中で暮らしたい者は、そのように生きることが自分を不幸にすると気づいて変更を決意するまでは、エゴに基づく世界で生きるだろう。それで、どれが去るグル-プでどれが残るグル-プなのですか?
場合による。二つの選択肢がある。
進化できた魂の数が、惑星を愛の方へ向かわせるのに充分でなければ、惑星全体での進化の飛躍は遂げられない。惑星は現在の振動レベルを保ったまま、飛躍を遂げなかった魂を留めるので、もっと高い進化レベルの惑星に移されて転生するのは、飛躍を遂げた者となろう。その場合、地球は相変わらず第三レベルの惑星であり続け、エゴからの脱却を望まなかった魂によって占住され続けるので、再び何千年もの間、克服できなかった試練と同じ類のものに向き合うことになるだろう。
一方、エゴの放棄を願った愛の深い魂は、各自が到達できた進化レベルに応じて上位の惑星に転生する。彼らはそこで、自己の内面と調和する他の存在と出会え、誰にも邪魔されずに自分の愛を表現できるので幸せになれ、さらに高次な目標に挑戦できるのだ。前のケースと反対に、進化できた魂の数が、人類が「魂の法則」に従って前進し統治できるようになるために充分であるなら、惑星自体が進化の躍進を遂げるだろう。その場合は、進化の跳躍を遂げた者が地球に残ることになり、進化できなかった者が同等の進化レベルの別の惑星に移転させられて、そこで生まれ変わることになる。
これが、イエスが山上で行った説教の中での「柔和な人たちは、幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう」の意味である。この一文は、輪廻転生や、進化の法則や「霊的裁きの法則」の知識がなければ理解できないであろう。柔和な人びとが地を所有できるとは、どういうことであろうか?
我々は、圧制者や権力者や暴君が、常に土地に対する権力と支配を誇示し、「柔和」な平和主義者は虐殺されたくなければ紛争から逃れねばならないのを見飽きてきたので、理解し難いだろう。
それは他ならず、イエスが、進化レベルに応じた選別の過程に言及しているからで、将来は地球に愛と平和において進歩した(柔和な)魂を連れて行く、という意味なのだ。一方、「愛の法則」に従わない者は自己進化レベルに見合った惑星で転生するように、移転、つまり「追放」される。
進化した魂は、「自由意志の法則」を理解し尊重し遵守しているがために、進歩が少ない魂が住む世界と関わる時は、特に、この法則に違反しないように非常に気を遣っている。害を与えるつもりがなくても、関与し過ぎると、進歩の遅れた魂や文明がより高度なものに依存してしまい、その惑星の進化を停滞させてしまうからだ。
そのため、霊界や高次の世界から下位の世界に与えられる援助は、いつもとても精妙でなければならず、絶対に要請する側の意に反してはならず、その自由意志を無理強いしてもならない。要請側が、支援を受けて成長したいという意志表示をする必要があるのだ。問題の焦点がはっきりしないのですが、わかりやすく例を示して下さいますか?
いいだろう。高度な世界から地球に人がやって来て、皆がその人の能力を認めて、地球の政府を明け渡し、すべての問題を解決してもらおうと決めたと想定しよう。
その人の出身地では、魂の諸法が理解され、動物を尊重し、その殺傷を禁じ、菜食主義であったとする。そのために、彼が故郷のやり方を模倣し、狩猟や闘牛、肉の消費などを禁止する動物保護法の奨励を決めたなら、君たち地球人は、自ら進んでそれを放棄するだろうか?どうするか、わかりません。賛同する者も反対する者もいると思います。
どんなに甘く見ても、現状では人類の80%以上が、その方策に反対するだろう。そして新しい法律の導入を阻止しようと、地球上で、ひどく暴力的な抗議運動や反乱が起きるだろう。
ジレンマに陥った主導者は、どうすべきであろうか? 人民を満足させるために、自分自身の信念を放棄すべきか、またはその反対に、大多数が反対しても法律を押しつけるべきだろうか?
最初の選択をすれば、自分の意に反したことを行う必要があるので、自分自身の自由意志に背くこととなる。二つ目を選べば、民衆の意に反する法律を課すので、彼らの自由意志に背くことになる。それは、解決策のないジレンマですね。
実は解決法はあって、現にそうなっている。つまり君たちの世界では、進化した者が統治していない、ということだ。
君たちレベルの世界で、実際に進化した者が政治の要職に就いていないとしたら、それは単に、君たちの大半が彼らに指導されたくないか、それとも、その改革案を受け入れたくないからなのだ。そして彼らも、強制しても無駄なことを知っているので、自分たちの意志を強要しようとしない。
君たちの惑星の歴史では、ある程度正直な者たちが権力の要職に就いて、より良い方向に舵取りをしようと試みたケースが数多くあった。それなのに、どうなってしまったろうか? 短い期間しか存続できなかった。周囲の者が、彼らを排除してしまったのだ。
だから進化した魂は、助言を与え、強要せずに手本を示して説得するに留まり、それぞれの人が、納得したものを選ばなければならないという訳だ。
「自分にして欲しいと思わないことは、他者にしてはならない、なぜなら結局は自分自身にもしてしまうことになるのだから」、「自分がして欲しいと思うことは、他者にもしなさい、なぜなら本当は自分自身にするのだから」
物質的なものを喪失することや、肉体の命ですら失うことに執着してはならない。それらはすべて、仮初めなものだ。
君たちは不死で、誰にも君たちを殺すことができない、と思い出すのだ。君たちが本当の生である霊界に戻った時には、そんなことはどれもどうでもよくなる。そこでは、すべての苦しみが癒されて、すべての傷も治されるのだ。そして、愛のみが重要となる。
経験した災いのすべてが、同胞の苦悩に敏感になることに役立ち、同じ経験を二度と誰も繰り返さないないようにと願えるようになれたのであれば、それは結果として、愛せるようになったということで、たとえ僅かであっても無駄ではなかったのだ。
我々霊的な存在は皆、愛の所業によって存在しているのだ!創造したいという衝動はすべて、愛という力に促されている。
愛は、宇宙の霊的な結束を支える基礎となるものだ。愛と感応した魂は、宇宙のすべての生命の進化を手助けし、愛から溢れ出る至福を誰もが体験できるようにと願う。本当のものと永続的なものは、愛の基盤にのみ構築できる。
愛せるようになるために、最初にするべきことは何ですか?
愛するためには、自分自身でいなくてはならない。そして自分自身でいるためには自分を知らなければならない。
他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛することから学びなさい。自分自身を愛せない者には、他者を愛することができない。でも僕は、他者を愛するためには自分自身を放棄しなくてはならない、と理解していたのですが。
絶対にそんなことはない。君がしなくてはならないのは、エゴ(我欲)を放棄することだが、感情を放棄することではない。
君たちは、愛とエゴを混同しているので、愛についての概念が、間違ってしまっている。自分を愛するというのは、自分が他者より優れていると思いこみ、利己的な気まぐれを満たすことに専心することではなく、自分の愛情の欲求や感情を認めて、それを人生の原動力となるように発展させていくことだ。
だからこそ私は、真に愛するためには、自分自身を知ることが非常に重要だと言っているのだ。自分を知るということは、感情と思考とを区別できることを意味し、感情から生まれるものとエゴから生まれるものを認識できることだ。それでは、愛と、愛ではないものをどう区別するのですか?
愛は、その最高の顕現において、無条件でなければならない。本当に愛する者は、何の見返りも期待しない。私益で行動する者は、本当には愛していないのだ。
愛は自由でなければならず、そうでなければ愛ではない。人を強制して、愛するように仕向けることはできない。
愛したいと願う者は、エゴを放棄することも望まねばならない。愛とエゴは、お互いに両立し得ない正反対の概念だ。エゴとは実際には愛の欠如なので、エゴを放棄しなければ愛せない。愛することを学ぶというのは、エゴからの脱却を学ぶことに等しい。愛する能力を高めればエゴは減少するが、その逆も、また然りだ。
魂はどうやって、愛することを学ぶのですか?
それは、長い時間をかけて進歩させていく永続的なプロセスだ。魂は、人間の段階になる前に学び始めるが、愛に関して新しく学ぶことは尽きないので、このプロセスも決して終わることがない。話すことを学ぶ時のように、他者との絶え間ない相互作用による以外には、愛を発達させることができない。
魂がほとんど成長していない初期の段階では、自分より進化している存在から受ける愛を情動として体験する。それを快く感じるのだ。また、愛の欠如、すなわち自分のようにまだ愛することができない者のエゴも体験する必要がある。これは不快ではあるが、愛の欠如と愛の存在を認識して両者を区別し、愛の実在を評価できるようになるので、自分の感情を発達させるための刺激とはなる。
つまり、魂は、愛せるようになる前に、愛の送り手として手本を示してくれる、自分より進化した者の愛の受け手として感受性を磨く。また、愛の欠如という手本を示してくれる、自分と同等、あるいはもっと利己的な者とも共存しなければならない。このような相互作用を総合して、魂は最初に情動を、それから感情を、成長させることができるのだ。
魂が他者からの愛を認識できるようになるのは、愛の送り手になる準備が整った時だ。最初に初めての愛情が芽生えるのは、自分を愛してくれた人(通常は家族の一員)に対してであり、自分に利己的な態度を取った者には敵対心を抱き、関わりを持たなかった人は何の関心もないただの人となる。この段階での魂は、愛すると情熱的であるが、愛を失うと報復的で恨みがましい。
魂は、より進化した次の段階では、苦しみ自体が愛とは相容れない否定的なことだと気づく。そしてもはや、自分を傷つけた者に害を与えることを望まず、被った痛手を賠償させる手段であった復讐を放棄する。この段階を、進歩した条件付きの愛、と呼べるだろう。そのうち魂の理解力と感受性のレベルがかなり高まると、自分を憎み蔑んで、耐え難い苦痛を与えた者たちも含めて、この世のすべての存在を愛する、という大きな飛躍を遂げる準備が整う。すなわち、イエスのような進化した存在たちが「汝の敵を愛せよ」と言って伝道したのと同じ、無条件の愛に達する最終段階に入るのだ。
もちろんこれは、一朝一夕にできることではない。最初の段階から最終段階に到達するには、途方もない歳月が必要となろう。
喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違いで、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。
愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。
喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言うのは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてしまって、喜ばせたのは相手のエゴだけだった、ということもあるからだ。
しかも、自分の自由を失って、相手のエゴに自分の意志を服従させて機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。それでは、手助けと機嫌取りとを、どう見分けるといいのでしょうか?
自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばすだけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。
真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるように、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。
完全性へと向かう過程において、魂がある程度の期間にわたり利己的な段階を経ることと、それが多くの転生で継続し得るのは避けられない現実だが、それは有益であるとも言えるのだ。なぜなら、自分の個別性や意志を再認識して、愛がない時にどう感じるかを味わえるし、愛を感じられるようになるにつれて、愛がある時の気分をありがたく思えるようになるからだ。
そのため、初期的虚栄心と名づけられるエゴの最初の顕現形態は、若い魂に特有なものなのだが、基本的に物質主義で、最も原始的な本能を充足させることに向けられる。
物質主義と消費主義や快楽主義といった姿勢につきものの貪欲と強欲や情欲が目覚める。そして集団的には、帝国主義や植民地主義、つまり権力や物質的な富を切望して他者を搾取する態度となって現れる。
人類の大部分はまだ霊的な思春期に浸りきっているので、君たちの惑星では未だにこの段階が優勢だ。魂が感情についての知識を得るに従って、このような物質的なエゴは霊的なエゴへと変容していく。それがより発展した虚栄心の段階だ。
その段階でも魂はエゴにしがみついているが、同時に、感情も発達させ始めている。与えることにはまだ抵抗があるが、愛が存在するのを認識できてその恩恵もわかるので、愛を受け取ろうとする。強欲は執着に変わり、貪欲は独占に変わる。だが、それは一夜のうちに変化するのではなく、段階的にそうなるのであり、中間的な虚栄心という過渡期が存在する。
中間期には、エゴのあらゆる顕現形態(貪欲・強欲・執着・独占)が様々なレベルで混在しており、これが現在の地球の支配的な状況なのだ。
これらのエゴのうちの一つから脱却するのにも、計り知れない歳月がかかることがある。しかし魂がエゴを自覚し、それに流されれば他者を傷つけると認識した時から、自己の行為にもっと責任を持ち、自分がもたらす苦悩に関しても敏感になる。するとある時点で、魂は感情に目覚め、愛する必要性を感じ、幸福になるためには愛さねばならないと気づく。
恨みはどこで生まれるのですか?
気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかったことを実行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったためや、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰など)に負けてしまった後悔などから生まれる。
恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力した人たちや、やりたかったことに反対した人たち、自分の困難な状況に責任があると思う人たちに誤って向けられる。どうやっそれに打ち克つのですか?
外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じるかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越えて無条件に愛する能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合があることを理解するように努めることだ。
前にした質問をもう一度繰り返すことになりますが、憎悪、憤り、怒り、恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜めこんでしまえば自分自身を痛めつけることになります。ですから、こういう感情はどうしたらいいのですか?
根本から断ち切ってしまえばいい。それらの感情が内部に目覚めないように努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在しているエゴが顕れたことに気づくのだ。
自分の取り柄が表価されないためにエゴが目覚めるならば、まだ虚栄心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦しむのであれば、自尊心や自負心を超える必要があるのだ。攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなにひどい無礼や非難をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見れば明らかだ。
最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たちだ。二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。
ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないからといって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面の世界を変えるように努力するように。そうした時に、外でのことは、もう怒りの原因とはならなくなる。
攻撃欲はどう乗り越えるのですか?
まず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとしてみなさい。
何を理解しないといけないのですか?
自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。
自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。
また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、あるがままに自分を表現するように努めることだ。
誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためだと理解すべきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたことと同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。
我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現したのではなく、愛の学習とエゴの克服を促進させるためのもので、その多くは生まれる前に自分自身で選んだものだと理解するのだ。そして大半を占めるその他のものは、自分の頑固さと不寛容や羨望など、他者の欲求や意見を尊重したり理解しなかったために、我々自身が招いてしまったものなのだ。
僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、どうして自分の魂を意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか?
それが君たちの世界が教えていることだからだ。魂は存在せず、人とはその体であると教えている。君たちの快楽主義の世の中では、評価される資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、内的な資質(感受性・慈悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されている。
霊界では、それと全く逆だ。すべての霊的な資質が評価される。中でも謙虚さは最も評価される資質の一つだが、外的な資質は、魂個有のものではないので、何の価値もない。外的な資質は、劇の作品が変われば俳優の衣装替えがされるように、ある人生から他の人生で変化するので、状況的な付随物だと考えられている。人は、今生では外見的に美しくても、次の転生では醜いかもしれないし、今回は金持ちでも、次回は貧しいかもしれないのだ。
魂は、肉体から離れている間は、その違いが明確にわかっていて、霊性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。しかし肉体に宿ると、身体との一体感や過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、霊的に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。そして、魂が顕現するということには、個人的に経験したことも他者の経験も、頭から否定してしまう。
怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか?
すでに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分をあるがままに表現するのをやめてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してしまうことだ。人は自分自身でいなければ、自由意志が囚われているので、霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされる。恐れに支配されてしまうのだ。そして、失敗すると思いこむので、霊性進化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。
怖れとは、地球の権力者たちが人類を操り、霊的に停滞した状態に保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、挑戦をやめさせるのだ。
それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性や愛や同胞意識が目覚めて彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権力を奪われるのが怖いのだ。例を挙げて下さいますか?
たとえば、人類全体の同胞意識に賛同するすべての運動に対する恐れを作り出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して恐怖体制を敷く。全人類のための連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治や経済のシステムを導入すれば、その後で混乱や無秩序、騒動や経済崩壊などが起こるだろうと脅かして、恐れを生み出す。彼らは、自由は奔放となり、自由思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習や堕落や不道徳をもたらすと予告する。
地球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠はどれも隠蔽し、他の世界の生物と接触することの危険性を映画を通して助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィルス)をしていて、体内に入りこんだり、人類を滅亡させる悪意を持っているのだと思わせようとする。
人が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上することだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。そのため、死後の生の存在を示すものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃げこむ。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信したりすることの恐ろしさを、映画を介して助長する。その中では、生きている人間の魂を支配して苦しめる幽霊や悪魔、血に飢えた吸血鬼やゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をどれもおぞましく描いているのである。それに一役買っているのが、恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによってすべての人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わるように仕向けている。全映画の90%は、テロリスト、連続殺人犯、レイプ犯、麻薬密売人、宇宙からの侵略者、ゾンビ、様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な存在に姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっともっと沢山の恐れが外部から加わるようにする。
内面の意識的な改革とはどういうことですか?
それは自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的(愛における進歩とエゴの排除)が明確で、欠点がどういうものでどのように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができる。
一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程度愛に基づいて行動し、どれほどエゴによって行動したのか、また、他の人たちはどれほど愛またはエゴによって行動したのか内省してごらん。こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出すことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなる。
他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の利己的な態度に気づけば、流されてしまったとわかるが、自覚することができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しよう、と固く決意するのだ。
こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るだろう。でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか?
それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公平になりやすく、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、何の配慮もしないものだ。
もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めている。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。
しかし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するためと、他者も改善できるように助けるためである。ここでは、現実を、大げさにも覆い隠しもせずに、あるがままに見ようとしているのだ。実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを排除することが進化のプロセスの一環となっている。それに、初めに認識することなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?
エゴに触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を赦さないといけないのだと思っていました!
赦すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つまり、原因となる場面ごとのエゴについても掘り下げる必要がある。
たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動している。
霊性進化のプロセスや克服すべきエゴの段階と、エゴがそれぞれの段階でどのように顕現するのかが理解できなければ、羨望、嘲笑、批判、中傷などや、もっとひどい利己的な態度を赦すことはとても難しいだろう。それでは、自分自身がエゴのどの段階にいるのかを知ることは可能ですか? つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか?
ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかがわかるだろう。
ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つかの指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解することはかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいる。
もう話したことだが、どの人にも指導霊たちがついていて、助けて欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれる。また、肉体を持った人の中にも、その内なる能力によって君たちに手を差し伸べられる人がいる。
しかしこれもすべて、各人の意志による。エゴに捕らわれていて前進したがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしない。そのため、霊界から与えられる助言にも、もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。
自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取ろうとも耳栓を除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれるのを聞こうともしない。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む主要因たるエゴを放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援を受けるつもりもないのだ。
先天性の病気の場合、何がその原因ですか?
前世での行いに原因がある。病気は、エゴに駆られて犯した「愛の法則」に反する行為で貯まった負債を清算するための試練なのだ。
言われることがわかりません。病気が過去の行いとどう関係するのですか? 病気をどのように前世から他生へと繰り越すのですか? もう少し教えていただけますか?
人は「愛の法則」に違反すると、「霊的な作用と反作用の法則」により、その行為が心理的毒素となって魂に浸透し、波動レベルを下げ、その様相を乱してしまう。
波動低下に呼応したこの乱れは、しまいには、メンタル体や将来の肉体の型となるアストラル体など、より濃密な体を変化させてしまうのだ。転生時にアストラル体が乱れたままだと、肉体の遺伝子コードに変異を起こしかねず、先天的な病気を引き起こす。
だから、たとえ前世のものであろうと、病気の要因がエゴであるというのは、やはり正しいようだ。
魂が「愛の法則」に違反すると、次の転生で病気にならされるのですか?
いや、そうではなく、心理的毒素を除去する方法は幾つかある。
悪かったと反省することを愛ある行為で償っていけば、病気を体験することなく、魂の毒素を取り除ける。だから先ほど、病気の原因がエゴであれば、愛が諸悪の解毒剤と処方箋になる、と言ったのだ。したがって、必ずしも病気になって毒を消散させる必要はないが、それが一番手っ取り早い方法なので、多くの魂がそうすることを選んでいる。
明らかなのは、毒素の重荷を取り除くために何かをしない限り、それは残ってしまい、より高次の愛と幸福へと魂が進むことを阻止してしまうということだ。
では、劣った世界に転生する高次の魂が、学ぶためにではなく、教えるためにだけやって来るのだとしたら、その人生ではあまり進化できないのでしょうね。
いや、そうではなく、人生のいかなる試練からも学び取ることができるので、教えるためだけではなく学ぶためにもやって来るのだ。そして、自己の愛と理解の度量を常に試されることになるので、自分と同等レベルの世界にいるよりも、速く進化できるようになる。
さらに、愛に満ちた環境では露呈せず、極限状況でなければ表面化しないような、奥深く隠れた自分の欠点を浮き立たせてくれる。こうして、欠点を改善する機会が得られるので、エゴ(我欲)を除去する上で前進できるのだ。
霊性の道には、近道などないのだ。我々を霊的に進化させる、すなわち「救済する」唯一のものは、自己改善であり、エゴを手放し愛の能力を成長させることだ。それ以外にはない。
それでは、神によって選ばれた民ということについてはどうですか?
神に優先される民族や人間など存在しない。神や高次の霊性は、他の者をないがしろにして特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、すべての人に進化の計画を推し進めるように呼びかけるのであり、それに協力したいかどうかを決めるのは各魂である。もちろん、神の法則に従うようにと、誰にも強いられることはない。
望みとあれば、各人の意志と能力に応じて、個人または集団での人類の進化計画の中で、具体的な役割を果たす約束をすることが可能だ。これが、魂の選択なのである。
ゆえに「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎず、それによって、自分を成長させるだけでなく、まだこの呼びかけに心を許していない者の手本となるのである。
でしたら、なぜ世間では、霊との交信がこれほど反対されるのでしょうか?
それは、この世の宗教権威者やその他の権力者たちの多くが、個人が自力で神や守護霊と交信することを阻むことによって、支配力を維持しているからだ。
霊界との接触を怖れさせようと、明確に意図して作成された映画は無数にある。それらは、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、『ポルターガイスト』、『エクソシスト』などの恐怖映画で、すべての交信が恐ろしい、と思いこませるのだ。
こうして、誰もが怖れによって自分自身を異端視し、直感や夢などであろうと、霊界からのメッセージかもしれないと思う度にそれを無視したり、誤って解釈してしまうのだ。
いいかね、カトリック教会や他の多くの宗教が、善人とは従順であることに等しい、と君たちに信じこませたのだ。特に、教会の規則に従順になることだと思いこませ、意のままに信者を扱えるようにしたのだ。
しかし、慈悲深いのと従順なのとは全く異なることだ。規則に従順で、社会的には表面上で親切になれても、個人的にはエゴに完全支配された真の「悪魔」であるかもしれないのだ。規則や儀式をひどく愛好したのに隣人を全く愛そうとしなかったパリサイ人を、イエス自身も「白く塗った墓」と評し、そういう偽善を批判した。
反対に、正直者で偽善を嫌う善人なのに、決められた規則に従わないがために、人から良く思われない者も沢山いる。そういう正直で誠実な人がいると、そうでない者との違いが際立つため、危険視されて蔑まれることすらある。
ここにイエスの手本がある。イエスはユダヤ教会の権威者の命令には従順ではなかったが、勇敢で、自己の霊的な信念に首尾一貫していた。自分の考えを公に布教すれば山ほど問題を引き起こすと知っていたが、暴力を用いず真実と愛の力で、彼を黙らせようとした輩に立ち向かったのだ。多くの人もこれに追随した。
歴史上には、支配者に「従順」でなかったために、ローマでは競技場でライオンに貪られたり、異端や黒魔術の宣告を受けて焚き火で焼かれるなど、死に至る拷問を受けた正直者や善人の事例は山ほどある。しかしそれでも、彼らは、自由で愛することができたのだから、幸せ者だと見なされるべきだ。進化の劣った同胞からは苦しめられたので、きっとそれに見合う代償を受け取ったであろう。
奴隷のような規則に従いながら心と感受性を抑圧し、苦々しい無意味な人生を送る自分を嫌悪している上に、宗教にも洗脳されて、不毛な苦悩自体が善人に変えてくれる、という幻覚を信じる者の状況の方が、ずっと悲惨だ。内面では、自由で本当に幸せな者を羨んでいるのだ。中には嫉妬により、他者の罪悪感を弄んで、嫌な思いをさせようとする者もいる。罪悪感を利用することは、意志の放棄をさせるために教会がよく使った手口なので、彼らも充分心得ているのだ。
確かに君たちの中には、霊性において他者を導いて助言できる人たちもいる。そのような人たちは、何度も転生して内面を改善する努力をしたので、霊的な真相についての幅広い知識ともっと発達した愛の能力を備えている。
でも、それらの人は仰々しいやり方を取らない。司教や聖人だなどと自分で名のったりはしないし、特別な衣装をまとうこともない。
彼らは表面的には普通の生活を送っているが、内面を改善したいという強い意志と、他者を助けたいという強い思いがある。自己顕示も目立ちもせずに、無私で行動し、手本となって教える。そして彼らとの比較によって、道徳性がそれほど高くないことが明らかになってしまった者たちからの、多大な侮辱と中傷とに耐えなくてはならないのだ。
霊的世界からの影響は、無神論者であろうと不可知論者であろうと別の宗派の信者であろうと、君たち全員の一人ひとりに感じ取られるものだ。だが、自分自身で選択できるようにと、それはとても精妙になされるのだ。まず一人ひとりが、それぞれの最良のガイドである良心の声を聴き、それから進みたい道を選び取るのだ。